第1話:皮膚の下の爪痕
皮膚の裏側を、冷たい刃物で撫でまわされているような違和感だった。
城戸湊がその「痛み」を覚えたのは、蒸し暑い六月の深夜、自室の机で原稿に向かっている最中だった。
左腕のひじの裏あたりが、ずきりと疼く。蚊に刺されたような痒みではない。まるで、誰かがゆっくりと歯を立て、肉を締め上げてくるような、鈍く重い圧迫感。
「……なんだ、これ」
袖をまくりあげた湊は、息をのんだ。
そこには、赤く腫れあがった**「人間の歯型」**が鮮明に浮かび上がっていた。
上あごと下あご。綺麗にそろった歯並びの痕。まるで数分前に、狂人によって力任せに噛みちぎられそうになったかのような痕跡だ。
だが、部屋には湊ひとりしかいない。ドアも窓も施錠されている。
「ハ……冗談だろ」
指先でその歯型に触れた瞬間、脳裏に雷が落ちたような衝撃が走った。
視界が白く弾け、聞いたこともない男の悲鳴が耳奥で響く。
『離せ! 頼むから離してくれ、湊……っ!』
自分の名前を叫ぶ、狂おしいまでの絶叫。
誰だ? 誰の記憶だ?
その時、玄関のドアチャイムが静寂を切り裂いた。
ピンポーン。
午前二時四分。こんな時間に訪問者などいるはずがない。
湊は左腕の痛みを耐えながら、息を殺して玄関へと向かった。ドアスコープを覗き込む。
廊下の街灯の下、誰もいない。
ただ、ドアの前に「それ」が置かれていた。
油絵の具とキャンバスの匂い。
長方形の大きめの荷物が、黒いビニールに包まれてポツンと転がっている。
湊は躊躇しながらもドアを開け、荷物を部屋に運び入れた。ビニールを切り裂くと、中から現れたのは一枚の未完成の油彩画だった。
描かれていたのは、血のような真紅の背景と、そこに浮かぶ「人間の腕」。
そして——その腕に巻き付けられた、見覚えのある紺色の布地。
湊は自分の着ている部屋着の袖に目を落とした。
同じ柄。同じ擦り切れ方。
今日、自分が着ている服の布切れが、そのまま絵の中にリアルに描写されていた。
「な……」
絵の右下には、黒い絵の具で掠れた文字が走っていた。
『愛が僕に噛みついて、離してくれないんだ』
その独特の、どこか投げやりで美しい筆跡。
間違いない。三年前に突然、画壇から姿を消した親友であり天才画家——**九条憐**の字だ。
なぜ憐が?
なぜ僕の「今の姿」を知っている?
湊の頭痛が激しさを増す。左腕の歯型が、まるで生き物のようにヒリヒリと熱を帯びていく。
憐を探さなければならない。彼はどこにいる? なぜこんな絵を送ってきた?
湊は震える手でスマートフォンを取り出し、憐の元画商である橘に電話をかけた。
深夜にもかかわらず、コールは三回でつながった。
「橘さん! 憐です……憐から絵が届いたんです! 彼は生きてます、今どこに——」
『……湊くん』
受話器の向こうで、橘の声は異様なほど冷たかった。
歓喜も、驚きすらない。そこにあったのは、受話器越しにも伝わる**圧倒的な「恐怖」**だった。
『頼むから……もう彼に関わらないでくれ』
「え……? 何を言って」
『憐は逃げたんだ。ずっと怯えていた。身を隠して、名前を変えて……それでもお前は追いかけるのか?』
「僕が……? 何のことです、僕は憐を心配して」
『とぼけるな!!』
橘が怒号を飛ばした。
『憐をあんな風に壊したのは誰だ! 彼の精神を喰い荒らし、キャンバスに向かうことしかできない体に追いやったのは誰だと思ってるんだ!』
息が止まった。
部屋の空気が、凍りついていく。
『お前だよ、城戸湊。お前のその病的なまでの執着が……狂愛が、憐に噛みついて離さなかったんだろ……!』
「違……違う、僕は……」
『今すぐ腕を見ろ』
橘が、絞り出すような声で囁いた。
『お前が憐を最後に追い詰めたあの日、憐がお前から逃げるために噛みついた跡だ。それは憐の傷じゃない……お前が彼を喰らおうとした証拠だ』
湊は固まったまま、ゆっくりと自分の左腕を見下ろした。
赤く腫れあがった歯型。
その中心から、ツー……と赤い血が垂れ落ちていた。
そして、皮膚の下で。
何かが、ごつりと硬い音を立てて動いた。
自身の皮膚の内側から、まるで誰かの「指」が、湊の肉を押し広げて外に出ようとしているかのように。




