保健室の声
保健室には、カーテン越しの夕方の光が沈んだ色で差し込んでいた。
ベッドの上では神原が横になっている。呼吸は落ち着いたものの、額にはまだうっすらと汗が残っていた。
(……様子を見ろって言われたけど)
雨宮は保健室にひとり残り、カーテンのそばで立ち尽くしていた。
教師が「家に連絡するまで見ていてくれ」と頼んだのだ。
本当は断りたかったが、断る理由が見つからなかった。
カーテンの向こうから、微かな寝息が聞こえる。
雨宮はそのリズムを確認し、少しだけ肩の力を抜こうとした。
その瞬間――
「……みずほ……なんてことだ…救急車」
その名を呼ぶ声が、空気を震わせた。
雨宮の体がぴたりと固まる。
寝言にしては、あまりに“現実”の声。
誰かを捜すような、縋るような、切迫した響き。
次の瞬間。
「みずほ……みずほ……頼む……!」
抑えた悲鳴のような声が上がった。
雨宮の喉が、ぎゅっと縮まった。
(なに……?)
名前。
叫び。
声の震え。
すべてが“高校生の寝言”の範疇を超えていた。
続けて――
「神さま……お願いです……あの子たちの母親だけは……」
「……泣かないで……大丈夫、大丈夫だからお母さん……」
「みずほ……返事してくれ……頼む、頼むから……」
それは、聞いてはいけない“誰かの最期の場面”そのものだった。
雨宮の背筋を冷たいものが這い上がる。
(これ……誰?
……神原……なの?)
布団の擦れる音とともに、神原の声は途切れながらも続いた。
「なんで……俺が……もっと早く……っ」
「なんで……こんなことに……なんで……!」
苦しそうな、喉の奥で絞り出すような声。
その叫びは、保健室の静けさに対してあまりに異質だった。
雨宮は、手が震えていることに気づく。
それでも動けなかった。
なにが神原に起こっているのか…
しばらくして、また名前が漏れた。
「……みずほ……子どもたち……」
その瞬間、雨宮の中で何かが音を立てて崩れた。
怖い…
逃げなければ――
この声を聞いてはいけない――
本能がそう叫んでいた。
雨宮は息を呑み、そっと後ずさる。
カーテンを揺らさないように細心の注意を払ったが、膝が震えて踏ん張れない。
そして――走った。
保健室を飛び出し、ほとんど無意識で廊下を駆け、誰もいない旧校舎の角で立ち止まる。
肩が大きく上下し、心臓が痛いほど鼓動している。
(なに……今の……
あれ、本当に神原……?)
膝に手をついて息を整えようとするが、呼吸が乱れたままだ。
次の瞬間、気づいた。
頬が濡れている。
涙だった。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
ただ――胸がひどく締めつけられて苦しい。
さっきの声が耳に残って離れない。
怖い…ただそれだけ
「……大丈夫、大丈夫だから……」
まるで子どもを抱きしめるような声。
自分の命を差し出すような声。
愛情と恐怖が混ざった、どうしようもない叫び。
雨宮は、震える手で自分の口元を押さえた。
涙が止まらない。
怖かった…
(神原……あなた……
いったい……何者……?)
誰にも聞こえない声で、雨宮は呟いた。
そして――彼女の中で、神原に対するなにかの感情が大きくなり始めた。




