冬-2
買い出しを終えたクララは、その足でギルドへと向かった。
扉を開けると、熱気が体を包み込む。
カウンターの奥では、いつもと変わらずサラが元気に仕事をこなしていた。
「クララさん! 風邪、もうすっかり治りました?」
クララが近づくと、サラはパッと顔を輝かせて身を乗り出してきた。
「うん、ありがとう。もうすっかり元気。心配かけてごめんね」
「本当に良かったです。……それより」
サラは周囲に聞こえないよう、少しだけ声を潜めてニコニコと意味深な笑みを浮かべた。
「オーエンさん、ものすごい寝不足みたいでしたよ?」
「え……?」
「三日間。ほとんど寝ていなかったみたいですね。ルーカスさんのお使いでギルドへ走ってきた時も、髪はボサボサで、目元には隈があって……私、あんなに余裕のないオーエンさん、初めて見ました」
サラの言葉に、クララの頬がみるみるうちに赤く染まる。
ルーカスとディンから聞いた言葉、そしてサラが見た彼の姿。
それらがカチリと噛み合い、クララの胸の中で、オーエンの必死さが実感を伴って膨れ上がっていく。
「クララさんのために、そこまでなれる人なんですから。……ふふ、お熱いことで」
「も、もう! サラったら!」
真っ赤になって足早に帰路へつくクララを、サラは微笑ましい視線で見つめていた。
**
その日の夜。
外はしんしんと雪が降り積もり、世界を静寂で満たしていた。
リビングの薪ストーブがパチパチと爆ぜる音だけが響く中、オーエンは人型の姿のまま、ソファに深く腰掛けていた。
クララは一度寝室へ戻り、家の中は静まり返っている。
最近は、夜になれば本体であるランタンの姿に戻り、ただ棚の上で静かに夜を過ごすだけだった。
だが、今夜はどうしても姿を変える気になれず、自分の大きな手のひらを見つめていた。
(……クララを失うのが、怖かった)
ルーカスに投げかけられたあの問いが、何度もリフレインする。
歴代の所有者たち――クロニク、エリオ、マリア。
彼らの死は、受け入れるべき人間の寿命であり、そういうものだと割り切ってきたはずだった。
なのに、なぜクララが熱を出したあの三日間、自分はあんなにも、狂いそうなほどの恐怖を覚えたのか。
「一緒に暮らす人間を心配する」などという言葉では、到底収まりきらない。
人間たちが言う「家族」という枠組みにも、どこか当てはまらない気がする。
ただ、彼女のいない世界に、自分一人だけが取り残される未来が、どうしても嫌だった。
ーー彼女の苦しむ姿を見るのが、どうしようもなく辛かった。
(この感情は、一体何なのだ……)
オーエンは静かに目を閉じ、胸の奥に眠る何百年もの記憶の海へと深く沈んでいった。
膨大な記憶の断片、かつての所有者たちの姿が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
その中に、ひとつ、思いあたるものがあった。
クロニクと共にしていた頃。
彼は旅の途中、のちに妻となる女性の手を優しく握り、ひどく不器用で、けれど愛おしそうな、見たこともないほど柔らかい顔で、こう囁いていた。
『愛してる』
あの時は、その言葉の意味が全く分からなかった。
なぜ人間は、ただの他人に、そこまで深い情を抱くのか。
なぜあんなにも、その人の一挙一動に一喜一憂するのか。
(……ああ、そうか)
クララが笑うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
クララが泣くと、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。
クララが熱を出すと、世界が消えてしまうかのように怖い。
隣に彼女がいないだけで、どうしようもなく落ち着かない。
何百年もの間、ただ傍らで見つめることしかできなかった、人間たちのあの感情。
(……そういうことだったのか)
オーエンの目蓋が、ゆっくりと開いた。
澄んだ琥珀色の瞳に、薪ストーブの炎がゆらゆらと反射する。
クロニクは特別だったわけではない。
エリオも。マリアも。
人間たちは皆、この感情を知っていた。
……あの時、クロニクが口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。
だから互いを大切にし、笑い、寄り添い、生涯を共にしたのだ。
**
「オーエン、起きてる?」
不意に、リビングの扉が少しだけ開いた。
パジャマ姿のクララが、手になじんだ布を抱えて、もじもじと立っていた。
「……クララ。どうした、まだ病み上がりなのだから寝ていろ」
「ううん、もう本当に元気。それより……ランタンを磨かないと。ここ数日できてなかったから」
クララは人型のまま座っているオーエンの正面の床にちょこんと座り、彼がランタンの姿に戻るのを待っている。
いつもなら、オーエンは静かにランタンの姿へと変わり、クララの膝の上へ収まる。
春からずっと続けてきた、二人の「当たり前」だ。
クララは布を構え、じっと待っている。
だが――オーエンは動かなかった。人型の姿のまま、ただじっとクララを見つめる。
「オーエン……?」
不思議そうに見上げるクララの前で、オーエンはゆっくりと身をかがめた。
困惑するクララの顔を見つめ、それから、布を持っていない方の手に、ゆっくりと手を伸ばした。
大きな、けれど酷く慎重な手のひらが、クララの小さくて、まだ少し冷たい手に、そっと重ねられる。
クララの手は、何百回も自分を磨き続けてくれた手だ。
本来なら、今夜もランタンへ戻ればいい。
そうすれば、いつもと同じ夜になる。
なのに。
今日は、どうしても戻りたくなかった。
「……磨かなくていい」
「え?」
「今日は……このまま」
オーエンは少しだけ視線を泳がせ、それから意を決したようにクララをまっすぐに見つめた。
耳朶がほんのり赤く染まる。
「……その、このままで、手を、繋いでみたい」
「あ……」
クララの顔が、一気に沸騰したように真っ赤になる。
繋いだ手は少し冷たくて、それでも指先からじんわりと温もりが伝わってくる。
オーエンの手は、少しだけ震えていた。
クララもその手を、そっと握り返す。
言葉はなかった。
それでも。
二人の掌のあいだには、何百年も消えることのなかった灯火とは違う、小さくて新しい灯火が、静かに生まれていた。
ランタンでは決して知ることのできなかった、人の温もりとともに。




