第十九話 動物園
こんにちは! ワセリン太郎です!
自転車を漕ぐ足を止めて歩道の脇に寄せ、スマホを取り出し画面を見ると……そこに表示される時刻は午前八時三分。
約束の時間には、まだ二十分以上ある。
「うん……早く来すぎたかも!!」
そう。何を隠そうこのマコトさん、実は滅法朝に強いのだ。この事を同級生達に話すと、何故だか決まって『嘘だぁ、絶対休みの日は昼まで寝てそう』などと失礼な事を言われるんだけど……何でだ??
とにかく。そんな事を考えつつ、背中のリュックから取り出した水筒の麦茶をゴキュゴキュと飲んでいると、自転車のカゴから不満気でふて腐れた声が聞こえて来たのだった。
「ちょっとマコトちゃん! いい加減に自転車のカゴじゃなくて、別の場所に移動させてくれないかい?」
「えーっ……」
「そりゃあ君達人間からすれば、どうという事はないのかも知れないけれどね、自転車の車輪が路上の段差を越える度に、私の身体は宙を舞い、まるで炒め物の具材にでもされた様な気分さ! 待遇の改善を要求するよ!」
ネズミの炒め物なんぞ誰が食べようか。と、思いつつ、こんがりとキツネ色に揚がったアル君を想像してみる。うん……ない! 絶対ありえない! 唐揚げでもヤバいのに、炒め物なんて見た目が相当エグい事になるに決まってる!
だがしかし、先程から私が歩道の段差を乗り越える度、カゴの中で彼女の身体がピンポン球の様に跳ね回り、何だか少し可哀想に思えていたのも事実。
「うーん、でも嫌だなぁ……」
そう呟きながらチラリと観察すると、項垂れるアル君は少し弱っている様にも見える。
うーん。
「仕方ない、今日だけだよ?」
そう言われた彼女は、大きく溜息を吐きながら私の身体をよじ登って……背中のリュックのサイドポケットへとすべり込んだのだった。
ホッとした様子のアル君がボソリ、耳元で呟く。
「だからねマコトちゃん。私は研究室生まれで、その辺の野生のネズミと違って妙な雑菌の類いは居ないんだってば」
「ホントかなぁ……」
そうして再びペダルに足を乗せ、自転車を走らせ始める。
「アル君、だいじょーぶ??」
落ちたりせんかな?
「うん、さっきと比べたら天地の差だね!」
いいらしい。
ごとんごとん。市役所の前の歩道の段差を越え、役所の敷地の隅にある掲示板の前を通ると……何かガッツポーズを取った変なオッサンの写真と共に、様々な掲示物が貼り出されているのが目に留まった。
「なんじゃこれ」
ふと、突然湧き出た好奇心に足が止まる。どうせまだ約束までは時間があるのだ、少しぐらいなら道草を食ってもいいだろう。てか実際に“道草を食べる”とか、流石にちょっと無いよね。そんなん今まで二人しか見たことないし。
――ききーっ!
「うーん。マコトの自転車サビてんのかな? 最近、近所の坂道を下る時にもキーキーキュルキュルうるさいし、家に帰ったら“ブレーキにグリス”をいっぱい塗ってあげようかな。なんか良く分からんけど、多分それで静かになる筈だよね?」
「うん、それもいいかもね。ブレーキにたっぷりとグリスを塗り付けて坂道を下れば、自転車も静かになるし、運転者も静かになるし、それはそれで一石二鳥なんじゃないかな」
……うん? 自転車はわかるけど、何でマコトも静かになるんだ?? まあいいや、何言ってるかワカランし。それより……
「ねえアル君」
「なんだい?」
私は写真を指差した。
「この変なオッサン……誰? 何でガッツポーズしてるの? いい歳した大人なのに、頭おかしいんかな?」
そう言いながら掲示板にリュックを寄せ、彼女にも見やすい様にしてあげた。
背中から、あまり興味のなさそうな声が響く。
「うーん、私も良く知らないけれど……場所的に市政報告とか広報の類じゃないのかな? ああ。下にほら、市長って書いてあるね。つまり彼がこの神丘市の市長なんじゃないの? というか住民であり、高校生にもなった君がそれを知らない事に、色々と問題があるような気がするのだけれど」
私がこのオッサンの顔を知らないと、問題……? なんでだ? まあ、いいや。
あっ!? それよりこの市長、歯並びがガチャガチャだ!
「ふーん、市長ってこんな顔してたんだ。それよりこのオッサン、むっちゃ歯並び悪いね! 何か歯クソとかいっぱいついてそう!」
「ははは。マコトちゃんは微塵も容赦が無いね。ああ、女子高生という生き物は本当に無慈悲で恐ろしいよ。まさに中高年の天敵だ」
うはは、マジで市長の歯、ガチャクソやぞ! 必殺奥義! 歯間ブラシ、真剣白歯取り!!
「うん、ガチャ歯市長、歯の間隔空きすぎ問題! なるほど、この人が市長かー。でもエラい人なのに、何かお金持って無さそうな顔してるなぁ。あっ! あと、こういう人って凄いカレー臭とかしそう! 知らんけど!」
散歩をしているおばさんが、怪訝な顔をしてこちらを見ながら通り過ぎてゆく。
何だ? ああ、あの人はアル君の存在を知らないので、もしかするとマコトが一人でブツブツと大声で喋ってる“やべー奴”だと勘違いしてるのかも! ちがうわ! ちゃんとお話してるわ!
「でも確かにネズミの私の方が、はるかに歯並びが美しいね。ちなみにマコトちゃん、馬鹿なお約束を先に言っておくけどね、加齢臭は加齢による匂いであって、断じてカレーの匂いとは違うからね」
「うん、ちゃんとわかってるから大丈夫! いつも先生から臭うから知ってるし! でも何でカレーの匂いじゃないのにカレー臭って言うんだろうね? 今度、先生に聞いてみよっかな?」
「あはは、君は本当に鬼畜だね。あと、多分マコトちゃんの脳味噌は完全に溶けて味噌汁みたいになっているんじゃないかな?」
「あっ、マコト今朝、お味噌汁食べたよ! でもねアル君、カレーと味噌汁ってあんま合わないと思う!」
「うんうん。きっと、そういう話になると思っていたよ」
そうして急に市政へ興味を持った私は自転車を降り、掲示されている他の写真等へもじっくりと目を通す事にした。あっ、でも文章だけの掲示物は頭が痛くなりそうだし、極力読まない様にしよう。写真だけ見ればいいや、よくワカラン小難しい話には全然興味がないし。
でも不思議だ。こういう政治とかの話をしてると、何故だか急に、己の存在がグレードアップされた様な気になる。何と言うかこう……超知的な感じ? そう、今日のマコトは少々格式の高い女なのだ。
さて、少し脱線した。再び視線を掲示板へと移動させ、社会情勢の話に戻ろう。
「ねえねえ、見て見てアル君! このオッサン、ほとんど首が無いよ! 何かレントゲン撮ったら面白そう!」
私はそう言って、スーツを着た肌色の超人〇ルクみたいなオジサンの写真を指差した。
「本当だ、首が異様に短いね。ああ、彼はどうやら……市議会議員みたいだ」
シギカイギインって用務員さんみたいな仕事だっけ? てか何かワカランけどこのオジサン、そのシギカイ何とかにしておくのが勿体ない程、超人ハル◯に似ている。
「すっげー! アタマがデカくて顎もガッチリしてて、マジで超人ハ〇クみたい! 緑色じゃないけど! ミサイルとか食らってもあんま効かなさそう!」
この人、ほんと勿体ない。市のお仕事なんてさっさと辞めて超人◯ルクになればいいのに。
「あはは、たまにこういう体型の人いるよね。でも彼、首がこんなに短くて、振り返る時は一体どうするんだろうね?」
「あひゃひゃ、たぶん腰ごと回転して振り向くんじゃね? てかさ、アル君。高校一年生でこういう社会的なことに関心を持つ私って……結構すごくない? かなり賢くない?」
「あはは、馬鹿だねマコトちゃん。君は社会の在り方とか、そういう崇高な内容に想いを馳せていたワケじゃなく、単に知らないオッサンの身体的特徴を見てコケにしていただけさ」
えー……違うよ。マコトそんな事しないよ。
「うーん、そんなつもりは無いよ? マコト、ちゃんと政治家の人の話をしてたし! あっ! この目つきヤバいオバサンもギインの人?? 見て、鼻の穴デカっ! ペットボトルのキャップとか入りそう! あとね、頬骨が張ってて、顔がアイ◯ンマン マーク24みたい!」
「あはは、流石にキャップは入らないでしょ。せめて“油性マジックの太い方”ぐらいにしときなよ。あとね、マコトちゃんは ア◯アンマンに詳しいんだね、感心したよ」
「マコトはね、マーク44がむっちゃ好き! ハルクバ◯ター! あとね、そういう決めつけは良くないと思う! ラムネの瓶の先端なら入るかも知れないし!」
「いやいやマコトちゃん。どんだけガバガバだと思ってるんだい? 実際そんな物が入ったらこのオバサン、人間の尊厳と引き換えにギネスへ掲載されちゃうんじゃないかな」
「マコトもギネスに載りたいかも!」
「うんうん。君は世界一賢い女子高生でイケるんじゃない?」
「ほんと? あ、でも現実的に考えたらさ、探せばもうちょっと上の人が絶対に居ると思うよ! 世界は広いんだから! あとね、人間ってね、やっぱり謙虚にならないとダメだと思う!」
「あはは、マコトちゃんは本当に賢いねぇ」
「でしょ?」
そうやって高校生なりに、政治や社会の在り方へと想いを馳せていた私なのだが、暫くすると急につまらなく感じ始め……再び自転車へと跨り、ゆっくりペダルを漕ぎ出したのだった。
「あれ、もういいのかい?」
「うん、飽きた!」
「あはは、だろうね!」
立ち漕ぎすると、頬を撫でる風が非常に心地よい。
初夏の爽やかな風を受け、私達の乗る自転車は鼻歌交じりに颯爽と街を駆け抜けてゆく。
「た~んた~んたーぬきーのキーンターマは~♪ か~ぜ~もなーいのにブーラブラー♪ そ~れをみ~ていたこだぬきも~♪」
「マコトちゃん、素敵な歌だね。ああ、君は本当に素敵な女の子だよ」
素敵な女の子? そうだろう、そうだろう。ようやくわかってきましたな、このネズミさんも。
「これねぇ、いいでしょ。ちょっと前に駄菓子屋の前の公園で、ツナギを着た外国人のお姉さんがブランコ漕ぎながら歌ってて、それを聞いて覚えたんだー。知らない歌だけど、何か凄い懐かしい感じ! もしかしたら外国の歌なのかもね! あとね、その人に何してるんですか? って聞いたらね、『ハナクソ飛ばして遊んでる』って言ってた!」
ふと、暫く返事に間が開いた。
「マコトちゃん……もしかしてその人と知り合いなのかい?」
あれ、急にどうしたんだろ?
「うんにゃ? その一回しか話した事はないけど、たまに公園とか商店街で見かけるかなぁ」
「そっか……なるほどね。これも不思議な縁というやつか。そういえば、この日本では昔から“類は友を呼ぶ”とか何とか言うらしいけど、あながちそれは間違っていない様に思えるよ」
「??」
それから間もなくして、動物園のある“お城山”の登り口へと到着した。一旦自転車から降りて坂道を見上げ、それから再びスマホを取り出し現在時刻を確かめる。
うん、約束した時間の十分前か。
「うん、丁度いい感じの時間じゃない? さっき市役所の掲示板の前で、社会情勢について色々と考えてたのが結構良い時間潰しになったみたい」
今から自転車を押して城山を登れば、そう待たずに他の面子も集まって来るのではないかと思う。もしかしたら先に誰か来てるかも??
などと考えながら、被っていたヘルメットを脱いでカゴの底へと押し込め、その上の空いたスペースに背負っているリュックを突っ込み蓋をした。
アル君がポケットから身を乗り出して笑う。
「社会情勢じゃなく、知らないオッサンを馬鹿にして盛り上がってただけだけじゃないか。いやいや、君は本当に立派な子だよ」
何かよくわからんけど、褒められて悪い気はしない。さて、それでは坂の上の動物園を目指そうか。そろそろ他のみんなも集まっているかも知れないし!
それから五分ほど自転車を押して坂道を上り、両脇に桜の木……とは言っても当然、季節的に花は咲いていないのだけど、とにかくその桜並木を通り抜けた所に、遠く、“神丘市立、城山動物園”と書かれた看板が見えて来た。
てかあのペンキの手書き臭い看板、この令和の時代にどうにかならないものか。あまり気にした事は無かったけれど、こうして改めて見るとB級スポット臭がすごいぞ。いやまあ市外の人達から見たら、元々完全にB級スポットなのかもだけど。
カゴの上からアル君の声がした。
「マコトちゃん、あそこにエルルが居るね。どうやら我々が役所の前で遊んでいる間に先を越されたみたいだ」
私と似たジャージ姿の彼女は、こちらに気付いてペコリと会釈してきた。
「マコトさん、主任……じゃなかったアルさん、おはようございます」
「えるるんおはよー。朝、トイレ行った?」
「おはようございます、マコトさん。何故、開口一番にそれを……」
「おはようエルル。“あれ”はちゃんと持って来たかい?」
アル君の問いに、ぴょこんと背中のリュックを見せて頷くえるるん。
「おはようございます。はい、もちろんです。この量なら、お仕事中の係員の方達には申し訳ないですが……園内を調査する時間は十分に稼げると思いますよ」
二人は何の話をしているのだろう? 私がそう考えていると、背後からチリンチリンと自転車のベルが鳴り響く。
振り返ると……ミクだ。今、到着したのか。
「ちーっす。みんなおはよー」
「ミクちゃんおはよう」
おい、何かお洒落やぞ、この陽キャ。
「おはようございます」
皆はそう、口々に挨拶を交わす。
「ミクちゃんおはよー。あれ、クソ森は?」
「ん? 森っち見てないよ。どっかトイレとか行ってるんじゃない?」
「何だ、ウ〇コか」
「え、そうなの?」
「居ないって事はね、絶対ウ〇コだって」
「そっかぁ、そうなんだー」
そうやって話していると、石垣の階段の上から誰かの気配がした。
「マコトお前、ホント下品だよな」
「……はぁ?」
当然、声の主はクソ森だ。どうやら先に来て、何かしていたらしい。まあどうせウ〇コだろうけど。
「先に来てウ〇コしてたんでしょ。ちゃんと拭いたの?」
紙はあったのだろうか? こういう場所の公衆トイレは紙が切れていたりする事が多い。仮にもしそういう事であった場合、必然的に……森のヤツは“お尻を拭いていない”事となる。何を隠そう私も一度、河川敷公園のトイレで紙切れに遭い、泣く泣くウンコを拭かずに自転車を立ち漕ぎして帰った経験があるので、そういった件については少々詳しいのだ。
「お前、何言ってんの……? 違うよ、どうやって動物園の中を調査しようかと考えてたんだ。今は閉園中ではあるけどさ、当然飼育員や管理の人達が中にいるワケだろ? てか改めて見るとこれ、熊の居た檻に近付くのはそう簡単な事じゃないぞ。どうせ流行らない施設だからって俺、考えが少し甘かったわ」
一番上の鐘撞き堂の近くまで上って、中腹の動物園を見下ろしていたのか? でも確かに森の言うとおり、マコト達が突然押し掛けて『熊の居た檻を見せて』と頼んでも、係員のオジサン達が了解してくれるとも思えない。てか多分、つまみ出されると思う。
私達が眉間に皺を寄せていると、アル君が口を開いた。何だろう、随分と余裕を感じる態度。
「大丈夫さ。森君、その点についての心配はいらないよ。実はエルルが特殊な魔法のアイテムを持って来ていて……」
「魔法……?」
その時だった、えるるんが妙な声を上げたのは。
「えっ!? ちょっ……ミクさんあの人、一体何をしてるのでしょうか??」
……何だ??
そう言われ、えるるんが指差す方角を目で追うと……いつの間にか私達と遠く離れ、一人で動物園の係員のオジサンと談笑するミクの姿が。
それから暫くすると、彼女はこちらに向けて笑顔で手を振って来た。
「みんなー。オジサンが動物園の中を見てもいいってー」
「ちょ!? ミクのやつ、一体何やってんだ??」
そう騒ぐクソ森を、何か思いついたらしいアル君が制止する。
「いや、待つんだ森君。これは係員の口から“事件当時の様子”を聞ける、またとないチャンスかも知れないよ」
「そ、それは確かに……まあ正面から堂々と入れるに越したことはないか」
「エルル、一旦“人払いの魔法”を使うのは中止しよう。もしかすると彼等から何か有益な情報を引き出せるかも知れない」
「わ、わかりました」
「ま、魔法……?」
「しかしミクちゃんは……」
そう呟くネズミに、クソ森が目を丸くしながら応えた。
「ああ。ミクの奴、もしかしてスゲー才能を持ってるのかもな。一体どうやったのかはわからないけど、普通は絶対に入れてくれないぞ」
「他人の懐にスッと入り込む……生まれ持った、天賦の才ってやつなのかも知れないねぇ。恐らく本人に自覚は無いのだろうけど」
そうだ、あれこそが誰にでもベタベタと馴れ馴れしく話し掛ける“陽キャ”というヤツであり、私が最も苦手とする類の……誰だ? 今、私の事を“根暗”とか思ったやつ! っしゃ、表に出ろ!!
そう被害妄想に浸っていると、えるるんも呆れた様子でボソリと呟く。
「ああいうのを“人たらし”……というのでしょうか?」
「ちがいます! 陽キャです! パリピです!!」
「と、ともかく、これは渡りに船というやつです。オジサン達の気が変わらない内に私達も早く行きましょう」
「マコトそれ知ってる! 三途の川やな!」
「……」
こうして私達は、難なく閉園中の動物園へと入る事に成功したのだった。