1.同居開始編
・竹岡柚宇・・・楓子の大学時代の友人。
楓子の母は、小さいが安定した経営のデザイン会社の社長であり、楓子を女手一つで育てた肝っ玉であった。
本当の父については、薄っすらとした記憶しか残っていない。覚えていることと言ったら、いつも母と喧嘩し、時には暴力をふるっていたことくらいだ。
二番目の父は母より年下で、市役所勤めの公務員だった。楓子より五つ年下の娘がいたため、連れ子同士の再婚であった。
母と新しい父は非常に仲が良く、よく二人でどこかへ出かけていたようだった。
娘の楓子から見ても、母は割とキツい性格をしていたと思う。しかし、新しい父はその性格さえもしっかりと受け止めたうえで、母のことを愛しているのだと、いつだか話していた。
そんな二人が同時に亡くなったと知らされた時は、本気で自分の耳を疑った。
そして何より、五つ年下の血の繋がらない妹との関係をどうすればいいのか、楓子にはわからなかった。
***
「お疲れさま」
葬儀の事後処理も全て終了し、実家のリビングに佇んでいた柑奈に声をかけた。
「楓子さん、色々ありがとうございました」
「いやいや、お互いこういう経験なかったのによく頑張ったよ」
楓子は先ほど作った二人分のコーヒーをテーブルに置く。柑奈は小さくお礼を言って、コーヒーを受け取った。
「柑奈ちゃん、お砂糖とミルクは?」
「えっと、ミルク一つとお砂糖二つください」
「はい」
どうやら甘党らしい。対して楓子はブラックのまま、一気にマグカップの半分くらいまで飲み込んだ。
「柑奈ちゃん、これからどうするの?」
「どうしましょう。とりあえず、このマンションを引き払って小さなアパートにでも引っ越そうかな、って」
「仕事は?」
「しばらくフリーターかなぁ。二十四にもなって恥ずかしいけど」
柑奈が定職に就いていないというのは、母からなんとなく聞いていた。
母が再婚してすぐに大学生になり一人暮らしを始めた楓子は、そのままそっちで就職して今に至る。仕事は忙しいがそこそこ順調であり、お金にも困っていなかった。だが、柑奈はそういうわけにもいかないようだ。
女社長と公務員だった両親が残してくれたお金は充分すぎるほどあったが、何もしないで一生暮らせるわけではもちろんない。
「楓子さんは、もうずっと京都に?」
「そのつもり。結婚とかもする気ないし、今の会社で行けるとこまで行こうかと」
「ええ、綺麗なのに。もったいない」
「ありがとう」
お決まりの社交辞令に、曖昧に笑って濁す。
「楓子さん、私とお父さんのこと、今まで本当にありがとうございました」
柑奈が改まって頭を下げる。
「いや、こちらこそ……私がいなくなった後、母さんと一緒にいてくれたんだし」
実家が嫌いな訳ではなかったが、放任主義の母の影響もあって、楓子はあまりこの家には帰ってこなかった。対して、柑奈は約十年間、母と父と一緒に暮らしていたのだ。
「さて、と。そろそろ荷造りしなくちゃね」
そう言って椅子から立ち上がる楓子を見る柑奈の目が、一瞬曇った気がした。
「そっか、楓子さんもう帰っちゃうんだ」
幾度か帰省した時よりもずっと長く、このマンションにいた。柑奈が寂しそうに眉を下げた。
ふと、楓子の頭にこの広いマンションに一人きりの柑奈の姿が過った。
「……ねえ、もしよかったら、京都で一緒に暮らさない?」
気づいたら、そう口に出していた。
***
リビングと、それぞれの寝室が一つずつ。駅からは少し遠いが、通勤前に歩く分にはちょうどいい。家賃と光熱費は七対三で折半した。家具は新しい物を買う必要はほとんどなかったし、思っていたよりずっと楽な引越しだった。
「本当にこっちの部屋使っていいの?」
柑奈の遠慮がちな目が楓子をとらえた。どうしてもデスクを置きたいという柑奈に、広い方の部屋を譲った。
「いいよ。私はパソコン使うくらいだし、そんな立派なデスクはいらないから。リビングのテーブルの方が捗るしね」
柑奈はペコペコと頭を下げた。遠慮しなくていいよ、と声をかける勇気はまだなかった。
「楓子さんのベッド、セミダブルなんだ」
細々とした荷物の多い私の部屋の片付けの手伝いをしに来た柑奈が、物珍しげにセミダブルのベッドを眺める。
「就職した時にね。私、三大欲求には忠実だから」
「その割に、料理した形跡はなかったけど……」
「何のことかしら」
自炊をする、という概念はない。基本的に外食かコンビニ弁当だ。冷蔵庫には酒とつまみくらいしか入っていない。
「もう。これからは私がちゃんとご飯作るから。片付け終わったらスーパー行こう?」
「ええ?今日はもういいじゃない」
「だーめ」
柑奈の長い三つ編みが揺れた。
***
「同棲始めたんだって?」
「妹と同居することを同棲とは言わないわよ」
学生時代の悪友と入ったファーストフード店に毛が生えたようなカフェで、ブラックのコーヒーを飲む。目の前の友人はにやにやと笑いながらコーラを飲んでいる。
「でも、どういう風の吹き回し?一人がいいから、実家にもほとんど帰らなかったんでしょ?」
「別にそういうわけじゃないわよ。……ただ、なんとなくあのまま柑奈のことを放っておけなかっただけ」
家を離れていた楓子と違い、柑奈は約十年間両親と共に暮らしていた。楓子よりずっと家族に思い入れも強く、今回の件を悲しんでいるはずだ。そんな彼女を置いて京都に帰ることができなかった。
「まあ、楓子がどんな思いでその妹を迎え入れたのかは知らないけど、血は繋がってないとはいえ最後の家族なんだから、大切にしなさいよね。そんで、部屋片付いたらあたしを一番始めに招待しなさい」
「なんで柚宇にそんなことしなきゃいけないのよ」
「いいじゃない、一番の友だちでしょ?」
「……はいはい」
柚宇とは大学時代の地方組同士仲良くなり、同じ県の出身であることを知ってから急激に距離が縮まった相手だった。今でも定期的に会う関係が続いている大学の同期は、彼女くらいしかいない。
楓子はカップに残ったコーヒーの最後の一口を啜って、店の外を見る。
「あ、」
外を歩いている柑奈を見つけた。知らない年上の男性と何かを話しながら横断歩道を渡っている。
そういえば、軽々しく京都に来ないかと言ってしまったが、よく考えたら柑奈にも付き合いがあるし、恋人だっているかもしれない。
「なに見てるの?」
柚宇が楓子の視線の先を見る。
「あれ、あれが柑奈」
「へ?」
楓子が指を差す。
「さすが京都駅。必ず知り合いに遭遇する。声かけなくていいの?」
「いや、人と一緒だし。邪魔しちゃ悪いでしょ」
「彼氏か何か?」
「知らない」
そうこうしてるうちに、柑奈は見えなくなった。
「へえ、中々可愛い子だったね。小柄で細身だし」
「でも胸はある」
「なに、もうそんなとこまで行ってるの?」
「違うって。服の上からでも普通にわかるのよ」
「何度も言うけど、大切にしなさいよ?」
「うるさい」
柚宇の冗談に適当に合わせながら、先ほどの光景を頭に浮かべる。
京都に知り合いがいるとは言っていなかった。京都駅という場所を考えたら、男性は別の都市から来ていることも可能性としては充分にあり得る。
「……まあ、私がいちいち干渉することでもないか」
楓子は小さくため息をついた。
***
「あ、お帰りなさい」
ドアの鍵を開けると、キッチンからふわっといい匂いが漂った。
「ただいま。何作ってるの?」
「ポトフ!じゃがいもの特売日だから」
柑奈の様子を見てから、一度自室に戻って鞄を置く。頭に過るのは昼間の光景だった。
「ねぇ、」
キッチンに戻って、椅子に座って夕飯の完成を待ちながら声をかける。
「んー?」
機嫌がいいのか、いつもより声が高い。
「今日、京都駅にいた?」
「いたよ。なんで知ってるの?」
「見かけたから。男の人と一緒だった?」
背を向けながら料理をしていた柑奈の動きが一瞬止まるのがわかった。
「言いにくいことだったら全然いいんだけど、誰なのかな、って」
「あー……うんと……」
柑奈が言葉に詰まる。
「……よし、」
一度大きく息を吐いて、柑奈はそう声を出した。
「ご飯食べながら説明するから、もう少し待っててください」
こちらを向いて困ったように笑った。
***
「本当に言いにくいことだったら別に、」
「ううん、そういうのじゃないの」
ポトフをかきこみながら、柑奈は小さく首を横に振る。
「一緒に暮らすってなってから、ちゃんと言おう、って思ってたの」
「うん」
一体どんなことをカミングアウトされるのだろうか。何故だか妙にそわそわして、胸の鼓動が速くなった。
「実はね、私、漫画家なの……」
とても言いにくそうに、柑奈は俯いて呟くようにそう言った。
「……は?」
「あ、でも、漫画家って言っても、連載持ってるわけじゃなくて、たまーに読み切り載せてもらったり、コーナーページの挿絵とか四コマとか描いてる感じなんだけど……!」
柑奈がまくしたてるように話を続ける。
「もちろんそれだけじゃ食べていけないから、バイトもしてたの。今日京都駅で会ってた人は担当さんで、打ち合わせついでに観光したい、ってわざわざ来てくれて。普段は電話とかメールで連絡取ってるんだけどね」
そこまで言って、柑奈は楓子を窺うようにこちらを見た。
「えっと……うん……突然でびっくりした。けど、ちょっと安心した」
「安心?」
「あ、うん。もし柑奈ちゃんに向こうでの人間関係とかあったりしたら、悪いことしたかなぁ、なんて」
「そんな、全然!むしろ、いい機会だったよ。別にあっちに友だちとかもいないし」
こんなに人懐こそうな子に友だちがいない、という事実に楓子は少し驚いたが、一先ずは胸を撫で下ろした。
「とりあえず、もう少し落ち着いたらこっちでバイト探します」
「いや、別に無理してバイトしなくてもいいんだよ?漫画家って仕事してるわけだし、別にお金に困ってるわけでもないし」
「ううん、いい気分転換になるからバイトはしたい。机に向かうばかりじゃ肩が凝るし」
「それなら止めないけど……」
「ありがとう」
柑奈がにっこりと笑う。その笑顔を見て、可愛らしいと思うより先に愛しさが込み上げてきた。
***
「冬服が欲しい」
柑奈が食べ物以外で初めて要求したものは、新しい服だった。
「京都か四条にでも行ったらたくさん店はあるけれど」
「四条?」
「京都の中心地。特に新京極と寺町あたりには服屋からアニメショップまで揃ってる。河原町にはファッションビルも建ってるし」
「へえ!行ってみたい!」
柑奈は目をキラキラさせながらそう言った。柑奈は派手な出立ちではないものの、いつも可愛らしい服を着ていることから、おしゃれなのは伝わってきた。
対して楓子は家の中ではシャツとジーパンという実に色気のない格好である。
「じゃあ、今週末にでも行こうか。それでね、これは柑奈が嫌じゃなかったらでいいんだけど。日曜の夜に大学時代の友人が泊まりに来たいって言ってて。三連休だしね。どうかな?」
「楓子さんの友だち?」
「唯一のね。竹岡柚宇、って言うんだけど」
楓子は少し自嘲気味にそう言った。
社会人になってからと言うもの、めっきり友人というものが減ってしまった。今でも連絡を取り合っているのは柚宇だけである。
「うん、全然大丈夫。私も楓子さんのお友達に会ってみたい」
「わかった。じゃあ、日曜日はそういう感じで。よろしくね」
にこにこと笑う柑奈に楓子はホッと胸を撫で下ろした。
***
楓子にとっては四条通りは庭のようなものであった。道を覚えることが決して得意ではなかった楓子だったが、一人暮らしをして一番始めに覚えた街であった。
四条通りを中心に、縦に伸びる道の北側に入るとそこには個性豊かな店が並ぶ歩行者天国の道がある。寺町通りと新京極通りは週末には地元の人々と観光客が入り乱れていた。ここと河原町通りには若者向けの店が多く並んでいる。
厳密にはここは四条と呼ぶべきではないが、京都に住む人々は四条駅、烏丸御池駅、京都市役所前駅、河原町駅に四隅を囲まれたこのエリアを引っくるめて「四条」と呼称することがしばしばあった。
日曜日は生憎の雨であった。
楓子と柑奈は四条駅で下車し、通りを歩きながら目的地を目指した。本来ならば地下通路を歩く方が人も少なく道も広いのだが、初めて来る柑奈に街を案内する意味も込めて、あえて上の道を通った。
「アーケードがあると、濡れないね」
「道は狭いけどね」
四条通りにはアーケードがある。狭い歩道であるが、傘をささなくて済むのは有り難かった。
「ここら辺は有名ブランドのビルが多いね。あとチェーンの飲食店も」
「でも所々に老舗が点在してるのも京都らしいでしょ?」
「うん。私って今、本当に京都に住んでるんだなぁ」
興味深そうに、柑奈は辺りを見回した。
四条通りを東に歩き目的地の新京極通りに入ると、好奇心旺盛な柑奈は気になる店を手当たり次第物色しては悩み、いつの間にか両手いっぱいのショップの袋を提げていた。
あっという間に三条通りまで北上していたらしく、二人はカフェに入って一休みすることにした。
「な、なんかごめん……私って買い物好きで、夢中になると一緒に来た人のこと振り回しちゃうんだよね……」
一休みして落ち着いた柑奈は、冷静に今自分が抱えている荷物と、成り行きで楓子に持たせていた荷物を確認して項垂れた。
「いいの、いいの。柑奈に街を案内するのも兼ねてるんだし、私は平気だから。楽しそうな柑奈を見てるだけで楽しい」
楓子はそう言いながらコーヒーを啜る。柑奈はミルクティーを飲んでおり、二人の目の前にはそれぞれ可愛らしいケーキが並んでいる。楓子はチョコレートケーキ、柑奈は苺タルトであった。
「楓子さんって、こういうの慣れてるの?」
「え?」
「だってこんなに連れ回されても、嫌な顔一つしないんだもん。すごく良くできた彼氏みたい……」
柑奈は楓子のことを尊敬の眼差しで見つめた。楓子は苦笑いを浮かべるだけだった。
「楓子さんは何か欲しいものとかないの?ここなら大体何でも揃うんでしょ?」
「今は特にないかなぁ。仕事してると私服着る機会もないから、あまり服も必要ないのよね」
大学生の時にお世話になったこの街も、ここ数年はご無沙汰であった。会社はユニフォームがあるわけではないが、大体の社員がスーツやフォーマルな格好で勤務しており、楓子も例外ではない。ジャケットにパンツルックが楓子の定番である。
おしゃれに興味がないわけではないが、柑奈と違って身長もある楓子はあまり女の子らしい格好を好まなかった。
「……あ、化粧品。そろそろ切らしそうだったのよね。薬局寄ってもいいかしら?」
楓子は化粧ポーチの中身を思い浮かべて、ファンデーションが残り少ないことを思い出した。
この辺にはチェーンの薬局が幾つもある。近所の小さなドラッグストアでは揃わないメーカーの化粧品もここなら必ず取り扱っている店がある。
「りょうかい!たくさん付き合ってくれたから、今度は私が何時間でも付き合うよー」
「いやいや、いつもの買うだけだから」
冗談ぽく言ってみせる柑奈の笑顔が、楓子にはとても可愛く思えた。
***
今日くらい他所で買ってきたものでもよかったのに、なんて楓子の言葉を無視して、柑奈は意気揚々と晩御飯の支度をしていた。
一日中歩き回ったのだから、と楓子が言えば、まだ若いから大丈夫、などと年齢をネタに返してくる。そう言われてしまったら何も言い返せない。
「最近随分遠慮がなくなったわよね、柑奈」
「へ?そうかなぁ」
柑奈は野菜を切りながら、本を読んでいる楓子と取り留めのない会話をした。
「ほとんど一緒に暮らしたことないから、始めはどう接したらいいのかわからなかったんだけど……姉妹だったら遠慮するのも変かなあ、って思ったの。嫌だった?」
「別にそういうわけじゃないわ。ただ、思ったよりも早く心を開いてくれたみたいでホッとしたの」
柑奈が楓子のことをほとんど知らなかったように、楓子も柑奈のことを知らない。お互い手探りの状態から始まった同居生活は、想像していたよりも随分穏やかだった。
「うーん、なんだかんだ、お母さんの躾?みたいなのも影響してるのかな、って。だから価値観とかはあまり違わない、みたいな」
「確かに。まあ、母さんは放任主義もいいとこだったけれど」
今は亡き母親の姿を思い浮かべた。一緒に暮らしていた頃は考えもしなかったが、放任主義なりに母はきちんと楓子のことを見ていてくれたと、今ならわかる。
「……まあ、楓子さんはまだ私に心開いてくれてないみたいだけどね」
「え?」
先ほどまでの明るいトーンとは違う、少し低めの声で柑奈は呟いた。咄嗟のことで、楓子はあまりよく聞き取ることが出来なかった。
「なんでもない。それよりほら、そろそろ時間でしょ?お友だちさん迎えに行かなきゃ」
「え、ええ……」
リビングの時計を確認すると、柚宇がそろそろ駅に着く頃だった。柑奈に急かされて、楓子は家を出た。
***
家から駅は徒歩で15分弱だった。あまりのんびりしていると、柚宇が先に着いてしまうので足早に駅へ向かった。しとしとと降る雨が邪魔をする。
案の定、電車の到着時刻より数分遅れて駅に着く。地下に降りる階段をいつもの癖で三拍子を刻んで下りながら、改札を目指す。改札が視界に入ると、よく知る赤いマフラーを身につけた女性が、壁にもたれ掛かりながら携帯をいじっているのが見えた。
「ごめん、待たせた」
「いいわよ、別に。あたしは心が広いから」
赤いマフラーにベージュのコート、膝丈のスカートにムートンブーツを履いた彼女は、トレードマークの長い髪の毛を左手でいじりながら、楓子の方を振り返った。
「その格好、流石にまだ早いんじゃない?」
「うるさいわね。あたしの勝手でしょ」
まだ冬というには暖かい季節だ。薄手のコートならまだしも、ここまで冬物は流石に暑いはずだ。
「雨、まだ降ってる?下はもうやんでたけど」
「そうなの?こっちはまだ降ってるわ」
京都は盆地であり、同じ市内でも山によって隔たりがある。北の方は南よりも気温が低いし、天候も違う。
エスカレーターに乗って地上に出た二人は、傘を差しながら横に並んで歩いた。
「ねえ、あんたの妹、和菓子とか大丈夫?一応手土産持ってきたんだけど。どら焼き」
「え、どうだろう?わからないわ」
「たまにいるからね。あんこダメな人。ま、そん時はあたしとあんたで全部食べればいっか」
「ほどほどにしてよね。柑奈が手料理こさえて待ってるんだから。腕は確かよ」
「それは楽しみね。あんたと違ってさぞかし上手いんでしょう」
楓子と柚宇がお互い泊まり合う時は、いつも柚宇が手料理を振舞っていた。理由は簡単で、楓子は料理が苦手だった。柚宇は人並み以上には得意であり、大抵のものは作ることができた。
「ねえ、楓子」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
「なにそれ」
「後で話すわ」
柚宇は何かを言いかけたが、それを口にはしなかった。
***
部屋に戻ると、玄関まで肉じゃがのいい匂いが漂っていた。ベタかもしれないが、柑奈の得意料理の一つである。
楓子は先に靴を脱いで部屋に上がる。ブーツを脱ぐのに時間がかかっている柚宇を待ちながら、散らかっていた靴を揃えた。
「ごめん、汚くて」
「別に気にしないわよ。一人暮らししてると雑になるものだし……って、あんたはもう違うか」
実家暮らしをしていた柑奈はいつも綺麗に靴を揃えていたが、一人暮らしが長い楓子からはその習慣がさっぱり消え去っている。
柑奈に渋い顔をされながらも、徐々に人と一緒に住むという感覚を取り戻している最中だった。
「ただいま」
「お邪魔します」
リビングに続く扉を開けて、楓子と柚宇がそれぞれ挨拶を口にする。気づいた柑奈が手を止めてこちらを振り返った。
「あ、いらっしゃいませ」
少し緊張しているのか、笑顔が固かった。
「竹岡柚宇。大学時代の同級生よ」
「よろしくね。柚宇でいいわ」
楓子に紹介された柚宇が一歩前に出て柑奈に笑いかける。一瞬で笑顔を作ることができる柚宇はこういうシチュエーションに強い。
「丸山柑奈です。よろしくお願いします」
柑奈は火を止めてこちらにやってくるなり、柚宇に向かって軽く頭を下げた。
「荷物、そこら辺適当に置いといていいから」
「はいはい。やっぱり広いわね、二人暮らしとなると。前の家を知ってるとなおさら」
柚宇は部屋を見渡しながらそう呟く。柚宇も一人暮らしをしているため、この広さは憧れのようだった。
「柑奈、お皿は?」
「あ、えっと、肉じゃが用の取って欲しい。あとお茶碗」
楓子は食器棚から深めのお皿とお茶碗を三つずつ取り出してカウンターに置いた。
「あたしも何か手伝おうか?」
「そんな、お客様に手伝ってもらうなんて」
柑奈が少し焦りながら返す。
「そうよ、そこに座っててくれていいから。ビールでいいわよね?」
「発泡酒のことビールって呼ばないでよね」
「あら、いらないの?」
「何言ってんの。貰うわよ」
楓子と柚宇のやり取りを聞きながら、柑奈は手早く料理を盛り付ける。楓子は出来上がったものをテーブルに運ぶ係だった。
「柑奈は何か飲む?」
「あー……どうしよっかな」
「せっかく柚宇も来てるんだし」
「うん、じゃあ飲もうかな。梅酒が冷蔵庫にあったと思う」
「了解」
楓子は自分と柚宇のビール用のグラスと、柑奈の梅酒用のグラスを取り出す。柑奈のグラスに氷を入れ、冷蔵庫から取り出した梅酒を注ぐ。
「はい」
それぞれの飲み物をテーブルに並べ終わる頃、最後のメニューを持って柑奈もこちらにやってきた。
テーブルの上には普段より豪華なラインナップの夕食が並んでいた。
「本当に美味しそう。柑奈ちゃん料理上手なのね」
「そんな、家の手伝いしてただけですよ」
褒められた柑奈が照れ臭そうに笑う。
「じゃあ、料理も出揃ったことですし。乾杯」
楓子の合図で三人はそれぞれグラスを掲げた。
***
「あれ?皿洗いくらいしたのに」
タオルで長い髪を拭きながら、風呂上がりの柚宇が寝巻き姿でやってきた。
「いいの、それは私の仕事だから。柑奈ー、先入りなよー」
ソファに座ってテレビを見ながら、楓子は自室にいる柑奈に聞こえるように声を張った。
少し遅れて、「はーい」という返事が聞こえた。
「おいでよ、久々にやったげる。髪乾かすの」
楓子は手招きして柚宇を隣へ呼び寄せた。
「なに、どういう風の吹き回し?」
「いいでしょ、別に。柑奈の髪もたまにやってあげるのよ」
「ふぅん」
柚宇は興味なさそうにしながらも、楓子に言われた通り隣に腰掛けた。
「柚宇はほっとくとちゃんと髪乾かさないし。こんなに長いんだから傷んだら大変」
「うるさいわね」
楓子はタオルでがしがしと柚宇の頭を拭いて、ドライヤーの電源を入れた。
慣れた手つきで髪を梳かしながら乾かす楓子に身を委ね、柚宇はバラエティー番組を映すテレビをつまらなさそうに見ていた。
「……ねぇ、楓子」
「ん?」
柚宇がドライヤーの音で掻き消されないギリギリの声の大きさで楓子に話しかけた。
「あたし、結婚するの」
柚宇はハッキリとそう言った。
「……へ?」
楓子は思わずドライヤーの電源を止めて聞き返した。
「結婚する、って言ってんのよ。来年」
「は……?だって柚宇、彼氏とか、」
「いなかったわよ、この前までは。お見合いしたの。親の紹介で」
「何、言って……」
楓子は動揺してドライヤーを床に落とした。がちゃん、と鈍い音が鳴って先の部分が外れた。
「あたしたち、来年には三十路よ?そろそろそういうことだって考えるでしょ。……あんたには関係ないかもしれないけど」
柚宇はばつが悪そうに、横を向きながら淡々と話した。
「……なんで、」
「相談しなかったのか、って?こんなこと、あんたに言えるわけないでしょ。でも、ちゃんと一番に伝えたわよ」
柚宇は楓子に向き直り、楓子の顔を両手で挟んで、しっかりと目を合わせた。
「ねえ、祝ってよ。おめでとう、って言って」
柚宇のその異論は認めないという言葉とは裏腹に、彼女の声は震えていた。
「……言えるわけないじゃない」
楓子はそう呟いて柚宇の手のひらを振り払った。
「そんな身勝手なこと言わないでよ……!」
楓子は声を荒げた。
柚宇はそれに怯むこともなく、まるで想定内かのように冷静に楓子の目を見据えていた。
「あの、えっと……」
ガチャリ、という音と共に遠慮がちな声が二人の背後から聞こえた。
二人が振り向くと、そこには風呂上がりの柑奈が所在無さげに佇んでいる。
「お風呂……あがったから、次……って思ったんだけど」
歯切れ悪く申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「早くない?まだ15分も経ってないじゃん。烏の行水?」
柚宇が素で驚いた声をあげた。
「えへへ……」
柑奈は恥ずかしそうに笑うだけだった。柚宇は一度苦笑いを浮かべてから、楓子に向き直った。
「とにかく、そういうことだから。お風呂入ってきなさいよ。頭冷やす……とはちょっと違うか」
柚宇は楓子の頭に手を置いてソファから立ち上がった。柑奈の前までやってくると、にっこりと笑いかけた。
「あたし、来年結婚するの。だから、結婚式には柑奈ちゃんも来てね。楓子と一緒に」
「へ?え?そうなんですか!おめでとうございます。でも、私なんかが行っても……」
「いーの、いーの。柑奈ちゃんにはこれからもっとお世話になるつもりだし。それに、」
柚宇はソファで放心状態の楓子の方を向いた。
「私の唯一の親友を一人で会場に来させるのは、可哀想でしょう?」
そして、仕方のないものを見るような笑みを浮かべた。
***
いつもの倍は湯船に浸かっていた。
楓子は心の整理がつかないまま、洗面所で髪の毛を乾かしてから自分の部屋に向かった。
リビングの電気は消えており、柑奈の部屋には灯りがついていた。今日もきっと遅くまで絵を描くのだろう。
楓子は自分の部屋のドアを躊躇いながら開けた。
「遅かったわね。待ちくたびれた」
柚宇は当然のように楓子のセミダブルのベッドに寝転がっていた。本棚から勝手に取り出したらしい雑誌をペラペラとめくっている。
「こんなこと言ったら不謹慎かもしれないけど。まあ四十九日も済んでるからいいでしょ」
「……?」
「正直ホッとしたの。柑奈ちゃんが来てくれて」
「どういう意味よ」
楓子は柚宇の隣に腰掛ける。
「あんたって、ほっとくとコンビニ飯かマックしか食べないし。仕事には熱心だけどその分自分のことは全く手付かずで。孤独死する最期しか想像できないのよ」
「そんな何十年後の心配までしてもらわなくても結構よ」
あまりにひどい言われように、楓子は思わず顔をしかめた。
「でも柑奈ちゃんが来てくれて、十年は寿命延びただろうし、安心したわ」
「……」
柚宇の台詞に反論したい気持ちは山々であったが、何も言葉が出てこなかった。
「……ねえ、柚宇。相手はどこの人なの?」
楓子はベッドに寝転がり、柚宇が読んでいた雑誌を取り上げて床に置く。
「地元よ。親の紹介だからね。今の職場も年度末で退職するわ」
「そう……」
楓子の今後のことを心配されていたくだりで、柚宇が京都を離れることは容易に想像ができた。柚宇は自分がいなくなった後の楓子のことが気がかりで仕方なかったのだろう。
「別にそんなに遠くもないから」
「知ってる」
楓子と柚宇は出身県が同じであった。
京都と地元がそこまで離れていないことは、重々承知である。しかし、帰るべき実家を失った楓子が、自分からそこに足を踏み入れることはなくなった。楓子は京都に骨をうずめるつもりであった。
「どうせあんたのことだから、もうあっちに帰る場所はない、とか思ってるんでしょうけど」
「随分と冴えてるのね」
「あんたが単純なだけよ」
楓子の考えていることを、柚宇はいとも簡単に当ててみせた。
「でも、誰かがどこかに行くのにそんな回りくどいこと考えなくてもいいのよ。幸い、あたしがいるっていう正当かつ立派な理由もあるんだし」
「回りくどいのはどっちよ……素直に寂しいから会いに来い、って言ったらいいじゃない」
「うるさい」
楓子にとってそうであるように、柚宇にとっても楓子はたった一人の親友であった。
「ありがとう、柚宇」
柚宇と軽口を叩き合って、楓子は少し気持ちが楽になった気がした。
それでも、おめでとうは、まだ言えなかった。