ランタンの独白
依頼を終えた帰り道。
クララは市場へ寄ると言って、一人で店先を見て回っている。
オーエンは少し離れた場所から、その後ろ姿を静かに眺めていた。
買い物袋を抱え、店主と楽しそうに笑い合う姿。
少し考え込んでは首を傾げる、彼女のいつもの癖。
そんな何気ない仕草を一つ一つ見つめているうちに、ふと、これまでの記憶が胸の奥から静かに浮かび上がってきた。
**
クロニクには、帰る家があった。
旅を終えると、玄関から元気な子どもたちが飛び出してくる。
「おかえり!」
妻が優しく笑って迎え、食卓には温かな料理が並ぶ。
オーエンは、その家の片隅で静かに灯をともしていた。
エリオもそうだった。
マリアにはクララという愛しい娘がいた。
皆、旅の外に、必ず大切な人たちがいた。
だから自分は、ただ旅路の暗闇だけを照らす存在でよかった。
人間の姿になろうなどとは、何百年のあいだ、一度も思ったことはなかった。
だが。
クララは違った。
マリアの灯火が消え、この家で一人暮らしを始めた頃を今でも鮮明に思い出す。
「ただいま」
そう呟いて彼女が扉を開けても、返ってくる声はなかった。
食卓に並ぶ皿は、いつも一枚。
夜になっても、話し相手はどこにもいない。
あまりにも、静かな家だった。
その静けさだけは、何百年を生きて多くの死を見届けてきた自分であっても、どうしても慣れることのできないものだった。
それでも、彼女は毎日欠かさずに俺を磨く。
大切に、大切に、小さな手で。
「今日はね。」
そう言って、その日起きた出来事をぽつりぽつりと話してくれる。
嬉しかったこと。
失敗したこと。
少しだけ腹が立ったこと。
返事はない。
それでも彼女は、毎晩そうして話しかけてくれた。
だから、きまぐれに願った。
誰かに頼まれたわけではない。
命じられたわけでもない。
ただ。
一人でいるのは、きっと楽しくないだろうから。
(この子の『ただいま』に返事をしたい)
本当に、最初はたったそれだけの気持ちだった。
けれどーー
「オーエン、おはよう」
朝、眩しそうに笑いかけられる。
「ありがとう」
何かをするたび、そう言われる。
食卓を囲み、くだらない話をして、一緒に笑う。
春が来て。
夏が来て。
秋になって。
気づけば、自分は「旅」を支えるのではなく、「クララの日常」そのものを支えていた。
いや、支えられていたのは、自分の方だったのかもしれない。
長い年月をただ道具として生きてきたはずなのに、人として彼女の隣で過ごした一年は、それまでの何百年よりも、ずっと鮮やかだった。
クララが酷い熱にうなされていた時。
これまでにないほど恐ろしかった。
彼女を失うことが。
彼女が苦しんでいることが。
あれは、「所有者」を失う恐怖などではなかった。
長い時間を共に過ごすうちに、胸の奥で静かに積み重なっていた想い。
あの日、ようやくその感情の名前を知った。
人間たちは、この胸を焦がすような愛おしい感情を
「愛」と呼ぶのだと。
**
「オーエン!」
市場の向こうから、クララが大きく手を振る。
「こっちこっち! お待たせ!」
オーエンは小さく頷き、彼女のもとへ歩き出した。
気づけば、その歩幅は自然と彼女に合わせるようになっていた。
「今日は何を買ったんだ?」
「秘密。帰ってからのお楽しみ」
そう言って笑うクララに、オーエンもほんの少しだけ口元を緩める。
まだ、言葉にするには少し照れくさい。
けれど――
(いつか)
クロニクがそうしたように。
自分も、この想いをきちんと伝えたい。
何百年もの時を越え、ようやく彼にも、「帰る場所」ができたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
また、次作でもお会いできましたら嬉しいです。




