Aスイッチ
ソレは水の中をゆっくりと眠りに落ちるように沈んで行く様だったり、存在の見当たらない獣から必死に逃げるようであったりする。結末は登場人物に必ず何処にも無い印象を与え。どの模倣も追いつかない果てにある。そして遥か遠くに居る時間を隔てた自分に教訓を忘れるなと時間を越えることの無い願いを託す。淋しさとも孤高とも思えない覚悟を・・・覚悟を・・・いや諦めを身の内に何かを握り締めるように受け入れる。
メメント・モリ。必ず死すことを忘れるな、死せづとも。
果てには何がある?引き返せる?
♪
訳のわからない意味の歌詞がローテンポバラードで煙たい部屋に流れる。
木目調のブラインドから日差しが切り刻まれ、タバコの煙を形にする。
茶色の棉パンにほんのりクリィーム色のワイシャツ、紺のサスペンダー、其処此処に一二本白髪の混じった短髪が顔に乗っかった新聞紙からはみ出ている。
灰皿の前に置かれた指先から ボトンとその自重に似合わない音を立てて目一杯に燃え尽きたタバコの灰が落ちる。
「ああっちっ」
タバコの火の手は指の又まで届いたようだ。
「はぁー ねちまった」
ボソッと不知火は呟く。
ゆっくりと、瞬きして漆黒とカラーとの世界を行き来し、結局は二度寝はしないことにした。
「あー池上さんに不倫の報告しないとだった」
レッドオークのデスクの左端にある電話機を引き擦り寄せる。
市外局番から打ち、音階の違うボタンを押し連ねる。個人に繫がる数字の羅列をその人本人の名前と何が違うのだろう?と考え呼び出し音を聞く・・・
5度、デスクを指先が叩く程度で池上婦人は電話に出た。
「はい?何ですか」
「不知火探偵事務所ですが」
「解りますよ、でどうですか家の夫?」
「単刀直入に言いますが、浮気してますね」
「やっぱり!相手は?どんな人なんですか?どのぐらい前から?」
「相手は、中村チハタと言う女性でもう調査を依頼される一年前から関係を持っていたみたいです」
「詳しい説明は、事務所に来てもらってからお話します」
「いえ、報告書と画像とかのイメージがあったら、私の電脳サーバーに送っといてくれますか?あの野郎訴えてやる。確認しだい口座に振り込んどきます」
「えーと、すいませんがうちにはまともなPCが無くてですね、それにこう言うのは現金商売ですんでどうかご足労いただけませんかね?」
「PC?――あなたエレクトじゃないの?」
「違います」
「うそ?じゃこれ肉声って事?」
「そうですが、何か?」
「なんかこだわりでもあるんですか?」
「いえ別にそんなのは無いです、ただ“オートマ”が嫌いなだけです」
「へー。もしかしてホスだったりし無いわよね?」
「そうですが、奥さん話を戻し―――
「うそ、ホントに?うあー初めて会ったわオリジナルの人間なんて、未だに居るんだ」
「あの、池上さん?」
「あ、すいません、でも行けませんから。何とかしてください。私のURLぐらい調べられるでしょ?―――
ツ――ツ―――ツ―――ツ―
通話が切れる寸前に ちょっとっ などと不知火は焦って言ったが一方的に切られてしまった。
受話器の端に開けられた黒い粒粒を不知火は見つめた。
さっきまで池上婦人の脳と繫がっていた黒いスピーカー。
既に聞こえるはずは無いが、受話器の上の円に口を利く。
「何なんだよ、そんなに珍しいかね。人間が?ホスなんて呼び方して、それが解ると急に下に見やがって、やだね、やだね」
不知火は受話器を耳の高さに持ったまま溜息と共にうな垂れる。
ホスとは、HOS ホモ・オリジナル・サピエンスの略称で大手の日明新聞が現代の約98%が脳機器化、機械義肢化、していると言う文化省の調査を参考に記事にした物の中に全く脳機器化、機械化をしていない人間のことを人類の進化の過程で例え、HOSなどと書き、記事に採り上げた事から大衆にHOSの呼び名がはやった事から始まっている。身体改造をしている人間と比べ肉体的にも、思考的にも劣っていると言うのは事実で有る、ある種のノスタルジーに固執することによって自身の能力を飛躍させるチャンスをみすみす逃している。と言う様な記事になっている
一定の通信環境を持つ機器電子脳質化した人間をエレクトロニック・ヒューマンと称し、一般的にはエレクトと常用されている。
机の明かりの当たらない所で妙なものが這っているのに不知火はきづく。
「ゴメンな夕ご飯あげてなかったな」
そう言うと不知火はデスクの引き出しから既に死んでいるであろう蟲の入ったガラス瓶を開け机の上に二三個置いた。
黒い影の中から虫を求めて不知火の目の前にカメレオンが現れた。
一歩脚を前に出すたびにフルフルと揺れながらゆっくと歩いてくる。
乾燥した緑色の鱗が薄暗い部屋の中で際立って輪郭を強調して見える。
不知火は頬杖を突きソレを眺める。
やっと舌を伸ばし一つ口に入れる、その始終大きな両目は揃わずぐりぐりと挙動を乱し続ける。
ピピ ピピピ ピピピ ピピピ
電話が鳴った。
「はい、不知火探偵事務所です。」
「池上ですけど、早くしてくれませんか?」
「あー、申し訳ありません。今あなたのURL調べてたとこなんですけども」
「 ネットできるパソコンぐらいあんでしょ?」
「いえ」
「はい? あーもぅ 仕方ないから行きますよ待っててください」
「あ、はい、お待ちしています」
ツ――ツ――ツ―――
待ってますよ、と誰かに言い聞かせるように呟き、受話器を置く。
不知火がカメレオンのほうを向くと机の一面に成りすましたカメレオンが微かな影だけを残して見事なまでに消えていた。
不知火の飼っているこのカメレオン、アノマルオオカメレオンと言う品種で他のカメレオンと違い擬態化するのではなく透態化することが出来る唯一の生物として2567年にバスペン共和国の密林で発見された。アノマルは英語のanomalyから来ており、変種、変則、などの意である。
ふと、考える。
こいつ、どっちが本物だ?七色の利便性を持った応用態か?それとも、生身の緑か?・・・・
普通は純正色の方がその者だと思うだろうが、コイツはどう思っているんだろう?
一々変身するのが気だるいのか?もしくは、永久に透明になり続けたいと思っているのか?
能天気なのか、悲しいのか、日々楽観的に過ごしているのか、透き通ってもそうでなくとも、取り巻かれている全てのものに怯える様に、目まぐるしく焦点を合わせている。
まるで、現代の人間のようだ。脳みそや体の彼方此方をいじり、本物がどちらか解らなくなっている、疑問を考えずには居られない、其の者と、追窮、その二つが既に不可分に成る程雑じり徳的一線を越えている。それにもきづかず、それを用いる。
「すいません」
戸口で声がした。
「どなたでしょうか?」
其の声はふっと消えた様に沈黙し、扉の向こうに居るであろう存在も又返されない返事の元に存在を消している。
「どなたですか?」
・・・・・・・・・・・
不知火は椅子から立ち上がり、扉のレンズを覗いた。
魚眼をかえして少し小さめの女の子が立っていた。
扉を見つめて姿勢良く立って居る。反応を急かして待つときに見せる、それは無く。まるで人形みたいに置かれている。
不知火はとりあえず其の女の子を観察していると・・・
突然に。
女の子の目がぐるりと顔ごと不知火の見ている覗き穴の方を見た。
「すいません、池上の使いの者ですが?」
「あっすいません」
幾つかの鍵を急いで外し不知火はノブを回した。
「すいません、池上の使いの者ですが」
先ほどと全く変わらないアクセントで少女は言う。
「ああ、入ってください」
「あっ 靴・・・脱いでもらってもいいですか?」
少女は自分の足元を暫く見つめると、その場で靴を脱ぎ部屋に入っていった。
不知火は此処は床だよと呟き、靴を靴棚に入れ部屋の中央にあるソファーに座った。
「あ、座ってください」
少女は不知火の対面に座り見つめる。
「えーと、池上さんのところの家政婦サンですか?」
「いえ、私は執事ロボットです」
「あ、ひつじさんでしたか。これは失敬。 池上さん結構金持ちなんだ」
「旦那様の浮気調査のデータを受け取りに来ました。」
「あーはいはい、いま持ってきますから」
不知火は赤黒い光のもれる暗室に写真を取りにいった。
茶色のカジュワルなスーツを着て膝上までのスカートからでている脚は黒いタイツでスルット伸びている筋肉のラインもしなやかで強調され過ぎず健康的な脚だ。髪は首までの赤茶色のボブをセンターで分けている、瞳の色も髪の赤茶色と揃えているのだろうか、深いレッドアイが何処か淋しそうな表情に見える。見た目だけで見ると凡そ20代前半位の年だがアンドロイドであるから年式は定かではない。
2859年にフランスのラニ・ラビッド社から発売された、家政婦ロボットと言うのが世界で始めての家庭用のアンドロイドと言われている当時の価格は一機267万円と値段は家庭用とは程遠い物だった。機能的にも洗濯、掃除、料理、伝言メモ、伝言メモ以外の三つをロボットの左の腰の辺りにある週間タイマーと言うので設定すると勝手にやってくれると言うものだった。その後、アンドロイドの機能は飛躍的に進歩してきた。
現在では世界の3000社程が開発、販売に携わっている。ラビッド社の初代のRT33はまだギミックがぎこちなく、直ぐにエラーが出て、メモ録音以外は言葉を持たなかった。しかし現在では、家政婦ロボットの他に、秘書、執事、肉体労働、を目的としたアンドロイドが販売されており、其のどれもがスペックは違えどAIを搭載し殆ど人間と変わらない動きや語彙を用いて、役割を果たしている。
2988年には、恋人ロボットと言うのが発売された。しかし、人間型のロボットを労働以外の目的で使用するのは倫理的に
間違っている、と批判する団体が現れ、アンドロイドの遊物目的の使用所持、それに順ずる改造を禁止する法律が整備され、現在では、128もの項目が六法全書に記述されている。
不知火は昨日作ったばかりの湾曲した写真を十枚程持ってきた。
「では、これが写真になりますね」
写真をテーブルに置き、座る事無くデスクの引き出しを開けに行く、B4の茶封筒を取り出し、池上婦人の使いの前に座る。
「これが、報告書ですね」
執事ロボットはガラス張りの机の上に置かれたその二つを、まるでマジシャンが何枚かの写真の束と封筒とを空中に浮かせたかの様に不思議そうに、モノを探求する様に見つめる。
「何故、紙媒体なのですか?」
「何故と言われても・・・ずっとそうですから」
「もっと便利な物は幾らでも安く手に入るのでは?」
アンドロイドにしては偉く他人に口を出すな。池上さんの趣味かな?などと頭の中で過ぎる。返答に困ったように歯の間から音を立て息を吸ってから不知火は声を出す。
「特に拘りがある訳では無いのですが・・・あまり気にしたことは無かったですね」
「そうですか」
自分から聞いた割にはそっけない語調で話を納める。
・・・・・
アンドロイドは不知火を、いや不知火の目を見つめ、何か言いたそうに口を少し開き、止まった。
エラー警告の予兆に同じく顔の筋肉が弛緩し掛けた様な表情になるのは幾つかのメーカーの特徴である。
量産されているとは言え、見た目はとても綺麗な女性だ。
何か気まずい雰囲気を悟った不知火は、首の後ろをポリポリ掻き、眉を寄せて、写真を封筒の中に入れ、池上婦人の使いの前にスッと差し出した。
「では。」
「ハイ」
アンドロイドでは在るが、察すると言うことの出来る少女のようだ。
少女はスッと立ち上がり出て行こうとした。
が
ノブを回し、扉を押しかけた所でピタリと止まった。
背中を見つめていた不知火は あ と声が漏れ、エラー状態になったことを予感する。
しかし、そうではなかった。
「ネガもありますか?」
池上さん写真が趣味なのかな?
出荷される時アンドロイドは、日常生活で必要な言葉をある程度は覚えているが、それ以外の専門的な言葉は喋ることは出来ない。そのためセットアップされていない言語や言葉などを習慣的に学習する機能がついている。プログラムの開発者中村と言う男はこのプログラムを“kikinaosi”と名づけた。
人間が知らぬ物について詳しく聞き直したりするのと同様に、持っている言葉の中で理解し、記憶し、応用する。
“ネガ”などと言う言葉は殆ど日常的には使われない。そのことから池上家で“ネガ”についての指図がこの少女にあったという事になる。
「ああ ありますよ」
「それも、もらえますか?」
「ええ、いいですよ。こういう物は一応保管するのですが・・・」
不知火は又暗室へと向かった。
探偵の仕事と言えば殆どが浮気調査かペットの捜索で、最近では、月に2度お客さんが来る程度である。慣れてしまえば刺激的なことなど何も無い。探偵を憧れる人の思い描くサスペンス的なものは何処にも無い。さらに儲からない。
昔は、この暗室にも目一杯写真がぶら下げてあったが今は池上さんのだけだ。それももう取り外され淋しそうに空っぽの赤黒い空間だけが不知火に「転職すれば?」と語りかけているようだ。
時代が悪いのだ。
何もかもがデジタル化しこの世のいや、あの世さえも回線の繫がってない物はもう何処にも無い。データの中に全てがある。全てを覗き見ることが出来る。人間の生存の証明を市役所に始終発信して、電柱にさえダブル事の無い数字が振られ、野良猫の走る細い路地裏まで認識票が着いて回る
はー
不知火は十分程経って暗室を出た。
「すいません、時間とらせちゃって」
「・・・」
「これネガです」
「ありがとうございます」
「いえ、じゃあ」
少女はゆっくりと頭を下げ髪を垂らす。
細い繊維がさらさらと擦れる音が聞こえたような気がする。
なにやら、桃のような甘ったるい果実の誘うような匂いが非力な風に乗って不知火の鼻に届く。
まるで完璧だ。
女性だったら、この子が生身だったら私はどれ程明るい予感に顔をニヤつかせていただろうか?
不知火は首をぶるぶると振る。
危うくロボットを愛すなんていう悲劇の始まりに成る所だった。彼女は女じゃない。機械だ。
それに、容姿だけで決めるのは良くない。俺は馬鹿だな本当にほんの十五分一緒に居ただけで女を好きになるなんて、〝できていない"証拠だ。
この子が帰ったら読み直さないとだなスコット・リエールの“愛すべきは肉体か精神か”を。
気づくと少女は扉から出て体の欠片が何分か見えるくらいになっていた。
不知火はふっと我に返り。
「ありがとうございました」
声を張ることもなく小さすぎることも無くその中域の声量で
そういって頭を下げた。
扉が閉まると、少女の下げられた後ろ頭が一瞬過ぎる。
あの瞬間はとてもゆっくりと流れたような気がする。少女の匂いと共にその次の刻みから秒針は突然水の中に入ったようにその刻む響きすら長く重く流れ、その数秒は正確に時間を刻んだか疑いたくなる程である。
「あんな子どっかに落ってないかな」
不知火は呟く。
「俺が二十二の頃に一回出来たっきりだもんなぁ。それから・・・」
指を折り数える。
「何年目だよ、ちょっとやばいな」
不知火は机の上で今だに影だけを映すカメレオンの背びれを頭から撫ぜる。
カメレオンは不知火の触れた処からまるで何かを隠す暗幕を引っ張りその物が姿を現すかの様に元の緑へと変色していく。
尾の最後をすっと抜けるとその手でブラインドの紐を引く。
昼の三時。ようやくこの部屋に微かではなく、真っ昼間の光が雪崩れ込む。
外の人ごみの中にさっきの少女を探す。
何か柔らかい微笑が歯を見せずに鼻で息を吐かせる。
ハッピーエンディングの映画を見た時に登場人物の幸せを願うような、そんな笑み。
あの少女は、私がそうだった様に会う人に〝思われて〟之から存在するのだろう、きっと。
良かった、そうであってよかった。
私は何を考えているんだ?機械だぞ?心や深層心理などないのだ、そんなもの用意されずに生み出されたんだぞ。
否定してもさっきのアンドロイドが願う必要もなく幸せに在り続けているのだと思うだけで。笑みが止まらない。
その間々に〝では、自分は?〟と浮かび溜息が又かき消す。
外から見たら窓にへばり付いて笑っている変なオヤジだと思われるだろう。でもそんなのは全然気にならなかった。
関係ないのだ。体裁など。
[ピーン ポーン]
不知火は顔を戻し、戸口へと向かった。
「どなたですか?」
「・・・・・・」
不知火はもしかするとさっきの少女かもしれない。そう思いレンズも覗かず扉を開けた。
「どうも」
「あ どうも」
胸元までブラウンの長い髪が垂れ金色のわっかが耳元に見える、Tシャツにヨロヨロのジーンズを履いた顔の細い、凡そ三十歳の女性が立っていた、池上婦人だ。
呼び鈴を鳴らしたのは池上婦人だった。
「どうしました?」
「どうしましたじゃないわよ、取りに来るって言ったでしょ」
「え?」
「え? じゃないわよ、早く用意してくれる?」
「いや、先ほど池上さんの使いと言うアンドロイドが写真とか報告書とかを持って行ってしまいましたが」
「は?何言ってんの?家にアンドロイドなんて居ないわよ」
「そんな?じゃあれは?」
・・・・・
「そうですよね?」
不知火は少しぼけていたと言う様にお茶を濁した。
「すいません、ネットは繫がってませんがPCに控えのデータがありますで直ぐに印刷しますね」
「もうっ、そんな事もあろうかとフラッシュメモリー持ってきたわよ」
「あっはい、いまメモリーに移しますね」
不知火は池上婦人からフラッシュメモリーを貰い、パソコンの電源を入れた。
・・・・・・・
・・・・・・・
パソコンが立ち上がり、暫くして不知火はきづいた・・・
「すいません、奥さん?」
「何よ?」
「PCが古いせいで、USBポートが無いです」
「もうーっ」
三ヵ月後
不知火探偵事務所は臨時休業の札を下げていた。
「あの子はいったい・・・」
あの後、不知火は池上婦人に浮気調査のデータを渡す事が出来なかった。
それはPCにUSBポートが無かった所為でも、時代遅れの型落ちPCであった性でもない。
無かったのだ・・・データ素の物が・・・
ついでに言うならば、不知火はその件の料金も徴収する事は出来なかった・・・
不知火は、あの少女の事が気にかかって仕方なかった。
そこで、調査する事にしたのだ。
一番怪しいのは・・・中村チハタだと不知火は考えていた。
ここ三ヶ月、チハタの素生や身辺を徹底的に調べた。
奈良県の小さな町の出で両親の名前は中村智之、美奈である。実家近くの県立高校を卒業、その後美佐原工科大学の情報分析学部を卒業し、大手企業の情報心理課に配属される。
勤続七年。
社内では、言われた事はしっかりする“出来た社員”である。これはチハタの同僚の言っていった事だ。
給与、賞与、共にかなりの額を貰っているにも関わらず。都内の15万程の安マンションに一人暮らし。
結婚はしていない。
彼氏なし。
池上忠雄とは、今から一年ほど前に偶然隣になったバーで口説き落とされ、そのまま、ホテルへと・・・
行きつけのバーの店員と二人の会話からの推測である。
正規での執事アンドロイドの購入記録なし。
現在では、違法改造、自主制作の禁止を目的にアンドロイドの購入には車を買うような手続きを取らなくてはいけない。
都内のパーツ屋や、擬似体の売っている店は全てあたったもちろんどちらも違法な商売だ、ゆえに記録を残す事のない、それに類似する店も何百件と聞きまわった。そういう所は始めは「お客さんの事はね・・・」等と言っているが小銭をチラつかせれば直ぐに口を開く。
擬似体とは、写真や絵を持って行き“この通りに造ってくれ”と言うと、顔つき、背丈まで同じ残存擬似アンドロイドをオーダーで作ってくれる店のことだ。肖像権の問題やプライバシーポリシーを著しく侵害しているとして、早くに法律化された。
池上忠雄も同様に購入暦なし・・・
「はー」
公園と言うには淋しすぎる芝生とベンチとしかない広場でだらりとその木製のベンチに腰を掛ける。
結局三ヶ月でそれだけしか解っていない。
中村チハタという女性は、池上との不倫以外では全くの普通の女である事・・・それだけだ。
なだらかな低く短い丘が、目の前を流れる川まで続き見晴らしのいい所になっている。川の向こうには街並みが広がり水はそれを映している。
暗い青か、それとも、コバルト色かの四角柱が連立し、その間を筒状の道が縦横に走る、琥珀色の薄透明のその筒の中を楕円がまるで赤血球の様に巡っている。
ここには人の気配は全く無い。
皆、何かの箱の中に入り、そこを一歩たりとも出様としない、箱から箱へ移動し、また箱の中へ帰る。
日本は、3000年に物理パルス線を列島全体に張り貿易の完全管理体制を取った。2012年に自由貿易化改革が進められたが、それも、2030年に起きた月光事件により、白紙に戻った。
不知火は、その事に気がつき諦めるようにうな垂れる。
「俺もその一人か」
・・・
「はー」
不知火は、この情景を見ていると、たった一人によってこの社会全てが、設計、構築、循環されて居る様でならなかった。
たった一人の理想が強要するわけでなく、巧みに、仕向け、そして、時間と共に人々が現在の形へと収束していく、そして納得し其処で生を送る。
一人の理想主義者は圧倒的な論理的思考の持ち主で、皆その計算上でそれぞれのなすべき仕事を然るべく行っている。まるで電子回路のようだ。
不知火は腕時計を見る。
昼の十二時。
時計はそう指している。
六月の暮れだというのに露も知らずに空は晴れわたっている。風も気持ちよく暖かだ。
不知火の虚ろな半開きの瞼が一瞬暗闇に落ち、気づいては開きを繰り返す。
不知火は睡欲に逆らおうともせず、その何度目かの繰り返しで瞼を瞑った。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
夕暮れだ。
・・・・・
細くした目で沈みかけの日をまじまじと見つめる。
・・・・・
私の目の前に影が現れる。
・・・・・
私に向けて・・・・あれは微笑んでいるのだろうか?
真ん丸の夕日に眩みきった目でははっきり顔を捉えられない。
影は私に歩み寄り、二人の間に風が吹かないほどまで近づいた。
暫く、夕凪が色以外の全てを奪い、彼女は私を優しく、抱く。
桃の花の匂いが、私の顔の直ぐ横に在る、髪の束から匂う。
彼女の手は強弱の波を打ち、結局は、強く私を抱いた。
私の名を愛しいと繰り返すわけでもなく、一度、しっかりと言う。
・・・・・まなと・・・・・
母と言う年でもないし、幼馴染と言う年でもなさそうだ。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・
「はぁー 寝ちまった」
不知火は時計を見る、四時半そう、時計は指していた。
不知火はおぼつかない脚で立ち上がり、歩き始める。
何メートルか置きに溜息をつく。
不知火は町外れのスラム街を横切り、同じ様に溜息と足並みとを3サイクルで繰り返し、歩いた。
蝉の声が、そのうちに聞こえ始める・・・
辺りに人気は無い。
スラム街の外れに人工の山がある、そこにしか場所を設けられなかった木々たちがそんな事など知りもせず、青々と葉を茂らせ、風にさわさわと揺れる。
周りには幾つか車庫のような物があるが、どれも、錆びれきって、使われては居ない。
風や、雨や、砂粒が叩き擦れ、形を崩そうと歳月と共に造物を誘う。
不知火は同じような車庫の一つのシャッターをきいきい鳴らし開けた。
「久しぶりだな、前に来たのは、フラれた時だったかな?」
中はもわりと熱気が篭って薄暗かった。目はいきなりの暗闇に、なれず、平面から浮かび上がる三つほどの濃暗と淡暗で輪郭を作る形を捉えるばかりだ。
目がなれる前に不知火はその中に入った。
コポ コポ コポ・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブゥアオオオ ブゥアオオオ ブヮオオ ボッボッボ
・・・・
庫内に連続した爆発が轟く。
アイドリングは安定しているようだ。
まだセピアがかった黒馬に跨り首を撫で、調子はどうだとでも言うようにオートバイに乗り静かにタバコをすっている。
デコンプは好きになれないな、この重さが機械だと、理解させてくれる。
それ以外の利点はないが・・・
昔は良く、不動車を持って来ては、磨いてたな・・・
キャブとエンジンとマフラーの曖昧な空気のバランスそれがなかなか解らなかった。
死に掛け、助けを呼んでいた廃車を組み上げてやると、感謝じゃなく、捻くれた、諦めを吐いている様に見えた。まるで私が老体にバネやギヤトレインやオイルを注して無理やりに叩き走らせようとしているみたいに、思えて仕方なかった。
それでも私は、夢中でやつれ切ったオリフィスを拡張し、無我夢中で下死点と上死点に圧縮と吸引とを求めた。その腹を割り、中身をモリブデン鋼のフライホイールとクローズミッションに挿げ替えた。
白目を向き、削げた候を開け諤々と中身を弄繰り回されている触感を意識の範疇に納めている老体を、そのものの願いも知らずに、只只追窮し続けた。呼吸器官はロスのあるバネとロッカー等では私の満足を満たさず、回転数に強制的に開閉させるための機構を組み込んでやった。
オーバードライブその果てに何があるのかが知りたかった。
トップ 1:,238
そんな物も造ったが、もう既に乗り物ではなくなっていた。実際にはミッションのドライブシャフト側の歯率だ、第3減速機構で落とさなければ、発進さえままならない。
今なら、私に拾われる、その時のあいつ等の声がわかる。
“ほっといてくれ”
淋しそうに見えたのは助けではなく、おぼろげな主人の思い出を回想する黄昏であったのだ。
あの時の私はまだ若かった・・・
不知火は、イグニッションスイッチを切った。
天井からぶら下がっている紐を引く。
長い二本の蛍光管がぱちぱちとつく。
「スラムの電柱まだ電気通ってんだ」
車庫には、中央にバイクが三台、その奥にラジオと、足長の灰皿と酷く綻びたソファーがある。
不知火は、ラジオを付けるとソファーにドスンと座り、タバコを床で消して又新しいタバコに火をつけた。
ザーーーーーーーーーーー
ラジオからは何も聞こえない。
不知火は、三ふく程して、ラジオを合わせた。
「ザザッザザ----ゆ・・・方の・・ニュースです」
この時代のラジオ放送など何の意味も無いが、災害時に電波情報は重要な情報源になることから、ニュース、天気予報、などが、今でも毎日放送されている。
「本日、午後、6時頃に、ザッ- ・・・ で、爆破事件が起きました。幸いにも死者は無く、現在調査が進められています、なお、重軽傷者、は、私立病院に搬送されています。」
「繰り返しお伝えします。本日、午後、6時頃に、高栄情報プラント株式会社で爆破事件が起きました・・・」
不知火はラジオに向け目を丸くした。
ラジオが言っているのは中村チハタの会社だからだ・・・ラジオは追って、重軽傷者の氏名を伝える。その中に、中村の名前も含まれていた。煙を吸い込んでいた事を忘れて、表情を制止させ、目を大きく開けていたが、肺が、毒物を出そうとする働きを不知火に叫び、せき込みながら動いた。
これは、きっと、妄想だと思う・・・。不知火の頭の中では、和服を着た、やつれた扇子持ちの老人が、座布団に座りながら、扇子を振って前口上を言い、本題へと入ろうとしていた。これは、それは、物語で始まりから終わりが巧妙に仕組まれ、決定された。一本の線の様なモノである。と言う予感。しかし、今は、あまりにも、証拠が茫漠としており、それは、予感に過ぎないし、妄想だと片づけるほかない。
中村チハタを対象とした浮気調査、不可解なデータの紛失、チハタの会社の爆発事件。それらに因果関係を持つ中村チハタ。彼女が持っている。一本の線。そんな物は、はっきり言って、誰だろうと持っている物だが、大きな秘密の逆巻がそこにはある事を不知火は、感じ取った。
他人の不知火には、壮大な絶景を『おお~』と眺める如きことだったが、何人かの体を飲み込んで、逆らって必死にその渦から、逃れようと、半身をクロールして見せている人間、『ああ』と不可逆的に巻き込まれてしまって、それも、自分の所為だからと諦めながら、釣りの丸い浮きの様に渦面に頭を出して只結末を待ち受ける人間、もう溺死しているのだろうか、背中を浮かせ漂っている人間、こんな、大きなものを自分で作ったと思っているのか?、企みじみた笑みを浮かべ、流されている人間。
その、大きなうねりを、不知火は唐突に見たのだか、その中に、居たのだ。あの少女が、いや・・・いたらいいのにと思った。以前あった時と同じく、少女は、無機質で、周りの人間とは違った。周りの人間は、結局自分の持っている、心の土砂によって流されているが、もちろん、他人の土砂にもだが、彼女は、余りにも、無機質で、彼女は、純粋で、その汚泥の渦の中にいると言う環境を憂いては居なかった。当事者が見ることのない角度へ、健全な視線を向けている。それは、神の視点で、その渦を眺める、不知火の方角へ・・・何も言わない・・・なんの動きも無い。助けてほしいのか?それとも、自分の企てを邪魔しないで欲しいのか、純粋だけど、単純じゃない何かを訴えている。それが、妙に美しかった。
「君のいるべきところは此処じゃない・・・ここではないんだ」騒然とクライマックスを迎える群集劇のあわや敵対する人間に突き立とうとする刃や、どうにも、身勝手な了見で相手をねじ伏せようとする口論で飛び散る唾を振付通り掻い潜り踊りながら躱し、ステージ際、観客の目鼻先に躍り出て、『此処は、君のいるべきところじゃない』そう、傍白する自分を見ていた。
「久しぶり」
彼女の抱く感情の推測を不知火はやめた。薄暗い小屋の埃っぽい、不知火の視野の中に男が現れた。汚い服を着ている長身の男が、片手を翳し、不知火の顔の前に覗き込むように現れた。
「おう」
しつこく、不知火の顔に付きまとう男の顔を不知火は、手で押しのけた。
「元気だったか?」
男は、姿勢よく、立ちなおし、首を下に向けて、座っている不知火を見下ろす。
「それは、こっちの台詞だよ」
「俺は、いつだって元気いっぱいだよ、こっちは、色々あって、飽きないからな」
「そう・・・一つ聞くけど?お前って、まだホスなの?」
男は、笑った。
「違うよ、脳の中はニューロンに沿ってアノード、カソードが入ってるし、体は着せ替え人形さ・・・今のご時世、オリジナルなんて、お前ぐらいじゃないか?、金持ちだろうと貧乏だろうと、体は老い、脳は衰える・・・・だから、みんな、肉体改造を必要としているし、これから殆ど全ての人間がそれに依存する。
・・・『種の法則』さ・・・世代を経ると、徐々に劣って行く。整備されすぎた環境・・・個人の精神尊重・・・」
男は、不知火の隣に落ちる様に座って、無造作に掌で自分の頬を揉んだ。
男は、少し、不知火と論議したいらしい。
「つまり?」
「『種の法則』は自然な事だ。しかし、人間は、それに逆らって、進化し続けようとしている。劣っていくと言う問題に対して、それを矯正するテクノロジーによって快刀乱麻を断った訳だ」
「今俺に出されている問題は、起源的な人間の消失か?」
「御高察、進化は、初めグラフを登っていく、しかし、在る頂点を作って下降し始める」
「その頂点が、『種の法則』か?」
「御名答、その山なりのグラフは、起源的人間に用意された宿命なのさ、それに従えば、人間は人間足りうる。しかし、それに逆らい、グラフを持ち上げようとする事は、人間を他律下で画一させてしまう。綺麗に配列し個性を失ったロボットの集団を民衆と呼べるだろうか?」
「ふっ、呼べないな・・・しかし、荒唐無稽で極論だ、もし仮にそんな結果が来るとして、それは、遥か先の話か、SF映画の中の話だろう?」
「もちろんそうだ」と言う様に男は笑った。
不知火は、唐突に男への依頼を切り出す。
「お前・・・暇だろう?探し物に協力してくんないか?」
男は、不知火の顔を不思議そうに窺い、何かを探す様に顔の各部を順番に見た。
「何を?」
「一言で言えないな・・・」
逸らした顔の向いたままの方向にはぐらかす様に答える不知火。
「恋か?」
不知火が、探偵事務所をやっている事は知っていたが、その仕事を手伝ってくれと頼まれるのは、長い付き合いで初めてだった。
「いや、享楽だ」
男は、顔を曇らせた。
「報酬は?あるのか?」
「分からない」
男は鼻で笑った。
「そりゃー恋だな。いいよ、暇だから」
・・・・
不知火は、事の概要を説明した。
「恋する盲目野郎の目だけでなく、客観的に見て、つながりがありそうだな・・・しかし、お前の所に来たハニーちゃんは、余りにも不可解だな」
「ハニーちゃんて・・・生身の俺には、アクセスできない情報もあってな、そこんところお前に頼みたいんだけど?」
「いいけど、その、ハニーちゃんも含めて、アルゴリズム検索してあげるから、なんかない?」
不知火は、目の玉を上げる。こういう時に、身体改造していれば、簡単に少女の容姿や顔が出力できたのにと思いながら、渋々と首を横にふる。
「ん~お前?・・・本当に生身なんだろうな?」
「何だ急に?だからそうだって」
男はふーんと声に出しながら、小屋の出口へと歩いて、不知火に「来い」そう言った。何を考えているのか分からなかったが、不知火は男に付いて、小屋を出た。小屋の中が蒸していた所為か外は暑いにしてもまだ気持ちよく感じられた。男は「熱いなー」そう言って、ギラギラ光る太陽を一度仰ぎ見てぼやぼやと屈折する景色の中をとぼとぼ、何処かへ向かって歩いた。蝉は、暑さを盛り上げて鳴いていた。
現在、蝉の声は、一年を通して聞こえる。西暦3210年の地球の年間平均温度は、25度に達し、古代の熱帯と変わらない表層温度となっていた。しかし、それは、人間の干渉しない地帯の話で、人間のテクノロジーが、ある範囲をある程度の温度域に調整している。
しばらく、陽炎の中を男二人歩いて、崩れかけそうな鉄筋コンクリートのマンション跡と思われる建物の前で、男は止まった。不知火は建物を見上げる。罅割れ(ひびわれ)は、中の鉄筋を見せるほど大きく、あちこちにあった。一階は、電子部品や切断された肢体の様な義肢物が、ジャンク品として並べられている、店のようだ。どれもが、汚れて、帯に短し襷に長しといった姿で、コンテナボックスに雑多にまとめられていた。奥ばった一階は、影が強く、中には人の気配が無いように思われたが、男は、目的の人間の名前を叫ぶ
「博士―・・・いるのかー?」
そう叫んで、男は、一階の暗がりへ手を立てた耳を向ける。
・・・・・・
乱雑に通路からはみ出て積まれた部品が崩れる音・・・きっとその音の主は、転んだ・・・。
「何じゃ?誰だ?」
足に絡まったコードを引きずりながら、小太りで癖毛の白髪を生やした中年の男が暗がりから此方にゆっくりと近づいてくる。『博士』とはあだ名だろう?それにぴったりの容姿をしている。
まあ、日差しは眩しいのだが・・・三人そろって、顔をしかめて、互いの顔を見やる様な、奇妙な沈黙が博士の登場と共に現れた。不知火は窺うばかりで、切り出すはずの男が、その、しかめっ面の沈黙を楽しむように保っている・・・・。「なんじゃい」・・・虫がたばかっているような、それを博士が壊した。
「生身の脳様のインターフェイス・・・・とか言うやつあったよね?」
博士は、「ああ、あれか?」そう言って、振り返って建物の影の中を進んでいく。男と不知火は、それについていく。
「でも、あれは、完全に生身の人間にしか使えん、人間の体に機械が入る前からの旧態依然の代物だぞ、マモラ」
そう言って、振り向いた博士の横顔は、眩しくも無いのに、困った様なしかめ顔だった。生まれつきの癖なのかもしれない、一歩間違えば、『イボイノシシ』きっと、そうあだ名がついていただろう・・・そんな事を不知火は考えながら、三階ほど、階段を上り、一つの部屋に、三人は入った。
窓枠しかない窓には、木の板が張り付けられて、その隙間から、日の光がさしていた。おそらく、強盗対策だろう。中央には仰向けに横たわれる様なイスがあり、その左右には、モニターがいくつかと、それに続く、機器やキーボードの類が取り囲むように並んでいる。博士は、モニター側の机に向かい、腰かけ、電源を入れる。ぎくしゃくした電子音、電荷が行き成り、起こされ、それぞれ、慌てて支度し、ぶつかって、立ちなおる、エラー、自己修復、エラー、自己修復、それらを繰り返して、やっと、モニターが付いた。
「よし、まだ、使えるな」
博士は、独り言して、不知火を中央のイスに座る様に、促し、脂汗を拭う。
男は、博士の傍らで、腕を組んで、高見の見物をしながら、不知火に皮肉めいた笑いを浮かべる。
不知火は、イスへと横たわり、博士の助手へと、成った男に、妙なヘッドギアを被される。
「夢と言うモノを知っているか?マモラ?」
博士が、不意に男に話しかけた。
「いや」
行き成り妙な話で、不知火は男と博士の方を横目に見る。
「人間の精神は、たった一つで、肉体はその精神の末端だと言う事だ」
「その事を夢と言うのか?」
不知火の脳をスキャンする準備をキーボードでしている博士が・・・暇つぶしの話なのか?続ける。
「いや、末端から得られた情報を精神に帰還させるのが夢だ。面白い考え方だろう?マモラ」
不知火は、博士が「マモラ」というたびに、方言なのか?只、語尾に付ける癖を持っているのか?気になった。しかし、男に向けて言っている事を、ここに来て気づいた。
「お前?マモラって呼ばれているのか?」
「ああ」
「マモラって、オオノガンの――「では行くぞ―― ――事だよな?」――そういえば、君は?生身なのか?」
不知火と博士の言葉が被さり、不知火は、マモラに向けた疑問が解消される前に、違う疑問に驚いた――そういえば生身だと確認されていなかった・・・博士の質問に不知火が答える前に博士はエンターのボタンを押していた。「おい、おい、もしも、私が生身じゃなかったらどうすんだ?」博士の妙な部分への抜け落ちにひやりとさせられて・・・太い鉄筋の丸棒がこめかみを一気に貫通した様な衝撃を受け、意識を失った。
夏の騒めく光、蝉の軍勢。ひんやりとしたコンクリートの階段の踊り場、そこに私は立ち尽くして・・・木の陰とそれを作る光、それが、私がみつめている下の階の床で踊っている。とても巨大な建物の一角・・・そうだと分かる。急に反響する足音、それは、私を探している。殺そうとして来るのか?それとも、只、出会いたくてこちらに来るのか?近づいてくる。どちらにしろ、私は、動く気はない。映画の観客と登場人物の様に、この踊り場と見つめる下の階は、不可侵である様な気がするからだ。
足音はとうとう、直ぐ近くに来た。自重は、軽い、階段をこちらに向かって登ってくる。それは、駆けているから聞き取れた。もう一つは、悠然と、姿を先に現した。下の階の左から、腰に手を当て虚ろそうに斜め下をむく男。私は「残念、可愛い女の子ではないのか?」そう、無意識に過る。下の階の中央まで男が歩いた処で、もう一つが駆けのぼってきた。今度は期待通り、身長も満たない。女の子であった。女の子は、階段を駆け上った勢いのまま、男にぶつかる様に抱き着く。
男は、見つめていた虚空から、実際の目の前に意識を向け、女の子に微笑み、頭を撫でた。男の微笑みは、女の子を憐れむように、屈託していた。男の腹部に潜り込むように顔を擦り付けて、此方からでもわかる様な大きな吸気で、男の匂いを嗅いで、安心に満ちた溜息を呼気として出す。それが終わると、顔を見上げて、男を見る。
「博士?」
「ん?」
「愛は、見えますか?」
その質問に、蝉は勿論、世界のあらゆる趨勢が、聞き耳を立て、静まった・・・博士も同様、答える側としての自覚は無く、答えを待った。
『私は、答えられる』漠然とした自信と挑戦したいという意思を持って、少女が、こちらを向く事を期待して見詰めた。しかし、それを、答えることに意味はない。意味は無い事も無いが、この場に、その答えを特段必要としない様に少女は質問した後、いっそう、幸せそうな微笑みを増した。そこにある要諦は、私は博士を愛している事を伝える為と、博士は私を愛していると少女は認識している事、それを題した言葉でしかない。
耳を押し当て私と反対側に向いて、博士を強く抱きしめた少女の髪は、赤茶色で燃えるような色をしたキノコ頭だった。
不知火は、「妙な夢だった」そう呟き起き上がる。
マモラの姿は部屋の中にはなかった。もう、すでに消えている画面の前に座ってる博士・・・一枚の写真を持って見つめていた。それは、不知火の記憶の中の少女の全身が映っている写真で、それを凝視しながら、言葉を博士は出した。
「本当に、生身だったんだな」
「ええ」
「本当に、夢を見るんだな・・・」
「ええ」
「君のハニーちゃんの写真は、取り出せたがこの子で間違えないな?」
こちらに、翳されたその写真を不知火は、もう一度見る。
「そうです・・・生身の人間はそんなに珍しいですか?」
「珍しいも何も、いない筈だ。君の様に普通に闊歩している生身は・・・」
「どういう事です?」
博士の意味深な回答は、空中を煙の様に漂って、それが、ついには消えるのをぼーと見るように、不知火は、博士のその言葉の先を聞かなかった。
「しかし、この子本当に綺麗だね?」
「見た目は・・・そうですね」
「見た目は?」
「だってそうじゃありませんか?中身なんて、分かりっこない」
「君の脳から出した、彼女のこの写真は、君の記憶だ・・・でも視野の記憶ではない・・・」
「なに?」
「君は、彼女と会ったその時、脳をハッキングされている・・・だから、実物ではない・・・そもそも、会っていない可能性がある」
不知火の頭の中では、あの時覗き込んだレンズの中にいた。少女が映っていた。
「あの子自体も、実際のモデルが居ない、只の架空の存在なんですか?」
博士は、腕組みをし、唸った。
「この機器のように、脳内の微弱な電気信号と、脳質の経験的な質量バランスの構造を読み解いて、現実に置き換えた物を出力する機器は、他にもある・・・他人の脳にハッキングし、コントロールする入力的な機能の機器脳を備えている者も居なくはない。問題は、君の様に、全くの生ものの脳相手だと言う事だ・・・中身を見るには、脳機器化されているものと違い、微弱すぎるし、密度測定もしなければいけない、必然、大掛かりな装置が必要になってくるし、脳のハッキング視角ジャックやフォスメモリーの植え付けの様な入力的な事は、機器化されている脳にしかできない。」
では?先ほど博士が言った不知火はハッキングされた。その根底から、奇怪な事になる。
「しかし、さっき?ハッキングされたと?」
「正確に言えば、ハッキングされた様なパターンの残留脳波が見られたと言うだけだ。それも、機器脳の場合に置ける波長のもので、生身の君の脳から、それが検出されたところで、それが、ハッキングだったかは分からない・・・可能性としてだ・・・」
話を曖昧にすることは不本意であると言わんばかりに博士は捻じ曲げた自分の口を見るようにして、ため息を吐いた。
「内側・・・」
「何ですか?」
思いついたような顔をして、博士は目を上へ向ける。
「内側からのハッキングだったんじゃないか?」
「私の内側?」
操作性の端末が幾つもある、サーバーなら、ネット経由ではなく、有線の端末からのアクセスだと言う事が分かるが・・・人の内側とは?
自分でも、要点を得ない事を言っていると分かっていて、それをさらに博士は整理しようとして、音を鳴らして息を吸ったのち、続ける。
「君の無意識による、君への制御だったのではないかな?」
「はあ・・・私は、多重人格で、その人格の一つが私に、池上の浮気調査を夫人に渡す事を阻止したわけですか?」
博士と私は、示しあわっせたように笑った。
どちらか、早くやめてくれないか?そう二人で、思いながら、笑い続けていたが、部屋の扉が開いて、二人でそちらを見た。博士との妙な会話に不在だった、マモラが入ってきたのだった。
博士の所有する違うきっとおかしな奴だろう。そんな機械を使って、マモラは検索していたのだった。
「妙だ」
博士と不知火は、マモラの第一声に首をすくめて、説明を待った。
「まずは、中村チハタの会社で起きた爆破事件だが・・・これは、兼ねてから、燻っていた過激派の仕業だな」
「兼ねてからって?」
「機械が人体に参入したころからってこと。神経系と機械の義肢を繋げる技術が国に認可された時に、一発事件を起こしてる。それからは、大きな事件を起こさずに、宗教団体に近く、その息を出る事は無かった。『き傷』って言う組織の、末端の一ノ瀬 和人が、腹の中に旧式の爆弾を詰め込んで犯行に及んでる。『き傷』からの声明は、出されてないが、和人個人の犯行ではないだろうな・・・。和人の脳核は、吹っ飛んでて、入れんかったから、分からんが・・・」
不知火は、驚きの顔を見せる。
「博士?俺が、眠っていたのはどのくらいだ?」
急に話を振られた博士は、現在の時刻をふと思い立って確認する様に、声を出した。
「3分ぐらいかな?」
大きな組織が絡んでいる事にも、確かに驚いたが、不知火の脳スキャン、が3分、その後、2分程たってからマモラは現れた・・・物の5分で、それだけの情報を収集できることに驚いていたのだった。
「5分足らずで、個人の脳にまでアクセスできるのか?」
「そこか?・・・確かに、簡単ではないけれど、俺のは、特注品でね、博士の『スカイ・ダイビング』で、検索すれば、できるよ・・・高度通信情報システム解析クラウドに入ればいいだけだから・・・」
思考を持つ存在、人に限らず、それらの、機器脳には、情報領域慣性航法装置(ITINS)と言いう装置が取り付けられている。その装置によって、個人、または、企業の傾向的な趣向を予測しコンテンツサービスの提案やプランニング提案を無償で行っている。また、外部記憶バンクの機能も果たしているウルトラ情報クラウドで、それらの個人的生活の軌跡の集積である性質を持ち最もその情報を必要としている社会保障局の管轄下に置かれている。その中の情報は、特定の権限で、特定の情報を得る事も出来、訴訟事案で持ち出されたり、企業への情報提供を運営資金としている。(主に電力)無数の雲が空間に浮いているイメージがあり、この広大なサイバー空間は『スカイ』と通称で呼ばれている。
「何だかよく分らんが・・・俺の商売が不調なのはよく分った・・・」
そりゃそうだろな・・・そういわんや、博士とマモラは顔を見あわせた。
不知火は、悲しそうに、息をついてから、質問する。
「・・・て、事は?高栄情報プラントで、『き傷』の教えに背く様な事が行われていたと言う事か?」
「おそらくは・・・」
「おそらくはって?」
「高栄情報プラントは、広告代理業と完全自動化製造ラインのプログラム製作プラントサービスを主にしている・・・この二つの業務を分化して、幾つかの課が在るのだが、そのどれも、が大した事は無く、情報の収集が出来た・・・・が、中村チハタの所属する情報心理課だが・・・人事記録しか分からなかった・・・それが・・・妙なんだ・・・・情報心理課の人員は、一人だけ・・・経費の算出記録も不鮮明で、業務内容もスカイ内の高栄情報プラントのクラウド群にはない」
不知火は顔を曇らせる。
「完全に・・・妙だな」
「おそらく、情報漏洩を防ぐために、通信を遮断した状態で、何か行われていたとしか言いようがないな」
不知火は閃いたようにマモラに質問する。
「中村チハタの脳にはアクセスできなかったのか?」
自分のハッキングが、対して完全ではないと皮肉られたように聞こえたマモラは、訝ってふてくされて言った。
「チハタは、爆破事件で、人体の殆どを破損している。現在、私立病院で、脳核だけの状態のまま、体を待って休養中だ・・・全ての通信をオフラインにしてな・・・」
「もっと、妙なのがあるぞ・・・池上忠雄と中村チハタの浮気だが・・・これは・・・浮気じゃないな・・・」
え?不知火は、疑問に口を開ける。
「池上忠雄は、防衛省の人間だ・・・」
さらに、不知火は口を開ける。
「ぼ・防衛省?」
「ああ、防衛研究所の職員だ、お前の浮気調査とやらで、分からなかったのか?」
かぶりを振って意識を戻す不知火。
「調査対象者ならまだしも、依頼者の事は、調査内容に関係なければ、調べない」
「あっそ」そう言ってマモラは続けた。
「防衛研究所の人間が、謎の研究をしている人間に会う・・・只の浮気ではないだろうな?」
「分かったよ!浮気じゃないに決まってる!俺の調査は、5分で覆された出鱈目でしたよ」
マモラは嬉しそうに笑って「よろしい!」そう言って不知火を嘲笑った。
「池上の脳は?ハッキングできなかったのか?」
又、俺をからかうのか?一瞬奮起させた顔を見せるマモラ。
「こういう機密事項だらけの人間は、頭蓋がファラデーの箱になってて、通信が二回路に分かれてる。重要な事を通信するには、物理的にファラデーを開けてからだから、そう簡単に入れん」
「あっそう・・・ふーん」不知火はほくそ笑んで横目にマモラを見た。
「此処で、一つ理解してもらいたいんだが・・・」
神妙な面持ちを作る様にそして、少し困るよな顔をして首筋を荒く掻いた。
「何だ?」
「もしかすると、国を相手にするかもしれんよ?いいか?」
煙草を咥えて、火を点ける。真上の空間をマモラの質問など漫ろ言にして、ぼんやり見て、例の少女の顔を頭の中に思い浮かべる。泣いてるか?私など眼中にないか?一行不知火の中の少女は無表情だった。笑顔がみたいな・・・意味不明な理由で不純。マモラは、そんな不知火の沈黙を待つように眺める。
「享楽だ」
マモラは、これだからこいつは・・・そう呟いて、笑い払った。
「いいよ、暇だから」
「少女の事は、何か分かったか?」
躊躇う様に頷いて、少女の検索結果を話す。
「うん・・・お前のハニーちゃんは・・・なんだか、オカルトチックだ・・・東北の空調管理エリア外の廃墟で、出る幽霊だの、仮想空間ゲーム『夢』の中で現れるセラフと名乗るキャラクターだの、名前の挙がった『き傷』の崇拝する逸話の中で、人間を本来の形に再構築しようとする女神とか・・・名前は、違うが、容姿は、赤髪に赤い目とお前の見たような体、顔つきだ・・・関連性があるとは思えないが・・・こんなのもある、『無限セックス』なんていう、風俗仮想空間の中の瞳ちゃんっていう子が、よく似てるな」
風俗の部分に言い及ぶと、不知火は、「おい、おい」と声を出して必要のない事を示した。でも、隠して利用したい気でもいた。
「分かったのはそんなもんか?それだけだと・・・後は?・・・」
マモラは、ため息を吐いた。『スカイ・ダイビング』で得られた情報は、殆ど行き止まりだった。その事からして、不知火が、この後の調査の手段を好ましく思って、それをマモラ自身に言わせたい気でいる事を察しての溜息だった。
「現場に・・・行くか」
いつもは、殆ど検索だけで事の全容が、分かる筈なのだがな・・・そう、思いながら溜息交じりに不知火にそう告げる。
「よし!!何処から攻める?」
「『き傷』は、厄介だからな、防衛省も・・・そうすると、高栄情報プラントに行って、有線のデータか何か残ってないか見てくるか?」
二人は立ち上がった。博士は、いまだ眩しそうな顔をして、二人を見上げていた。
・・・・