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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story Ⅱ 闇画商の至福の時

「梅壺の大将」の後日談的話となります

 東京都江東区。

 この日のために一棟そっくり借り上げられていた倉庫に案内されたひとりの男が、案内役であり、また倉庫の借主でもある彼女につき従うように中に入る。

 入ってすぐに歩みを止めた彼は、目の前にあるその商品を驚きの表情とともにじっくりと眺め、やがて漏れ出るような感嘆の声を上げる。

「素晴らしい」

 冷ややかにその様子を眺めていた彼女が口を開く。

「喜んでもらえましたか。ミスター木村」

 その言葉に彼が答える。

「これを見て喜ばずにいられる同業者がいたら是非会いたいものです。これを本当に譲ってくださるのですか?」

「もちろん。そのためにあなたを呼んだのですから」

 彼女からの心の籠らぬ言葉を聞き流し、陳腐な感想を残した彼は自身の殻に閉じこもり、さらにその感動に酔いしれる。

「『聖マタイと天使』。実は残っているという噂は何度か聞いたことはありましたが、まさか日本にあったとは……」

「私は絵に造詣がないのでよくわかりませんが、この絵は公的には存在しない品を数多く扱うあなたでも狂喜乱舞するほどのものなのですか?」

「イエス。これはバロック期の天才画家カラヴァッジョの作品で、第二次世界大戦末期の混乱時に消えた絵画のひとつです。このような著名な作品を扱えるのは画商のこの上ない名誉といえるでしょう。ついでにいえば、個人的には彼はジョルジュ・ド・ラ・トゥールとともに私の最も好きな洋画家でもあります。そして、嫌いな画家はあの忌まわしき絵を描いたフェルメールとなります」

「それは結構でした。ですが、私が今聞きたいのはそのようなつまらぬ能書きではなく、あなたがこれをいくらで買いたいかということです」

「そうでした」

 そうは言ったものの、実を言うと、彼にはひとつの懸念材料があった。

 いうまでもない。

 以前、彼女を通じて購入した屏風絵とその作者である。

 ……私の目には本物に見える。

 ……だが、物が物だけに、値をつける前にやはり確認しておくべきだろうな。

「ちなみに、これがいつぞやの贋作グループの作品という可能性は……」

「私が知るかぎりそれはないですね」

 男の問いに彼女は明快に否と答え、彼は納得した。

 もちろん男は彼女がその贋作グループのトップであることは知らない。

 だが、それでもその言葉は信頼できる。

 男の中にはそれくらいに彼女に対する信頼が植えつけられていた。

 頷いた男は言葉を続ける。

「そうであれば、ほぼ確実に本物でしょう。もちろん断定するには科学的調査は必要でしょうが、そのようなものを待たず私は自分の目を信じて購入します。その根拠についての説明が必要ですか?」

「いいえ。それは結構です」

 自らの言葉どおり絵画にはそれほど興味のないその女が興味のあったのはこの男が絵をどう評価するだけであり、すでにその目的は達成していたためにそれ以上の会話は彼女にとってはまちがいなく時間の浪費でしかなかったのだからやむを得ないことではあるのだが、とくとくと根拠を説明したかった男にとってそれは実に残念なことだった。

「では、それは別の機会ということで……さて、買い取り額についてですが……四十億円でどうでしょうか?」

「……安いですね」

 ……四十億円そのものは決して安いものではないが、さすがにこれにつける金額となればそれは否定できないな。

 だが、男は商売人らしく心の中で漏らした呟きを声にすることはない。

「日の当たる世界よりも買値がかなり高いといわれる我々の世界でも今回のこれは諸事情がありますので、この辺が妥当なところではないかと」

 男のもっともらしい言い訳に彼女は感銘を受けることはなかったが、さりとてそれを力任せに覆すこともなく小さく頷くと、再び言葉を紡ぐ。

「安く買い、高く売るのが商売ですから、買い手であるあなたの見解についてとやかくは言いません。ですが、こちらにはこちらの事情があります。そうですね。では、即金で支払うことを条件に五十億円で売りましょう」


 ……五十億円か。

 希望よりも十億円も買い取り金額が大幅に高くなり渋い表情を見せていたものの、実をいうと彼はその額についてそれほど心配はしていなかった。

 いや。

 表情とは逆に心の中でニンマリとしていた。

 ……この程度ならまったく問題ない。

 ……というか、大成功の部類だろう。

 ……なにしろ、これは最低でもこの二倍、いや、うまくやれば三倍の金額でも売れる逸品なのだから。

 つまり、この五十億円という買値はたしかに安いものではないが、それでも商売上手の彼にとってはとんでもない大バーゲンプライスだったのである。

 もちろん、売り手側もそれは十分承知していた。

 ……あなたがこの金額をどう思っているのかは知りませんが、結局は同じこと。

 隣の男の表情を眺めながら彼女は心の中でそう呟いていた。

 そう。

 彼は知らなかった。

 それがただの始まりでしかなかったことを。

 そして、彼の行きつく先はどのようなルートを辿ろうが同じ場所であることも。


 彼女が呟いた謎の言葉の意味があきらかになるのはそれから間もなくのことである。

「……まさかこんなものまで」

 それを見た男は思わず唸る。

 いや、それがどういうものかを知っている者であれば彼でなくても唸らずにはいられない。

 つまり、それはそのような代物だった。

 ……とにかくまずは落ち着け。

 これからおこなうそれの買い取り交渉を今のような不安定な精神状態でおこなうわけにはいかないと男は必死に自分に冷静になるよう言い聞かせる。

 そして、長い沈黙によってようやく冷静さを取り戻した男が考えなければならないことをいえば、当然目の前にあるそれについて、それだけである。

 ……問題は相手がいったいこれにどれくらいの値をつけるつもりなのかということだ。

 もちろん彼は知っている。

 日の当たる世界でのこの商品の評価額を。

 ……最低でも一億ドル。

 ……つまり「合奏」以来の百億円越えか。

 ……さすがに先ほど五十億円を即金で支払う譲渡契約を結んだ者にとってさらに百億円をすぐに用立てるのは簡単なことではない。

 ……それに例のフェルメールはどんな値段でも必ず購入すると断言した買い手が控えていたので調子よく買値を釣り上げてしまったが、今回はこれだけの高額商品を買おうと名乗り出る者がすぐに現れることは期待できない。

 ……つまり、手元の資金がほぼゼロであるこの状態でこれに手を出すということは底なし沼に無防備で入り込むことを同じだ。安全に岸に戻るためにはできるだけ安く手に入れたいところだが、さすがにこれが十桁で収まる代物ではないことくらい相手だってわかっているだろう。

 ……そうなると、いよいよ『聖マタイと天使』は買値の三倍以上で売らざるを得ないな。

 ……それにしても、これを買わないという選択をすればこのような苦労をしなくて済むものを。

 ……我ながらまったく度がしがたい性分だ。

 舵を切り間違えれば今度こそ命取りになると、自嘲気味に心の中でそう呟きながら最良の策に辿り着こうと必死にもがく男を嘲わらうかのような舞台女優のような過剰なくらいに抑揚がついた隣に立つ人物の声が倉庫内に響く。

「さて、ミスター木村。あなたは『聖マタイと天使』と同じく第二次世界大戦の混乱期に消えたはずの幻の絵画ラファエロ・サンツィオの作品『若い男の肖像』をいくらで買いとるつもりなのですか?言っておきますが、私が知る日の当たらない場所に住む絵画の買い手はあなただけではありません。もし、あなたが先ほどのような無礼な金額をつけるようであれば、躊躇なく別の売り手にこれを譲り渡し、あなたはこの絵を扱う機会は永遠に失いますので心して答えなさい」

 ……くそ。そういうことか。

 男はようやく気づいた。

 先ほど彼女があれほど気前の良かった理由が何かということに。

 ……つまり、あれは本命であるこちらの売買交渉で一方的な譲歩を引き出すための罠だったということか。

 もちろん彼にはこの時点でもまだ取引から降りるという策が選択できた。

 だが、目の前に高価な商品をおかれたら、たとえそれが罠であるとわかっていても、食いつかずに入られないという男の身体に染みついたこの世界に生きる商人の悲しき性がそれを許さない。

 そして、彼は動く。

 向かってはいけない方向へ。

「……百八十億円でいかがでしょう」

「よく聞こえませんでした。もう一度お願いします」

 もちろん隣にいる彼女に男の声が届かなかったはずはない。

 ……つまり、安すぎるということか。

 ……ということは、やはり大台ということか。

 ……正直それはかなり厳しい。

 ……だが、ここまで来て降りるわけにはいかない。

 ……いかないのだ。

 顔に滲む不健康な汗を拭きとり息を整えると、男はすでに自らの限界を遥かに超えていたそれにさらに上乗せした額を口にする。

「では、百九十、いや二百……」

 彼の言葉が途切れたのは、卑しいものを見るように彼を眺める冷たい眼差しで彼女がその意向を伝えたからだ。

「……二百五十億円でお願いします」


「いいでしょう」


 ……やっと終わった。

 落札した喜びや永遠に続くかと思われた厳しい交渉が終了した安堵よりも遥かに大きい負の成分で構成された男の大きなため息が漏れる様子を十分に楽しむと彼女は言葉を続ける。


「おめでとうございます。これで『若い男の肖像』はあなたのものです」


 ……さすが鮎原進。相手の心情を見抜き、さらにそこからの行動まで完璧に予測したうえでの素晴らしいシナリオ。

 ……そして、闇画商木村恭次。鮎原があなたのために特別に用意した至福の時間はこれで終わりではありません。


 五十代半ばと思われるその男がそこに姿を現したのは、商品すべてを引き取った彼が立ち去ってからまもなくのことだった。

「今しがたお帰りになった客人の顔色が非常に悪かったということは、取引は十分に満足できるものだったということですね」

「そのとおり。すべてがあなたの書いたシナリオ通りです。鮎原」

「ちなみに成果は?」

「もちろん五百億円」

「それは実にすばらしい。そして、完売おめでとうございます。いや、ここはお見事と言ったほうがよろしいでしょうか。夜見子様」

 見事なばかりにカラになったその空間をわざとらしく見まわしたあと口にしたすべての段取りをおこなった男の大げさな言葉に彼女は苦笑で応じる。

「まあ、完売という表現が適当なのかは協議の余地があり、どちらかといえば、言葉巧みに押しつけたと言ったほうがいいように思えます。その証拠にあなたの言うとおり至福の時が終わり、夢が覚め現実世界に戻っていく彼にはもう笑顔はありませんでしたから」

「まあ、彼の為人に関する私の認識がまちがっていなければ、かの闇画商には多額の借金をつくって自らの首を絞めて喜ぶ変わった形の被虐趣味はありませんから、当然そうなるでしょう。それにしても、こうなることがわかっていながら自ら進んで困難な道に選ぶとは、彼も物好きな男ですね」

「たしかに事実としてはそのとおりです。ですが、最初の二品で男のすべてを奪って手足を縛り、支払い猶予を求める相手に借金返済の手っ取り早い手段があると、『すぐに捌ける商品』と称する数億円の品を大量に押しつけてさらなる借金をつくらせるという悪魔でも思いつかないような悪逆非道なシナリオを書きあげたあなたが被害者に対してそのような言葉を口にするのはいささか不謹慎ではないかと思いますが」

 皮肉が利きすぎた男の言葉に応えるように笑みを含んだ彼女が口にしたそれは、聞きようによっては相手を厳しく批判した言葉である。

 だが、彼女には彼に対する悪意も、それから被害者である闇画商への憐れみの気持ちもまったくなく、それを十分に承知している男もその言葉に特別な反応を示すことなく、薄く笑みを浮かべながらささやかに頭を下げるだけだった。

 ひと呼吸おき、もう一段階黒味を増した笑みを浮かべる彼女が再び口を開く。

「それにしても、今回は本当にいい商売ができましたね」

「まったくです。例の夫人と『梅壺の大将』のオリジナルを手に入れるために所有者に支払った費用の合計が約五十億円ですから、残りはそっくり我々の軍資金となるわけですから、橘花の経済部門トップ一の谷氏から他の組織が苦労して生み出した金を垂れ流すことが蒐書官の唯一の仕事などと陰口を叩かれなくても済むようになるのかもしれません。もっとも、それはこれから木村氏が仕入れた大量の商品を順調に販売出来たらの話ということになるのですが」

「では、そうなるように真紀さんにお願いしておきましょう」

 そう言って、彼女は笑った。

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