須磨
「……これは困りました」
東京都千代田区神田神保町に聳える極端に窓が少ない建物。
その建物の主である天野川夜見子が初めて手に入れた紫式部直筆の「源氏物語」の一巻「花宴」を読み終えてから二年が過ぎた今から五年前の梅雨の真っただ中のその日。
すでに三十分以上も渋い顔で唸り続けている彼女の目の前には最近別々の蒐書官が手に入れてきた二冊の古い書が置かれていた。
大きさ、厚さはほぼ同じ。
さらに色の濃さこそ違うものの同じ紫色の表紙に書かれた文字も同じ「須磨」。
そう。
その二冊とは五十四帖からなる日本文学史上最高傑作源氏物語の十二番目の物語だった。
さらに言えば、その二冊は平安時代に書かれたもの。
日の当たる世界では源氏物語は鎌倉時代のものが現存するもっとも古い写本とされており、当然ながら彼女が手にしているそれはそれよりもはるかに古い時代のものである。
同じタイトルのものとはいえ、そのような貴重な書を一挙に二冊も手に入れた彼女がいったい何を悩んでいるのか?
「内容がほぼ同じというのは同じタイトルなのだから仕方がないとして、書かれた字体も同じというのはどういうことなのでしょうか」
むろん彼女が口にした疑問に答えるのはさほど難しいことではない。
同じ字体で書かれているということは、ほぼ間違いなくその二冊は同じ人物の手によるものである。
彼女だってそのようなことは十分に承知している。
「問題は……」
ふたたび思考の行き止まりに辿り着いた彼女はそれまで何度も口にした呪文のようなその言葉を呟く。
「……その人物が源氏物語の作者自身だということなのです」
作者、それはつまり紫式部ということになるのだが、これについては、少しだけ説明を加えておくことにしよう。
実際のところ、この世の大部分を占める日の当たる世界はもちろん日の当たらない世界においても紫式部本人の手によるものは手紙類を含めても何も残されていないとされているのだが、実際には数は多くないものの様々な形をとっていつの時代にも出回っていた。
もちろん、そのどれにも紫式部の署名があったわけではなかったので、その書き手が誰かなど気に留める者などいなかったのだが、明治時代のある日それに気づく者が現れる。
その人物こそ立花家における究極の存在次期当主立花博子に次ぐ才の持ち主とされる二代目当主譲治であり、彼は自らにだけ与えられた特別な能力を駆使して当時日本の表裏両面で出回っていた式部直筆の書はすべて集められ、彼に続く歴代当主たちもその仕事を引き継いでいた。
そして、現在立花家からその管理を任されているのが、この建物の主である天野川夜見子であり、当然ながら彼女の手元には紫式部の自筆の書がサンプルとして多数用意されていた。
そのため今回彼女のもとにやってきた二冊の「須磨」がともに式部によって書かれたものであると断定するのはそう難しいことではなかったのであるが、今回はそれが仇になった。
たとえば、これがこの書の書き手が誰なのかがわからないままで決着していれば、彼女の持つ能力によって単に「平安時代に生きた非常に筆まめなひとりの女性によって書かれた源氏物語の第十二帖『須磨』の最初期の二冊の写本」と断定され、問題など起こらずにすべてが解決したことであろう。
それが、なまじ紫式部の手によるものとわかったばかりに、いったいこれのどちらが原本なのか、それどころかこうなってくると本人の手による写本は一種とはかぎらず、もしかしたら実はこの両方が写本ではないかなどという妄想まで加わって思い悩むことになったというわけである。
さて、すでに何日にもわたって彼女を悩ましているその二冊の「須磨」であるが、まずは彼女のもとに届いた順に、その手に入れた過程を話しておくことにしよう。
まずは、のちに「濃紫本」と呼ばれることになるものから。
埼玉県熊谷市、JR熊谷駅前。
テレビ局がこぞって中継するために、いまや全国的にも夏の暑さが厳しい場所として有名となったこの地にふたりの蒐書官が現れたのはその過酷さを話題にするにはもう少し時間が必要な、そんなある日のことだった。
「今日訪ねるのはどのような方なのですか?」
大学生と名乗っても十分に通用しそうなその若い男が雨雲の垂れ込める鬱陶しい空を恨めしそうに眺めながらそう訊ねると、彼の先輩にあたる男は答えとなるその言葉を口にする。
「千秋万春。職業は画家。だが、まったく売れていないので実態に即して言えば自称画家だな」
「……画家ですか。しかも、自称」
……せめて私でも知っている巨匠と呼ばれる人にして欲しかったな。
画家という職業は意外、と同時にそこに加わった「自称」という形容詞に多大なる落胆の気持ちが込められた彼の言葉に先輩蒐書官は眉間に皺を寄せる。
「訪ねる相手が無名の画家であることに何か問題があるのかね。水月君」
先輩の言葉に彼が答える。
少しだけ、自分にとって都合の悪いことから話題をずらしながら。
「そういうわけではありませんが……それで、その自称画家は古書コレクターなのですか?」
もちろん先輩蒐書官は彼の意図をお見通しだったが、あえてそれには触れず、言葉を返す。
「そのような趣味があるかどうかは知らんな。実を言うと、売れてはいないというだけは知っているが、それ以外は……つまり、いったいどのような絵を描く者かも知らない」
「それで、どうして?」
「まあ、つきあいのようなものだ」
「つきあい?」
「ああ」
それだけを口にして歩き出した先輩蒐書官は、時間調整のために入った近くのカフェでコーヒーを注文すると、ようやくその変わった名前の画家をなぜ訪ねることになったのかを語り始めた。
その始まりは浦和市のとある喫茶店での会話だった。
「……ところで芦名さん。今日は折り入ってお願いがあるのですが」
「こちらに有益な情報もなしでの金の無心なら断固お断りだ」
「まあ、そう言わずにとりあえず話だけでも聞いてください」
彼は言葉の主を睨みつけるように眺め、やがて大きなため息とともにその言葉を吐きだす。
「……わかった」
何事もビジネスライクでおこなう彼であっても、さすがにそこまで言われては無下に断ることはできない。
なぜならこの男は彼にとって自らが属する比較的規模の大きな闇市場の情報を流してくれるありがたい存在だったのだから。
「時間が惜しいので話は端的に頼むよ」
「はい」
渋々と言わんばかりの彼の言葉に笑顔で応えるその闇市場関係者藤島淳一が語ったあらましはこうである。
彼の知り合いである売れない画家千秋万春は最近自分の寿命がそう長くないことを知った。
だが、画家としてまったく成功していないその男には当然妻や子に残せるほど蓄えなどない。
さいわい自宅は親から引き継いだ熊谷市の一等地にあったのだが、男の心配とはまさにそれだった。
偶然にやってきた藤島に彼はその悩みを打ち明ける。
「つまり、相続税ということですか?」
「そう。それに画材等々の借金もある。このままでは唯一家族に残せる土地が取られる。そこで頼みだ」
ここまで来てようやく目の前の男が自分に何を言いたいのか見えてきた藤島は釘を刺すためにハッキリとした意志表明をする。
「たしかにあなたとは古いつきあいだが、さすがに税金や借金の肩代わりするほどの仲ではない」
もちろん、それは生き馬の目を抜くことが日常茶飯事である彼が属する世界だけではなく、世間一般においても冷酷と批判を受けるようなものではないはずなのだが、男はなぜかまったく納得せず、必死に食い下がり、あろうことかとんでもない提案を始める。
「もちろんタダでとは言わない。アトリエに保管しているすべての作品を君に譲る。これなら文句はあるまい」
「君の絵を?」
「そうだ」
真剣そのものという顔で語られたそれを聞いた彼は心の中で笑い、表面上では渋い顔をつくる。
当然である。
……おまえさんの絵を買うなど金をドブに捨てるようなものだろう。
……それでどうやって文句を言わずにいられるのというのだ。
それが専門外である絵画の目利きもそれなりにできる彼による男の絵に対する評価だった。
「いや、君の絵を譲られても……」
「そんなことはないだろう。君ならいくらでも売るルートがあるはずだ」
「いやいや、私はしがない……」
「私は知っているのだよ。君の本当の本業を」
そこから男の言葉は懇願から脅しに色合いを変わっていく。
自分の絵を希望価格で購入してくれなければ君の裏稼業を官憲に伝える。
それが最終的に行きついた男の言葉だったという。
「そのようなつまらぬ世間話を私に聞かせる暇があるのなら、さっさとその男を消せばいいでしょう。あなたたちの組織にもそれ専門の掃除屋がいるだから」
それを聞いた現役蒐書官が彼ららしい発想であっさりとその言葉を口にすると、男は苦笑いを浮かべる。
もちろんその方法があることは言われなくてもわかっていたのだが、諸事情によりそれができない男の胸には実はよい腹案があり、さらにいえばそれはすでに実行済みであった。
「まあ、それはそうなのですが、余命いくばくもない男を殺しても寝つきが悪くなるだけいいことなどまったくないです。そこで……」
……なるほど。言いたいことはわかった。
……だが、その手には乗らん。
目の前の男が言外に何が言いたいのかをすぐに察知したものの、関りを持つ気などまったくない彼はあえて気づかぬふりを通すことにした。
彼が口を開く。
「では、言われたとおりに買い取りしてやればいいでしょう」
「それがそういうわけにいかないのですよ」
「どういうことですか?」
「彼が要求した金というのが二億円なのです」
「二億?それはたしかにあなたにとっては笑って払ってやれる額ではないですね」
「はい。そのとおりです。ですから……」
……泣き落としか。だが、これだけ人の目が多いところでそれをやられると目立つ。
……そして、なによりも私が悪人に思われる。
……仕方がない。
……では、話だけでも聞いてやるか。
「私は絵に関してまったくの無知なのですが、彼の絵は実際のところどれほどの価値があるものなのですか?」
「まったく」
「本当に?」
「本当に」
「つまり、タダ同然どころか、ゴミにしかならぬ絵を二億円で買えを言っていると」
「簡単にいえばそうなります」
「……ご愁傷様」
「そう言わずにお願いしますよ。芦名さん。今回限りです。どうぞ助けてください」
「つまり、押し切られたというわけですか。珍しいですね。芦名さんがその程度の泣き言に落とされるとは」
「まあ、結果だけでいえばそういうことになるのだが、奴は私の許可なしに自分の代わりに金払いの良い上客を紹介すると約束してきてしまったものでね。その場を取り繕うために仕方なく承諾したというのが正しい説明だ」
「ですが、それは相手が勝手に言ってことでしょう。無視しても構わないと思いますが。それとも、他に何かあるのですか?」
彼の言葉に先輩蒐書官が答える。
「なくはない」
「と、言いますと?」
そうであろうとは思ったものの、それでも少しだけ驚いた彼の問いに先輩はさらに言葉を続ける。
「実際のところ、私も君の言うとおり勝手に決めてきた約束など無視しようかとも思ったのだが、その千秋万春なる奇怪な名前の自称画家に興味が涌いたので少々調べてみた」
「何か出ましたか?」
彼の言葉に先輩蒐書官が頷く。
「たしかに画家としての評価はさっぱりのようなのだが、我々が動くに値する理由は見つかった」
「何ですか?」
「確定ではないものの、古い書物をいくつか持っているようだ。具体的には少なくても三冊を小さな闇市場から購入している。しかも、このうちの一冊は買い主の収入を考えれば身分不相応なほどとてもいい値段だ。もしかしたら借金の大部分はその書のものかもしれない」
「なるほど。ですが、金に困っているのなら金になるその本はすでに売っているのでは?」
「普通はそうだ。だが、それが確認できるのは購入だけで販売の痕跡がないのだよ」
「つまり、まだ所有している可能性があると。その男は読書家ということなのですか?」
「いや。絵を描く以外には何も興味を示さない男らしいから、おそらく絵の小道具として本を手に入れたのだろう」
「売れもしない絵のために高額の書を手に入れる。それはたしかに興味深いですね。それで、いったいどのような書を?」
「調べられたのは今話したところまでだ。だからそれを調べ、場合によっては買う。特別差し迫った予定があるわけでもなし。暇つぶしも兼ねて義理を果たしにいくことにしたのだよ」
「ですが、実際に買わなければ義理は果たせないのでは……」
「まあ、そのときはそのときだ。それよりも言い忘れていたのだが、今回の我々は蒐書官ではなく一風変わった金持ちコレクターに珍品を高く売りつける胡散臭いバイヤーとして画家の家を訪ねることになっている」
……胡散臭いバイヤー?
先輩の言葉に彼は顔を顰める。
……誇り高き蒐書官が、そんなものを騙るなど……。
「何ですか?その怪しげな設定は」
思わず漏れ出した彼の言葉に先輩蒐書官が待っていましたとばかりに答える。
「奴が口から出まかせにつくった我々の肩書だ。だが、画家のもとを訪ねる者が絵に興味がないのでは話にならないし、さりとてたとえ売れていなくても相手はプロだ。一夜漬けの知識などで知ったかぶりをしていてもすぐに化けの皮が剝がれるだろうからそれくらいでちょうどよい。それに……」
「それに?」
「実際に胡散臭い男である水月君にはその称号はピッタリだろう」
三十分後。
時間どおりにやってきた胡散臭いバイヤーという肩書を押しつけられた若い男と彼の先輩にあたる人物を快く出迎えたその家の主はふたりが考えていたよりもずっと元気だった。
というよりも、事前にそれを聞かされていなければ彼が棺桶に片足を突っ込んでいるとは思わない。
男の様子を有り体にいえばそのようなものだった。
母屋から少し離れたアトリエへとふたりを案内する万春の背中を眺めながら彼は思った。
……この男は本当に寿命が尽き欠けているのか。
……それとも精一杯そう見せているだけのカラ元気というやつなのか。
……まあ、とりあえず残り少ない人生を楽しんでもらいたいのだ。
「……芦名さん。それにしても千秋氏は随分元気ですね」
「そうだな」
先輩蒐書官も同じことを考えている。
このとき彼はそう思った。
だが、その先輩はこの時彼とはまったく違う思考を巡らせていた。
……これは偽りの元気などではない。
……そもそも死が目の前に迫っているほど悪いところがあるのなら治療に専念すべきであろう。それが、家族もふくめてその様子がまったく見られないというのは実におかしい。
……もしかして、もう少しで迎えが来るというのは絵を売るための狂言ではないのか。
……だが、奴を脅す十分なネタを持っていたこの男はそのようなつまらぬ細工をする必要はない。
……かといって、我々をここに引き込むためにふたりで一芝居打ったとも思えぬ。
……ということは、少なくてもどう見ても健康なこの男のなかではもうすぐ死ぬということは事実であるということか。
……となれば、考えられる可能性はひとつ。
……そう。あれだ。
「ようこそ。我がアトリエへ。そして、これが私の作品だ」
万春は大仰な仕草で示すそれは広い仕事場とそこに並ぶ膨大な作品群だった。
……下手ではない。
それが後輩蒐書官の第一印象だった。
……ただし、絵に特徴がない。
……つまり、どこかで見たような上手い素人が描く程度の絵。
……たしかにこれでは売れん。
……まして、二億円など。
一方、この日のために後輩よりは準備してきた年長の男が口にしたのはもう少し踏み込んだものだった。
「日本画の画材で印象派に近い絵が描かれているように思えますが」
「まあ、正確ではないがまったくのハズレではない。主に扱っているものは絵画ではないと聞いていましたが、さすがバイヤー。最低限の知識はあるわけですね」
「恐れ入ります。ということで、まずは先生の絵を一通り見せていただきましょうか」
「うむ」
彼が口にした「先生」という言葉は、男が長年追い求めていたものであり、その甘美な響きに酔いながら、万春は機嫌よく次々と絵の紹介を始めるが、男が背を向けた瞬間、先輩蒐書官の口が動く。
「……水月君。絵に本が描かれていないか十分注意するように」
もちろんその囁きのような言葉が何を示しているかを理解している彼は大きく頷く。
そう。
彼らの探しているもの。
それはもちろん本。
そして、やがてそれは現れる。
「……でましたね」
「ああ」
ふたりが足を止めたのは本を持った女性が椅子に座った様子が描かれたごくありふれた絵であった。
……それにしてもこれは驚きだ。
もちろんその心の声を口にはしない。
口にしないものの、それはどうにか押しとどめているだけであり、ほんの些細なことで暴発するくらいの衝撃的なものでもある。
ふたりの視線がその絵に集まっていることに気づいた万春は彼らの思惑を完全に取り違えて声をかける。
「この絵が気に入りましたか」
「……ええ。たいへん」
そうは言うものの、もちろん彼らが見ているものは凡庸という言葉がぴったりなその絵そのものではない。
そこに描かれている紫色の表紙の本。
さらに言うのなら、はっきりと読み取ることができるそこに書かれている文字。
……おそらくこの男はこの文字が何と書かれていることはもちろん、その本が何かも知らないのだろう。
……そして、先ほどの芦名さんの言葉が正しければ、この男はそれがどのようなものかを確かめることさえしなかった。
……我々にとってそれは実にありがたいことではある。
……だが、問題はこれを現在でもこの男が所有しているかどうかだ。
……この本。
……すなわち源氏物語第十二帖「須磨」を。
物珍しさを匂わせながら実は何かを探すように辺りを見回すもうひとりと違い、先輩蒐書官は案内されるままにさらに画家の絵を眺め、いくつかの絵については過剰なまでに飾り立てた言葉で絶賛する。
むろんこれまでこれほどの評価を受けたことのない画家の気分が悪くなるはずもなく、お礼とばかりに相手の目の確かさを褒めたたえたわけなのだが、もちろん彼は気づかない。
相手が賞賛した絵が持つ共通した特徴に。
一方、それに気づいていた若い男は心の中でニヤリと笑う。
……なるほど。そういうことですか。
……つまり、すでにあれを手に入れるための交渉は始まっている。
……そして、これはその序章。
やがて、作品のすべてを見終わった年長のバイヤーは自らがピックアップした五枚の絵画の購入を決めた。
その提示額一億五千万円。
友人に要求していた二億円には届かないものの、一枚あたり三千万円という高額の提示額を画家が拒むはずもなく、ふたりの男が契約の証しとして握手を交わす。
「……芦名さん」
「まったく問題ない。元は取れる」
さすがにこれは高すぎると不安になり、思わずかけてしまった年少者の言葉を軽く払いのけた先輩はまったく止まることなくさらに進む。
本命であるその品を手に入れる交渉を始めるために。
実はこのときにはすでに多くの保険をかけたプランを構築し終えていた先輩蒐書官の笑顔を含んだ口が開く。
「ところで、先生は多くの絵で魅力的な小道具を使用していますね」
「……さすがですね。私が準備段階でもっとも気を遣っている点がそこなのですよ。そういえば、アンティークがあなたがたの専門だとか」
「まあ、私どもの顧客は少々変わった方なので好みのものを見つけ出すのが大変です。せっかくですから、絵と一緒にそこで使われた小道具も一緒に譲っていただければありがたいのですが」
「なるほど。セット販売で儲け倍増というわけですか」
「まあ、そうなります」
「いいでしょう。絵に使用したものは別室で保管しています。絵を高値で購入してくれたあなたがただ。別料金でよいのならそちらを売ることもやぶさかではないですよ」
「ありがとうございます」
……まさかの瞬殺。
……それにしても、驚くべきは相手の心の奥まで読み解き、相手が最も欲しているものをエサとして選び出す芦名さんの洞察力。
……しかも、そのエサは十分な満足感を与えつつ、相手を更なる欲望に駆り立てこちらの要求を断らせないという過不足ない絶妙な匙加減。
……そして、食いついた相手を絶対に逃がさない驚異の引き。
……しかも、それらすべてを相手にはまったく悟らせない巧みな話術。
……これがベテラン蒐書官の実力ということか。
……私が芦名さんの域に達するのは相当先になりそうだ。
自分と先輩蒐書官との力の差を実感した彼は心の中で脱帽し苦笑するしかなかった。
そして、もちろんそれはその部屋にあった。
……よし。
……しかも、見た目は意外に古い。
……つまり、期待できる。
万春が資料室と呼んでいるその部屋には彼が描いた絵画に登場した多くの小物が並べられていたが、テーブルの上に無造作に置かれていたそれを見つけた後輩蒐書官はすぐさま近づこうとするが、押しとどめる手があった。
「……芦名さん」
……我々がまず向かうべきはそちらではない。
視線によってその言葉を伝えた先輩蒐書官が手にしたのは、彼らの仕事には縁もゆかりもないガラス製の花瓶だった。
先輩蒐書官の口が開く。
「これはなかなかいいものですね」
「そうですか。実は私もそれを気に入っていて、これを小物として使っている絵は何点もあります」
「ほう。それは気づきませんでした」
もちろんこれは嘘である。
なにしろ、その男が目的のもの以外にもうひとつ探していたものがこれだったのだから。
そのような素振りなど微塵も見せることなく男が言葉続ける。
「ですが、あれはそれほどたいした値打ちがあるものではありません。ただ、妻からプレゼントということもあり……」
「……なるほど」
……このような粗末で見栄えのしない品を何度も小道具として使用するのにはそれなりの理由があるとは思っていましたが、そういうことでしたか。
……では、今の言葉をさっそく利用させていただきます。
先輩蒐書官は心の中でそう呟くと、もう一歩踏み出す。
「価値は購入金額で決まるものではありません。それは先生が一番知っているはずです。ですが、そういうことなら手に入れるのは遠慮し、その代わりにこれが描かれた絵を追加でもう一点追加で購入することにしましょう。もちろん三千万円で」
「そ、それはありがたい」
やがて、ふたりが立ち止まったのは先ほどの絵よりから少し離れた場所にあるテーブルだった。
「……おや」
そう言って偶然を装い手に取ったそれこそ彼らにとっての本命の品だった。
だが、ここで彼にとって予想外のことが起こる。
……何だ。これは
……たしかに源氏物語の古き写本。
……それはそれで十分驚きなのだが、さらに驚きなのはその古さだ。
……平安時代にまでかなり遡れる。
……いや。待て。
……この字体は女性。しかも、見覚えのあるもの。
……これは間違いなく紫式部。つまり、これは写本などではなく源氏物語第十二帖「須磨」の原本。
もちろんどのような写本であってもそれは彼ら蒐書官にとって絶対に手に入れなければならないものであったのだが、それが紫式部直筆となれば、さらにそのランクは数段、いや数十段階あがる。
……どうする?
もちろん一気にケリをつける手もある。
だが、目の前にいるこの画家のような武器も持たない素人相手にそれをおこなうことは蒐書官にとって最低のなかでも最低の行為とされ、特に彼のような交渉技術に自信があるベテラン蒐書官の間ではそれを卑しいものとする傾向はより強くなる。
……今のところ流れは悪くない。
……手順さえ間違えなければいけるはずだ。
……それなのに、なぜわざわざ愚かな行為をせねばならんのだ。
……馬鹿馬鹿しい。
一瞬だけ心によぎったすぐにでもそれ手に入れたいという衝動をすぐに捨て去った彼は自らを落ち着かせるように大きく息を吸い、言葉を吐きだす。
「こちらもいいものですね。絵を見た時からよいと思っていましたが、現物はさらに素晴らしい」
「……ほう。さすがにプロは目のつけどころが違いますね」
……よし。
たっぷりと色気を含んだ誘いの言葉にすぐに好意的な返答があるということは十分に脈がある証拠だと判断した彼は、慎重に、だが確実に相手を導く次の言葉を選び出す。
「……と言いますと」
「これは私が購入したもので一番高価なものです。それをピンポイントで選び出すのですから、さすがとしか言いようがないでしょう」
「ありがとうございます。ちなみに、先生はこれをおいくらで購入されたのですか?」
「六百万円」
「……六百万円……ですか」
それは本来の価値から考えればタダ同然の値段ではあったのだが、それでも、彼が事前に手に入れていた情報よりも五割ほど高かった。
……つまり、盛ったか。
……だが、それは上々。
彼の経験上その価値を高く見せようとするということ、それはすなわち売る気は十分にあるということだ。
彼は零れそうになる笑みを必死に抑え、ただただ渋い表情をつくる。
「いい値段ですね」
「そうでしょう」
「……ですが、相応の金額を払えば売っていただける」
「……どうしてもということであればそうなります」
「では、お伺いしましょうか。その値段を」
「そうですね。二千万円なら譲ってもいいです」
……買った。
もちろん大声で叫んだそれは心の声である。
「……困りました」
実際に出てきたのはそれとは大きなギャップのあるその言葉だった。
「では、こうしましょう。さらにそこにある四冊の本をつけていただけるのであれば、その金額をお支払いいたします」
「いや。五冊であるのなら三千万円」
むろんその金額を支払うことに何の異存もない彼であったが、交渉技術上そうはいかず、形ばかりに定石の一手を打つ。
「……では、間をとって二千五百万円」
「いいでしょう。それにしてもさすが商売人。交渉とはこういう風にやるものなのですね」
「先生こそ十分に商才がありますよ……」
そう言ったふたりは再び右手を伸ばす。
「これで商談成立です」
それから十日後に彼女のもとにやってきたもうひとつの「須磨」。
「濃紫本」の例からいけば、ぼやけた紫色の表紙であるこちらは「薄紫本」となるはずであり、たしかに一時的にそのような呼ばれ方もしたのだが、結局その呼び名は定着しなかった。
その理由については、別の場所で大いに語ることとして、とりあえず話を進めることにしよう。
偶然が重なってそこに辿り着いた「濃紫本」とは違い、こちらの「須磨」については明確な意図を持ってその探索はおこなわれていた。
もちろん「須磨」をピンポイントで探していたわけではないのだが。
そして、その手がかりとなったのは、もちろん夜見子が最初に手にした紫式部直筆の源氏物語である「花宴」であり、その買い取り交渉にあたった蒐書官たちによって、特定されたと言うにはかなり広い範囲ではあるものの、その取得場所はすである程度まで絞られていた。
当然彼らはそこを探す。
柳の下の二匹目のドジョウを求めて。
そこからこちらの話は始まる。
ふたりが京都府の名所のひとつ天橋立を眺めることができるその地に現れてから三日目となるこの日。
「朝霧さん」
休憩を兼ねた少々遅い午前のコーヒータイムのために眺めの良いカフェに入ると、彼は先輩蒐書官に声をかける。
「鈴川君の言いたいことはわかっている。拠点を綾部ではなくこの地に移すべきではないのかということだろう」
「そのとおりです。やはり、行きかえりの時間はいかにももったいないとは思いませんか?」
彼の言葉に先輩蒐書官は頷く。
「それは一理ある。だが、そうであってもやはりここを拠点にするのは考えものだな」
「理由は?やはりホテルの料金が高いからですか?」
「そうであれば京都市内のホテルなど今後利用できなくなる。理由は別だ」
「と、言いますと?」
「この周辺にある宿泊施設はどれも観光客向けのもので、余計なものは山ほどついているが我々が望むサービスは得られない。その点綾部にはそれについて完璧な場所がある。そのうえ、かの地は交通の要衝で京都市内に戻るにも便利なのだ」
「……たしかに」
「そして、なんと言ってもあそこには『絵砂』がある」
「……なるほど」
朝霧が最後に理由として挙げた「絵砂」とはふたりが最初に綾部を訪れたときから利用している駅前にある小さな喫茶店の名である。
……最後に本音が出たというところですか。
……もっともらしい理由を色々並べてはいましたが、朝霧さんが綾部を活動の拠点にしている本当の理由は言葉通りまちがいなくこれだろうな。
先輩の言葉に頷きながら彼は心の中で呟く。
……もっとも、それについては私も同意しますが。
……最近当然変異のように驚くほどの腕前になったマスターが淹れるコーヒーの味を知ってしまえば蒐書官なら誰であってもそうなるのだろうし。
「今日でこの町での捜索も終了となるわけですが、次はもう少し西を探してみますか?」
彼は心の声を飲み込み、別の言葉を口にすると、先輩蒐書官からの言葉が耳に届く。
「鈴川君」
「はい」
「君はあと半日もあるこの段階で我々の探し物がここにはないと決めてかかっているようだが、それは大きな誤りだ」
「それはそうですが、今のところ掠りもしていないですよね」
「事実だけでいえばそのとおり。だが、だからどうしたと私は言いたい。そもそも我々が探しているものはアタリかハズレかだけであり、君のいうような『掠る』などという中途半端なものは存在しない。それに仮に君の言う『掠る』というものが存在するのならば、現在までそのようなものが出ていない分、これから完全なアタリを引く可能性は十分にある」
「はあ」
「とにかく我々蒐書官の仕事が派手な交渉術だけで成り立っていると思ったら大間違いだ。入念な準備とこのような結果がでない地道な努力がその大部分であることを肝に銘じておきたまえ」
眺めと料金は一流であるが、肝心のコーヒーの味は驚くほどレベルが低く、ふたりをがっかりさせたその店を渋い顔であとにした彼らがやってきたのは、この地では名が知れた旧家のひとつだった。
「ここは今回の探索のリストにはなかった場所ですが」
「畠山氏から追加情報が来たので急遽加えた」
「ちっ」
突然の予定変更についての彼の問いに答える先輩蒐書官の言葉に含まれたその男の名は、彼を複雑な、だが、どちらかといえば負の感情が濃い表情をさせた。
「……ということは、あの元盗人が『花宴』を盗み出した場所をやっと思い出したということですか?」
そう。
先輩蒐書官の言葉にある畠山氏とは、いうまでもなく「花宴」を彼らのもとに持ち込んだ関西地区で骨董品専門に盗みを働いていた男畠山俊次と同一人物である。
ちなみに彼は現在妻とともに橘花グループのホテルで働きながら前歴を生かして朝霧の手伝いをしていたのだが、肝心の「花宴」をどこから盗み出したのかについては今もって口にしていなかったために鈴川にはまったく信用されず常に白い目で見られる辛い日々をすごしていた。
この点について彼の代わりに少しだけ弁明を試みるとすれば、ある日盗んだ多くの骨董品に紛れ込んで偶然やってきたそれが源氏物語の原本のひとつである事実はもちろん、源氏物語の一帖であることすら彼は本当に知らなかった。
しかも、買い取り交渉中はもちろん現在においてもその事実を知らされていない彼にとってそれは詳細を覚えている価値などない粗末な品のひとつでしかなく、当時でさえ気にも留めていない品を長い年月が過ぎたある日突然これについて詳細を語れと言われても、すでにそれについての記憶はきれいに抹消されていた彼にその指示を忠実に実行するのはどだい無理な話だったのである。
もちろん彼の事情をすべて承知しており、後輩と違い畠山をまったく疑っていない朝霧は後輩の口から吐き出される毒のある言葉を平然と受け流す。
「いや。それとは別の、どちらかといえばもっと下世話的な話だ。さて、それよりも先ほどの話の続きをしよう。そこにこの家の蔵が見える。見ればわかるがたしかに古いがそれは実に小さい。さらに外見を見るかぎり日常的には使用されていないようだが、はたしてあの中に我々が探し求めているものはあるだろうか?」
「ちなみに探し求めているものの範囲はどの辺になるのでしょうか?」
「もちろんど真ん中のストライクは源氏物語の原本。君の大好きな『掠る』は江戸時代の書としておこうか」
「古い家財道具や農機具の類しかなかった場合は?」
「もちろんそれはアウトだな」
「では、アウトに一票」
「蒐書官とは思えぬ大胆な答えだ」
「そう言う朝霧さんはどうなのですか?」
「そういうことであれば、ここは当然逆張りしかないだろう」
「つまり、源氏物語の原本ということですか。では、賭けますか?」
「いいだろう。両者ともハズレの場合はより近い方が勝者とする。敗者は今日のディナーを奢るということでいいかな?」
「いいえ。一週間分のディナーでお願いします。そのうち一回は京都の料亭で」
「乗った」
……若狭慶遵。この辺では名家という触れ込みらしいが、少なくても当主であるこの男は実に胡散臭い。
突然やってきた彼らを驚くほどあっさりと迎え入れた目の前に座るその屋敷の主を彼はそう値踏みした。
もっとも、世間一般における胡散臭さという点では、彼と先輩蒐書官のほうが遥かに上であるのは間違いなく、ふたりから差し出された嘘だらけの名刺に目をやりながら同じような思いを抱いた若狭は心のなかで嘲りの言葉を呟く。
……見た目通りの古物商だな。
……金もなさそうだから今回はさっさと追い返すか。
……いや。せっかくだから少し遊んでやるか。
男が口を開く。
「おふたりは東京から来たのかな?」
「そのとおりです。昨日までは舞鶴に宿泊しながら周辺の旧家をお邪魔しておりました。今日こちらにやってきました」
「宿は?」
「まだ決まっていません。どこかおすすめはありますか?」
「私は地元の人間ですからどこもおすすめですとしか言えませんね。それで、これまではどのような成果はありましたか?買いたいものもあるかもしれませんので、今までの成果を見せてもらいたいものです」
「残念ながら今のところはまだ……」
……決まりだ。
若狭は男たちが流しの古物買い取り業者であると判断した。
……重たそうに引きずっていたカートの中身は着替えというところだな。
……変な気を起こされないうちにお引き取り願うのがいいのだろうが、こちらもえり好みをする余裕はない。
……とりあえず、確認を始めるか。
「一応要件を聞きましょうか」
「若狭様宅の蔵を見せていただき、その中の私たちが扱う商品があればそれを売っていただきたいのですが」
一度はすぐに追い出す気になっていた男だったが、あくまで低姿勢の男の言葉に優越感を刺激され思い直す。
もちろんそれはそう仕向けた相手の術中に嵌った結果であるのだが、男がそれに気づくはずもなく誘い込まれるままに歩みを進める。
「それは少々そちらに都合が良すぎますな」
「と、言いますと?」
「あなたがたのやろうとしていることは、私の蔵を物色し、金になりそうなものを見つけたら安く買い叩くということでしょう」
「端的にいえばそうとも言えます」
「ということは、気に入ったものがなければ何事もなかったかのように帰るわけだ。だが、それでは作業に立ち会う私は時間を浪費しただけとなる。言っておくが、私はそれほど暇ではない」
「その点についてはご心配なく。他の業者は知りませんが、我々はそれなりの立ち合い料を含めて探索料を支払います」
……それなりの金額?
……どうせ端金だろう。
……全然足りぬ。
唾を吐きだしたい気持ちを抑えて男は言葉を続ける。
「それでもやはり納得しかねる。では、こうしましょう。あなたがたは蔵を隅々まで調べ、好きなものを好きなだけ持っていってもよい。ただし……」
「ただし?」
「最初に金を払ってもらう」
「それは手付ということですか?」
「手付というよりも契約金といったほうがいいでしょう。蔵の調査及び商品の買い取り代金を事前に払ってもらうのだから。そして、ここが肝となるのだが、たとえ蔵の中が空気だけであっても一円たりとも返金はしない。これが契約を結ぶための大事な条件となります」
「それでは今度はそちらにとっていいことばかりなのでは……」
「いいのだよ。鈴川君。……ちなみに若狭様は蔵の中にどのようなものがあるかご存じですか?」
「よく知らないな。もっとも知っていてもこのような取引の最中に話すはずはないだろう」
「たしかにそのとおりですね。それについてはすべて承知しました。それでは、交渉へ入りましょう。蔵の調査費と商品の購入代がセットになったその契約金はいくらなのでしょうか?」
「そうだな。現金で五億円。もちろんこれはこの場で支払うことを条件だ。それだけ支払えば蔵の中にあるものは自由に持ち帰ってもかまわない」
……つまり、手持ちが五億円なければこの契約は成立しない。
……五億円どころか五百万円だっておまえたちには手の届かぬ金額だろう。
……だが、油断は禁物。
……以前ここに来た画商と称する冴えない風体のあの男は三千万円も持っていたのだからな。
……あのとき調子に乗って一千万円などと言っていたら大変なことになるところだったことを私は忘れていない。
若狭は一年ほど前に同じ目的でやってきた画商と名乗る男とやりとりを教訓にその破格の金額を設定していた。
……とにかくこれで一安心。
つまり、一件落着となるはずだった。
だが……。
「いいでしょう。その五億円をお支払いして契約させていただきます」
「えっ?」
朝霧のその言葉にその部屋にいるふたりの男から同じ言葉が発せられた。
「朝霧さん。さすがに何があるかもわからぬ、それどころか何もないかもしれない蔵の中を調べるのに五億円とは……」
言葉通り彼にとって朝霧の言葉は意外としか言いようがないものだった。
……今の短いやり取りのなかにそこに何かあるという確証が得るものはなかった。
……そこからどうやって五億円もの大金をそこに投じようと思い至ったのか。
そこまで考えたところで彼の脳裏に忌々しいあの男の顔が思い浮かぶ。
……もしかして、あの元盗人から事前にそれだけの情報を得ていたのではないのか。
表情からその思いを読み取った先輩蒐書官が苦笑いを浮かべながら口を開くと囁くような声が彼の耳に届く。
「鈴川君。まず結論からいこう。そこに何もないのかどうかは若狭氏の顔を見ればわかるだろう」
それとともに先輩蒐書官が顎で示された彼は視線をテーブルの向こう側の人物に向ける。
そこにある誰に対して言っているのかわからない言葉を繰り返すほんの数分前まで自信に満ちた表情がつくりこまれていた男の変わり果てた姿を見て彼はすぐに納得する。
……強烈なブラフをかまして相手の動揺を誘い表情から真実を引き出すということか。
……そして、答えはイエス。
……さすがです。朝霧さん。
一方、時間が経ち少しだけ落ち着いた男は、まだ劣勢を挽回できるチャンスがあると半ば自分に言い聞かせるようにして考え抜き、やっと思いついたその言葉を吐きだす。
「だが、まだ五億円はもらっていない。この場で五億円を用意できなければ契約は無効だ」
その言葉のあまりの陳腐さに思わず嘲りを含む笑みを浮かべた彼は隣の人物も一瞬だけ薄く笑うのを確認した。
だが、すぐにその笑みを消したその人物が何事もなかったかのように口を開く。
「そのとおりです。ところで、若狭様。ひとつ質問があるのですが」
「何だ」
「支払いはこの場でおこなうということでしょうか?」
「そ、そうだ」
「つまり、支払いは確実におこなうが銀行にその金を引き出しにいくということも許されないと?」
「そうだ」
男は朝霧の表情と言葉からそれが手元にないものだと読み取る。
……助かった。
……これで契約は無効にできる。
……だが、よく考えればそれは当然だ。
……五億円などという大金を持ち歩く者などいてたまるか。
もちろん希望と期待という成分がその大部分を占める男の読みは大きくはずれる。
ひと呼吸分だけ間をつくると、溺れかかった男が必死でしがみついた藁が、やはり藁でしかなかったことを思い知らせるように朝霧は人の悪い笑顔を浮かべる。
「若狭様。ですが、その点はご安心を。鈴川君」
「はい」
朝霧に命じられた彼は持ち込んだスーツケースを開けた。
「では、ご確認を」
その日の夕方。
ふたりの姿は綾部市のあの店にあった。
「神保町への配送手続きも終わりましたので、これで今回の任務は無事完了となりました。それにしても、偶然とはいえ京都にベテラン蒐書官の方が三人も滞在していたのはラッキーでした。これで、東京まで戻らなくて済みます」
「そうだな。それから、忘れてはいけない重要なことがもうひとつある」
「……何でしょうか?」
「言うまでもない。賭けは私の完全勝利に終わったということだ」
「それについては異議ありです」
「却下だ」
「せめて質問だけでも受け付けてください」
「そうだな。私は君と違い心が広い人間だ。その程度のことは許す度量はある。感謝しながら泣き言をさえずりたまえ」
テーブルの反対側でゆったりとコーヒーの香りを楽しむ先輩蒐書官にどうにか届くような声で彼が訊ねる。
「まず訊ねたいのは、朝霧さんはどの時点で蔵に宝が眠っていることに気づいたのかという点です」
「まずそれか。どうやら鈴川君は私が重要情報を手元に隠し持っていたと思っているようだが、その前提は間違っていると言っておこうか」
「違うのですか?」
「当然だろう。それでは賭けは成立しないではないか。そもそも私が君ごときを相手にするのにつまらぬペテンは必要ない」
「どうもその言い方は納得しがたいものがあります」
「君がどう思っているかは知らないが、事実は事実だ。さて、万民が知る常識を語ったところで君が本当に聞きたいことに対して答えておこう。私が畠山氏から手に入れた情報は若狭氏の家が旧家であること。それから、骨董商が頻繁に追い払われている話。最後に彼の人柄。それだけだ」
「それだけ?」
「そうだ」
「それだけで蔵の中に何かあると確信して五億円を出す気になったと?それとも、ブラフを噛ませて様子をみようと……」
「逆だ」
「逆?」
「考えてもみたまえ。五億円など簡単に用意できる者などそうはいないだろう。しかも、それを持ち歩くとなればなおさらだ。もし、彼が同じ条件で提示した金額が百万円や二百万円なら中はカラでその取引は小銭稼ぎの罠である可能性も十分に考えられる。ところが、彼が実際に設定したのは並みの人間なら持ち歩くことなどありえない五億円だ。それが何を意味するか?言うまでもない。虫よけだ。つまり、中には虫よけとしてそれだけの金額を設定するだけのものがある。あれにはそういう意味が含まれる」
「つまり、あの男が用心のため設定した五億円という金額が逆に自らそこに宝があると宣言してしまったということなのですか」
「そういうことだ。ただし、そこに何があるかまでは蔵を解放するまでわからなかったのだが」
「その蔵の中にあったお宝ですが、本人の口ぶりからあの男は自らが所有している源氏物語が式部直筆だとは気づいていなかったようですが……」
「当然だ。だが、そうであっても源氏物語の古い写本であることくらいは知っていただろうな」
「そこまで知っていたのなら、なぜ所有していることを公表しなかったのでしょうか?それこそ源氏物語の最古の写本所有者として一躍有名人となり、箔もついて名誉欲は十分に満たされたでしょうに」
「たしかに有名人にはなれただろうが、それに伴う負担も増える。これはあくまで推測だが、彼はそれを知った時点で損得計算をおこない、その結果、名より実を選んだのではないか。将来のために」
「将来のため?」
「私の実家もそうだが、名家や旧家というのは見栄や体裁のためにお金がかかるものなのだよ。そして、彼と彼の家にとってそれは経済的負担になっていた。さらに名ばかりの名誉と引き換えに金にもならぬ負担が増えるなど御免被る。それよりもこっそりとそれを売ってしまえば、少なくても旧家の威信を保つ生活はできる」
「なるほど。つまり将来コレクターに高額で売るつもりだったということですか。そのためにはあれを所有していることを安易に知られるわけにはいかなったと」
「おそらく闇商人となる買い手のことも考えれば当然そうなる。そして、そう考えれば、今回の我々を含めて訪ねてきた者たちを簡単に門前払いせずそれなりに相手していたということにも合点がいく。つまり、やってくる買い取り業者を彼なりに値踏みし、自分が望むような金が払えそうな者が現れたときに売買交渉を持ち掛けるつもりだった」
「……ですが、そうであれば、あの男は人を見る目がまったくなかったということになりますね」
「まあ、たしかにそうなのだが、彼はそれなりの代償を払ったわけだし、そのおかげで我々はあれを破格値で手に入れたのだ。彼をそこまで卑下することはなかろう」
「それはそうですね。そういうことであればむしろ感謝すべきだかもしれません」
「もうひとつ。自宅ではなく蔵にあれは隠していた理由は?」
「単純にセキュリティの問題だろう。君も体験しただろう。あの扉の重さを。あの二重扉はコソ泥がひとりで仕事ができるような代物ではない。短時間で仕事を完了するにはレベルの高い仕事人を相当数そろえなければならない。だが、そこまでするだけの価値があるものがあの蔵に本当に収められているのかがわからない。そのリスクをプロ集団が許容するか」
「ないでしょうね」
「そう。伊達と酔狂で仕事をするアクション映画の世界ならともかく現実のプロは安全第一。絶対にそのような場所は狙わない。一方屋敷といえば警備装置はついているが、仕事自体は並みの盗人でもそれほど難しくはない。そうなれば狙うのなら屋敷ということになる。逆をいえば、本当に獲られてはいけないものをあの蔵に隠すことは理にかなっている」
「なるほど」
「それよりも、先ほど夜見子様に『須磨』を手に入れたことを報告したところおもしろい話を聞かされた」
「何ですか?」
「すでに芦名君たちのグループから式部直筆の『須磨』が届けられているというのだ」
「本当ですか?」
「その話が冗談なら相当出来が悪く、嘘ならタチが悪いことこの上ないな。少なくても私はそのようなものに関わるのは御免被る」
「まあ、そうですね。ちなみにそれは本当に本物なのですか?」
「夜見子様が直々に確認しているのだから間違いないだろう」
「ですが、こちらだって本物ですよ。いったいどちらが本物なのでしょうか?」
「知らん」
「随分投げやりですね」
「そうかな」
「そうですよ」
「ちなみに、君のそれは本気か?」
「もちろんです」
「……わかった」
彼の態度に疑いを持っていた先輩蒐書官は大きなため息をついた。
「君は本当に真実を知らないようなので、まずそれについての種明かしをしておこう。実を言うと、これはあり得ることなのだよ」
「どういうことなのですか?」
「いくつかの資料に式部は原本以外に自らも写本をつくっていると思わせる記述が残っている。だが、ダブリどころか式部直筆の源氏物語自体がこれほど残っているとは思っていなかったので、そのようなことが起こる可能性は低いとその話は無視していたのだが、どうやらそれが現実のものとなったようだ」
「紫式部直筆の写本もあるということは、つまり、どちらかは紫式部直筆であっても原本ではなく写本ということなのですか?」
「いや。式部の手による写本は一種とは限らないのでその両方が写本という可能性がある。だが、それについて悩むのは我々ではなく最終的に両者を手にする夜見子様だ」
「……たしかに」
「それからもうひとつ」
「まだあるのですか?」
「今回手に入れた『須磨』の表紙だ」
「表紙?」
「あれが『花宴』と同じく源氏物語の原本だと思ったということは、鈴川君も今回手に入れた『須磨』の表紙にまったく違和感を持たなかったということだろう」
「はい」
「つまり、原本か写本から別にして二年前に我々が手に入れた『花宴』と今回の『須磨』は兄弟だということだけはまちがいない」
「言われてみればたしかにそうですね。表紙の色が『花宴』と違えば、さすがにおかしいと思うはずですから。それで、芦名さんたちの『須磨』は何色だったのですか?」
「紫」
「えっ?」
「ただし、『花宴』よりも色が濃く華やかだそうだ。見た目だけならそちらのほうが原本に見えるとのことだった」
「なんか負けた気がしますね。ですが、少なくとも『花宴』との繋がりがあるのはこちらが手に入れたものということなのですね」
「まあ、負けを認めたかのような言葉に続く今のそれは完全に負け惜しみに聞こえるが事実としてはそういうことだ。だが、我々がおこなうべき仕事はここまでだ。それよりも……」
「……やはり、そうなるわけですね」
「当然だ。自分から仕掛けた勝負だ。潔く腹を切りたまえ」
「……はい」
さて、二冊の書に関する物語を語ったところで、舞台を悩む乙女が待つ神保町に戻すことにしよう。
「まずはやれるところから始めましょう」
やってきた二冊の「須磨」のどちらが原本なのかという問題がまったく解決できないまま三日が過ぎたこの日、何かを思いついた彼女はそう呟いた。
まあ、それは言ってしまえば現実逃避のひとつではあったのだが、煮詰まり極端に狭まった視野が気分転換によって広がり問題解決につながることは多々あることなのだから、現状の彼女にとってこれは悪くない選択といえるだろう。
そして、一番重要なはずの問題を放り出した彼女がいそいそと始めたこと……。
それは二冊の書の名前を決めることだった。
源氏物語の写本は多くの種類があり、それぞれに名前が与えられていたのだが、多くは所有者に由来するものであった。
その方法でいけば、今回の二冊は「天野川本」または「夜見子本」となる。
だが、内輪でしか使用されないものとはいえ、さすがに「夜見子本」と名付けるのは気が引けるうえに、そもそもふたつの「須磨」を区別することにこの名はまったく寄与していないために、当然のように即不採用となり、代替としてもうひとつの命名法を採用することになった。
それが表紙の色をその名にするというもので、源氏物語の写本として有名な「青表紙本」がこれにあたる。
「これであれば……」
と言いかけたところで、彼女の言葉が止まる。
そう。
たしかに表紙の色を名称にするのはよいアイデアであったのだが、問題の二冊はともに紫色の表紙であったのだ。
「さすがに、『紫表紙本A』と『紫表紙本B』では色気がなさすぎます。この書にふさわしいもっと趣のある……そうだ。濃い、薄いという言葉を加えることにしましょう」
ということで、ようやく一件落着となったように思えたそれだったのだが、新たな問題が発覚し、すぐに振り出しに戻る。
「『コイムラサキヒョウシボン』?それとも『ノウシヒョウシボン』?どちらにしても呼びにくいですね」
まるで我が子に名前を付けるときの母親のようにウジウジと悩む彼女をふさわしき名へと導いたのは彼女の高校時代からの知り合いだった。
ご馳走するというその言葉に釣られ、パンケーキが有名なカフェに連れてこられたその女性は目の前で 延々と続く彼女の独り言を聞き流しながらひたすらパンケーキを貪っていたのだが、最後のひとかけらを口に押し込み終わると、駄賃代わりに彼女なりのアイデアを披露した。
「『香本』とやらも写本のひとつなのでしょう。それでいけば、『濃紫本』と『薄紫本』でいいと思うのだけど。これならこれまでの命名法とも齟齬はないし、さっき夜見子が口にしていたナンタラの表紙本よりも全然呼びにくくない」
「……たしかに」
その女性自身が関わった源氏物語の写本のひとつ「香本」を例に出して提示したそれは先ほどのものに比べればはるかに呼びやすいものだった。
彼女も納得するように大きく頷く。
「『ノウシボン』に『ハクシボン』か。悪くない。悪くないわね。晶もたまには役に立つ。イデッ」
こうして、二冊の「須磨」の命名騒動は意外な形で決着し、区別するための名が与えられたのだが、それがきっかけになったかのように、ことは突如動き出し、ついにその時がやってくる。
「お嬢様」
もちろん彼女がその言葉で呼ぶ相手など今も昔もこの世にひとりしかいない。
「き、今日のご用向きは?」
「もちろん先生が手に入れたという二冊の『須磨』を読みに来たのです」
「そういうことであれば、私がお持ちしたものを……いいえ。次回千葉のお屋敷にお伺いするときは持参する予定でした」
「わかっています」
多数の護衛とともにやってきたその小柄な少女。
現在でもそのカテゴリーに含まれる彼女だが、五年前であるこの時は小学生であるためまさに少女である。
だが、外見が少女でも中身もそうとは限らない。
少なくても、この少女の場合にはまちがいなくそれが言える。
なにしろ小学生のときから多くの語学を理解し、女性ながら「神童」と呼ばれた夜見子が舌を巻くほど多くの知識を有しているだけではなく、のちにこの少女の代名詞となる「過去から未来。そのすべてを見通す」とも呼ばれる驚くべき洞察力もこのときにはすでに手に入れていたのだから。
笑顔の少女が再び口を開く。
「それでも、やはり待ちきれないので来てしまいました」
その言葉に続いて少女は自らの来訪に緊張する彼女に訊ねる。
「それで、どちらが『須磨』の原本なのですか?」
だが、少女が挨拶代わりに口にしたそれは現在の彼女にとって最も大きな懸案事項であり、聞かれたくない案件でもあった。
当然答えられるはずもなく彼女は口ごもる。
「どうかしましたか?」
「実は……」
「……なるほど」
二冊の「須磨」を見比べるように読みながら告解のような彼女からの説明を聞いた少女は小さく頷く。
「たしかに同一人物によって書かれたものですから、紙や墨だけで書かれた順番を判定するには年単位、場合によっては月単位というところまでわからなければなりませんね」
「その通りです。残念ながら私の能力ではさすがにそこまでは……」
「ですが、それを判断する方法はまだたくさんあります」
「本当ですか?」
「はい。たとえば、すでに手に入れている『香本』と比較し、文章の変化を確認する方法です。まあ、当然これもやっているでしょうが」
「……はい」
「どうでしたか?」
「元々書かれた文章はほぼ同じなうえに、両方とも他者による多くの加除が加えられて、どちらがというところまでは……」
「強いてあげれば?」
「修正後を比較した場合、こちらの方がより『香本』に近い気がしました」
彼女が指で指し示したのは自らが「濃紫本」と名付けた「須磨」だった。
少女は頷く。
「つまり、そちらではない方が古い。さすがです」
つまり正解ということだ。
「お嬢様がそれを正解とした根拠をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「では、お願いします」
「まずはこれです」
そう言って少女が示したのは自らの右手だった。
言うまでもない。
もちろん彼女もそれを知っている。
そして、それ以上のことも。
少女は言葉を続ける。
「もちろんそれ以外にも根拠はあります。たとえば筆の進みです」
「筆の進み?」
「片方の『須磨』は出来上がった何かを書き写したかのように軽やかに筆が進んでいます。それに比べてもう一方は筆の進みが非常によくない。まるで、最後の推敲をおこなっているかのように。さらにいえば、筆圧もまったく違います。そこからも、ふたつの『須磨』を比べた場合、見栄えのよくない表紙の『須磨』が古いものとなります。ただし……」
「ただし?」
「どちらの『須磨』を見ても、本人による修正というものがありません。これは以前先生が手に入れた『花宴』でも同様です。式部がどれほど優秀であってもあれだけの物語を下書きなしにまちがいもなく満足いくものを一気に書き上げるのはさすがに難しい。その下書き、または製本されない初稿のようなものが今後見つかるかもしれません。そして、それこそが正しい意味での原本となります。ですが、それが見つかるまではこれが一番古いものということになりますので、原本という称号を与えてもいいでしょう。もっとも、私自身は式部の手によるものはすべて原本とすべきだと思っていますが。それから、もうひとつ」
「伺います」
「紫という貴重な色を表紙にしたという事実。式部自身がそれほど身分の高い出自ではないことを考えればこれは驚きです。やはり、彼女のパトロンは相当高い地位の者と考えるべきですね。そして、この紫の表紙は紫式部という彼女の名にちなんでいるように見えますが、案外その逆なのかもしれません」
「つまり、この表紙から彼女がそう名乗ったと。それにも何か根拠があるのですか?」
「いいえ。あくまで想像の翼を広げただけの私の勝手な解釈です」
……つまり、それがこれについての解ということですか。




