第2話:狂気のモザイク
「……おい、橘さん! 待ってくれ、橘さん!」
受話器の向こうから聞こえるのは、荒い息遣いとブツリという無情な切断音だけだった。
何度かけ直しても、電子音が無機質に響くだけで二度とつながらない。
湊はスマホを握りしめたまま、足元に転がるキャンバスを見下ろした。
赤い背景。そこに描かれた紺色の布地。
視線を落とすと、自分の着ている部屋着の袖口が、絵の中の描写と全く同じように擦り切れている。
「僕が……憐を喰らおうとした?」
バカバカしい。そんなはずがない。
自分は憐の才能を誰よりも評価していた。彼の絵に救われ、彼の個展を成功させるために寝る間も惜しんで記事を書いた。親友として、彼を一番近くで支えていたのは僕だ。
(橘さんは混乱しているんだ。……あるいは、何かを隠している)
左腕の痛みが、脈打つたびにズキリと皮膚を押し上げる。
赤く腫れあがった歯型の中心からは、今も赤黒い血がひとしずく、床へ滴り落ちていた。
湊は上着を羽織り、腕の傷を隠すように長袖のボタンを固く留めると、部屋を飛び出した。
向かう先は一つしかない。
都内郊外にある、憐の旧アトリエ。
三年前、彼が姿を消した「現場」だ。
午前三時半。
鬱蒼とした雑木林に囲まれた古い洋館風のアトリエは、月光を浴びて黒い影のように佇んでいた。
警察の捜索が済んだ後、管理権は元画商の橘に移っていたはずだ。だが、鍵は開いていた。
ギシ……と静かな悲鳴をあげる床板を踏みしめ、湊はアトリエの奥へと進む。
懐中電灯の光が照らし出すのは、ホコリをかぶったイーゼルと、散乱する絵の具のチューブ。時間は三年前のあの夜で止まっているようだった。
「憐……君は本当に、ここに一度戻ってきたのか?」
アトリエの中央にある巨大な作業机に近づいたとき、湊の足が止まった。
机の上だけが、異様なほど清潔だったのだ。
ホコリひとつない机の上に、ポツンと置かれた冊子。
湊が近寄り、光を当てると、それは憐が使っていたスケッチブックだった。
ページをめくる。
最初の数ページには、憐らしい繊細で美しい風景画が描かれていた。
しかし、半ばを過ぎたあたりから、画風が急激に崩れ始めていた。
黒いクレヨンで塗り潰された顔。
殴り書きされた支離滅裂な線。
そして、全てのページの余白に埋め尽くされた、小さく震える文字。
『あいつが来る』
『今日も壁の向こうから見ている』
『僕の描く絵じゃない。僕の肉体を欲しがっている』
ページをめくる手が速くなる。
『僕の腕を噛んだ』
『あの目は人間じゃない』
『湊、湊、湊、湊、湊、湊、湊、湊』
びっしりと敷き詰められた自分の名前。
狂気そのものの黒い文字の渦。
「う、あ……」
湊は吐き気を催し、スケッチブックを叩きつけるように閉じた。
(違う……! これは憐の病気だ。彼が精神を病んで、勝手に僕を恐れていただけだ!)
自分を納得させようと必死に呼吸を整える。
その時——アトリエの奥にある保管庫から、**「カサ……」**と濡れたような音が響いた。
「誰だ!?」
懐中電灯の光を向ける。
暗闇の中、保管庫のドアがゆっくりと開き、一人の男が這い出てきた。
橘だった。
昼間のスーツ姿ではなく、髪を振り乱し、眼球を血走らせた橘が、床に這いつくばりながら湊を見上げていた。
「橘さん……!? どうしてここに」
湊が駆け寄ろうとした瞬間、橘は引きつった悲鳴をあげて後ずさった。
「来ないでくれ! 寄るな……ッ!」
「落ち着いてください! 僕はただ、本当のことが知りたくて」
「本当のことだと!?」
橘は狂ったように笑い出し、自らの右腕の袖を強引に引き破った。
「これを見ても……まだそんな白々しい嘘が言えるのか!!」
橘の太い腕に刻まれていたのは、肉が抉れるほど深く、黒ずんだ**「人間の歯型」**だった。
湊の腕にあるものと、全く同じサイズ、同じ形の痕跡。
「な……なんで、橘さんまで……」
「憐が消えた後、お前は私を訪ねてきたろ! 憐の居場所を吐けと……私にすがりつき、そして……ッ!」
橘は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、自分の腕の傷を指さした。
「お前が噛みついたんだよ! 城戸湊!! お前は憐を奪われた腹いせに、私の肉を噛みちぎろうとしたんだ!!」
「僕が……? そんなわけない! 僕はそんなことしていない!」
「忘れたフリをするな!!」
橘の叫び声がアトリエに響き渡る。
「お前はあの時、笑っていたんだ……! 『これで橘さんも、僕と憐の思い出の一部ですね』って……狂った目で笑いながら、私の腕を……っ!」
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
湊は頭を抱えて激しく首を振った。
記憶にない。そんな恐ろしいことを自分がするはずがない。
その時、湊の左腕に猛烈な激痛が走った。
「あぐっ……!?」
長袖の上からでも分かるほど、左腕の歯型が大きく盛り上がっていく。
ピキ、と衣服の繊維が弾ける音がした。
湊が腕を見下ろすと、服の袖を突き破って、**「白い骨のようなもの」**が皮膚を突き破りかけていた。
それは、歯だ。
湊の腕の内側から、何者かの「歯並び」が、外に向かって噛みつこうと皮膚を破り始めていた。
「ひっ……!?」
恐怖で腰を抜かす湊の前で、橘が虚ろな目で呟いた。
「ああ……はじまった……。憐の愛が、お前を中から喰い破ろうとしているんだ……」




