第一章:潜入と開宴の暗闇
鉄扉が背後で重々しい音を立てて閉ざされた瞬間、外世界の僅かな外光は完全に遮断され、一行は生暖かい粘着質な暗闇へと放り投げられた。
「・・・・うわ、臭いが本格的すぎるわね・・・・」
最後尾のセラが、ピストルベルトの擦れる音すら殺しながら低く呟く。
鼻をつくのは、単なる湿気やカビの臭いではない、長年放置された紡績工場特有の腐食したオイルの臭気、濡れた綿くずが腐敗した生ゴミのような悪臭、そして演出用に塗布されたと思われる、生臭い鉄分を含んだ模造血液の濃密な残り香だ。息を吸い込むたびに、その粘着質な空気が肺の奥深くにまとわりつき、生理的な悪寒を呼び覚ます。
足元を照らすのは、各自のグロック17の先端から放たれる鋭いLED光芒のみ。白く強烈な光条が切り裂く視界の先には、おどろおどろしい光景が広がっていた。
天井からは、経年劣化で引きちぎられた巨大な高圧ケーブルや配管、そして錆びついた太い鎖が、まるで蠢く大蛇の死骸のように幾重にも垂れ下がっている。空気中には細かい埃と人工のスモークが濃密に浮遊しており、タクティカルライトの光を乱反射させて周囲の闇をかえって不気味に白く煙らせていた。
壁面には、コンクリートの剝げ落ちた隙間から毛細血管のように赤い塗料が滴り落ち、干からびた黒ずんだ手形が無数に打ち付けられている。さらにその上から、発狂した人間が爪を立てて書き殴ったかのような、掠れた文字のメッセージが書き殴られている。
『逃げられない』
『足元を見ろ』
『次はあなたの番』
「・・・・演出と分かっていても、精神的に削ってくるわね、この空気」
後方を守るセラが、グロックを胸元に引き付けたローレディの構えを維持したまま、眉根を寄せる。彼女が潜りぬけてきた数々のシビアなサバイバルゲームのフィールドでも、ここまで五感を精神的に追い詰めてくる空間は稀だった。
「足元、注意して。散乱物が多いわ」
先頭のリンクスが、低い声で後方へ注意を促す。
床面には、腐食して底が抜け落ちた木箱、倒れたドラム缶、破裂したスチームパイプの破片、そして誰かが引きずられたかのような赤黒い血痕が伸びていた。一歩先を踏み出すたびに、足底から伝わる不穏な感触と、カツン・・・カツン・・・という小さな靴音が、無音の空間に過剰なほど大きく反響する。
「ポイント、分岐点。右は細い通路、左は広いホール状の空間」
ポイントマンのリンクスがハンドサインとともに低音で報告する。 5マンセルフォーメーションを維持したまま、彼女たちは背中を合わせるようにして周囲360度を警戒する。リンクスとバーマンが前方を扇状にカバーし、左右の警戒をアテナが、中央のオセロットが広域を観察、後方をセラが完全にカバーしていた。
一般的なサバゲーマーなら見落とすような天井のダクトの隙間や、倒れたドラム缶の陰に至るまで、彼女たちの光芒は寸分の狂いもなくセクターを走査していく。
「左のホールへ進む。明かりが皆無だ。仲間をライトの照射で露出させないで。各自の担当セクターを確実に照射・クリアして」
司令塔であるオセロットが極めて冷静な声で指示を出す。
「了解」
リンクスとバーマンが互いの光を交差させるようにホールを照らし出す。 そこはかつての工場事務所の成れの果てのうようだった。打ち捨てられた大量のパイプ椅子、倒れて引き出しが飛び出したスチールデスク、蜘蛛の巣のように垂れ下がる無数の通信ケーブル。壁にかけられた古びた丸時計は文字盤が叩き割られ、針が11時55分を指したまま固まっている。
静寂。
静寂があまりにも重い。自分たちの規則正しい呼吸音と、鼓膜を打つ心臓の跳動音だけが妙に不気味に大きく聞こえる。
ポタリ・・・ポタリ・・・。
どこかの配管から落ちる水の音が、無機質な拍子を刻み続けていた。
サッ……。
ホール中央の倒れたデスクの陰で、不自然に影が伸びた。
「影、12時方向のデスク裏!」
リンクスの囁くような声と同時に、グロックのライトから放たれた目も眩むような白い光線が、一点に収束してその暗がりを穿った。
ウウゥゥ…………アァァ……。
胃の底を搔きむしるような、生々しく不快な呻き声。
デスクの陰からゆっくりと立ち上がったのは、ズタズタに引き裂かれた作業服を纏い、顔半分が腐敗して削げ落ちたようなリアルな特殊メイクを施されたゾンビ(役のキャスト)だった。
皮膚からは赤黒い血液と膿が垂れ落ち、目は落ち窪み、うつろな瞳がライトの光を反射して怪しく光っている。その頭部、おでこの中央には、直径数センチの小さな振動センサープレートが装着されていた。BB弾がそこに正確に命中しなければ、内部の電子システムが作動せず、倒れない仕組みだ。
ゾンビは喉の奥からゴロゴロと不気味な泡立ち音を立てながら、関節を狂暴にしならせ、急激に間合いを詰めてくる。演出とは思えない迫真の演技と移動速度。
「引きつけて……撃て」
パシッ!
リンクスの握るグロック17から発砲音が響く。ガスブローバックの鋭いリコイルとともに放たれた6mmBB弾は、正確にゾンビの額のセンサーを捉えた。
ピシッという電子音とともに、ゾンビはその場に崩れ落ち、沈黙する。
「ターゲットダウン。ワンショット、ワンキル」
リンクスが吐き捨てるように報告をし、すぐさま銃口を次の暗がりへ向ける。
だが、安堵する時間は一瞬すら与えられなかった。
ホールの最深部、闇に包まれた廃オフィス扉の奥から、爪でコンクリートを掻きむしるような耳障りな音が響き始めた。
ガリガリガリガリ・・・・!
ペタ……ペタ……ペタペタペタペタッ!
「1体じゃない……増援。数4、いや5!」 バーマンが冷静な声で警告する。
暗闇から姿を現したのは、先ほどよりも動きの素早い“変異種”のキャストたちだった。体を異常な角度に折り曲げながら、四つん這いで高速接近してくる。ライトの光が激しく揺れ、影が狂気のように伸び縮みする。
「落ち着いて。フォーメーション維持。ダブルタップで確実に頭を狙って」 オセロットが指示を出す。
パシッ! パシッ! パパン! パパン!
狭いホールに乾いた発射音が連続して響き渡る。 バーマンのグロックが火を噴き、四つん這いで突進してきた1体の額を正確に撃ち抜く。倒れるゾンビを飛び越えるようにして、別の2体が左右から同時に飛びかかってきた。
「左、対応するわ!」 アテナが経験に裏打ちされた素早い判断でグロックのライトを直射。眩起効果で一瞬怯んだゾンビの眉間に吸い込まれるように弾丸を撃ち込む。
「後ろも来るわよ!」 セラの叫びと同時に、背後の扉が激しく打ち破られた。後方からの急襲。 セラは微動だにせず、グロックを両手でガッチリとホールドすると、ライトの光芒の中心に迫り来るゾンビの顔面を捉えた。
パシッ!
至近距離でのヘッドショット。倒れ込むキャストの勢いを受け止め、セラは足で軽く蹴り飛ばして距離を取る。
「全セクター、クリア」 わずか数秒間の激戦。5人は熟練の呼吸を合わせ、足元に倒れるゾンビたち(システム上、無効化されたキャスト)の動きが完全に止まっているのを確認した。
水滴の落ちる音と、自分たちの激しい呼吸音だけがホールに戻ってくる。
「……ふぅ。演出のレベルが高いわね。大人を本気でビビらせにきてるわ」 セラがフッと苦笑いを浮かべて呟く。
「残弾確認。各自報告」 麻耶の問いに、各自が手早くマガジンを抜いて充分に弾に余裕あるかを確認する。
「リンクス、初弾合わせて5発使用」 「バーマン、3発」 「アテナ、2発よ」 「セラ、2発ね」
「了解。まだ序盤戦、節約を心がけて。……次に行くよ。制限時間は残り42分」
暗闇の奥へと続くさらなる深淵を見つめながら、5人は再び寸分の隙もないフォーメーションを組んだ。おどろおどろしい悪夢の館は、まだその惨劇の序章を開いたばかりだった。




