記憶の底から
下校前の廊下だった。
清掃時間のざわめきが続く教室の前で、生徒たちの声が急に上ずった。
「ちょ、誰かタオル持ってきて! ○○が吐いた!」
その叫びで、神原の足が止まった。
廊下の真ん中で、男子生徒が胃液を吐き、苦しそうに咳き込んでいる。
その横で、友人が背中を支えていた。
「大丈夫? ……うわ、やば、喉になんかつまっったみたい!」
男子は、咳き込むたびに喉の奥で泡立つような音を立てた。
喉の奥で“何かが戻ろうとして詰まる音”だ。
その音を聞いた瞬間――
神原の心臓が、痛いほど強く打った。
(……やめろ)
呼吸が、すっと浅くなる。
(この音……似てる……あの時と……)
脳の奥の、閉じたはずの箱が無理やりこじ開けられる。
――お風呂上がり、「気持ち悪い」と言って横になった妻。
――突然の嘔吐。
――背中を強く叩いた、自分の手。
――ぐったりして倒れる妻。
――慌てて仰向けにした、その判断。
――少し離れた場所で、子どもと遊んでしまった自分。
――戻った時には、口から泡があふれていた。
――玄関を壊すように入ってきた救急隊。
――泣き叫び、自分にしがみつく子ども。
――動けない自分。祈るしかできなかった自分。
――妻の喉で泡が鳴った音。
――あの時も、苦しそうに咳をして、弱々しく手を伸ばしていた。
「とにかく寝かした方が……!」
誰かのその言葉が耳に入った。
反射的に、膝が震えた。
(仰向けは、だめだ……!
俺は……あの時……!)
「か、神原? どうした……?」
近くにいたクラスメイトが声をかけた。
だが応答しようとしても、声が出ない。
胸が固く絞られたように動かない。
呼吸は早く浅く、吸っても肺に空気が入らない感覚。
(ちがう、これは……過呼吸……落ち着け……
ゆっくり吸って……ゆっくり……)
心の中でそう指示しても、体は言うことを聞かなかった。
「手、震えてる……?」
自分の指先がピリピリと痺れる。
酸欠の初期症状だ。
視界の端がわずかに暗くなっていく。
人の声が遠ざかり、廊下の蛍光灯の光が滲む。
(ちがう……これは現実だ……
戻るな……戻るな……あの時に……!)
だが――脳裏に走る記憶は止まらなかった。
――床に倒れた妻に手を伸ばす自分。
――泡を吹き、目が虚ろなあの顔。
――必死に揺さぶる自分の手。
――動けずに泣く子ども。
「神原! お前……息、できてないぞ!」
肩を掴まれる。
その瞬間、胸の奥に閉じ込めていた恐怖が、
一気に噴き出すように全身を貫いた。
「ッ……は……ぁ……!」
「落ち着け! ちゃんと息しろ!」
「神原もおかしい!」
誰かが焦る声を上げる。
………そうだ…お前が殺したんだ………
………お前がもう少し…気づけば………
神原は壁にもたれ、
必死に“吸わずにゆっくり吐く”ことだけを意識しようとした。
だが手足の震えは止まらず、涙が勝手ににじんでくる。
(なんで……今……こんな……
戻りたくない……あれはもう終わったはずだ……)
自分の意思と関係なく、
あの夜の匂い、光景、音がすべて蘇ってくる。
ほんの数十秒だが、永遠のように長かった。
「……大丈夫……? 保健室、行く?」
女生徒の震える声で、
ようやく神原の意識が現在に戻ってきた。
呼吸のリズムがゆっくり戻り始める。
指先の痺れが少し和らぎ、視界がまともに開いた。
「……ごめん……大丈夫……」
震える声で絞り出すと、周りは驚きと心配の目で見ていた。
神原は、少し笑おうとしたが――
頬は引きつり、笑顔にはならなかった。
汗が噴き出してしていた。
(……まだ、俺は……終わってないのか)
その思いだけが胸の奥に重く残った。




