第62話-あなたたちは、人間じゃない
61話の続き!
前回で会議が決裂した外部組織。
それでも、どうしても箱庭の娘たちのデータが欲しかった。
もちろん、プライドを取り戻すためっていう感情的な理由もあったみたい。
エルの魔法が発動するおはなし。
数か月後。
第六管制星系で、再び魔力災害の兆候が観測された。
最初の報告は、星系維持組織からではなく、監理局の遠隔観測網から上がった。
外縁鉱物惑星の地下層。
低軌道上の旧式魔術衛星。
廃棄された祈祷施設跡。
三つの地点で、同時に微弱な精神魔力の反応が発生している。
単発ならば、珍しいだけの異常だった。
しかし、三点が同期していた。
しかも、その同期波形は過去の記録と似ていた。
惑星監理局、情報班。
アカシックレコード・オフライン管理室。
ロジーは、頭上のデバイスから幾重にも展開した記録窓を睨んでいた。
「似てる」
彼女の声は、いつもの騒がしさより少し低い。
「二十七件。いや、待って。派生を含めるなら三十一件。全部、初期波形は小さい。でも対応を間違えると、瞬間的に増幅するやつ」
分析官が隣で端末を操作する。
「一致率は?」
「表面波形だけなら五十八パーセント。だけど、発生地点の配置と魔力圧の上がり方が気持ち悪いくらい似てる」
「気持ち悪い、では報告書に書けません」
「じゃあ、“既知災害群の前兆構造に対して、偶然一致として扱うには不自然な相関がある”」
分析官は、わずかに眉を上げた。
「採用」
ロジーは胸を張る余裕もなく、次の記録窓を開いた。
「これ、初動を間違えるとだめ。普通に封止杭を打つと、地下層が反発する。先に精神魔力の抜け道を作らないと、圧が逃げ場を失って都市部に噴く」
作戦統括官が、会議卓の向こうで腕を組んだ。
「通常班だけで足りるか」
ロジーは即答しなかった。
その沈黙で、部屋の空気が重くなった。
レトは会議室の端で、両手をぎゅっと握っていた。
淡緑の髪を左側で結んだワンサイドテールが、わずかに揺れる。
青いキューブの髪飾りが、照明を受けて小さく光った。
「わたし、行けるよ」
その声は明るい。
けれど、軽くはなかった。
「必要なら、わたしが行く。地下の空間をずらして、魔力の逃げ道を作れると思う」
ロジーが、レトを見た。
「うん。レトの空間魔術が必要になるかも。だけど、最初から出したらだめ。似てる記録だと、強い魔力が入った瞬間に反応が変わる場合がある」
「じゃあ、わたしは待機?」
「待機。すぐ出られる待機」
「うん!」
レトは強く頷いた。
その隣で、エルは椅子に座って、資料を見ているようで見ていなかった。
白髪の毛先の淡いピンクが、肩口でふわりと揺れる。
黄金に近い瞳は、投影資料ではなく、卓上に映る小さな惑星模型を眺めていた。
ジェレミーが言った。
「エル」
「ん」
「今回、最終手段として君の魔法行使も検討対象に入る」
会議室の空気が、また一段変わった。
エルは、ゆっくり顔を上げた。
「あたし、行く?」
「行く。ただし、魔法は使わない前提だ。使う場合は、私または副長、上位委員会承認、現場の生命保護条件が揃った場合に限る」
エルは少し考えた。
「分かった。使わないために、行く」
ジェレミーは短く頷いた。
「そうだ」
副長は端末に出撃構成を入力していた。
調査班。
技術班。
情報班。
戦闘班。
医療班。
外務班。
箱庭の娘たち三名。
その編成は重い。
だが、今回の災害兆候にはそれだけの危険があった。
そして、第六管制星系には、もう一つの問題がある。
外部組織。
数か月前、監理局はこの星系維持組織との共同戦線を廃棄した。箱庭の娘たちを兵器、資源、研究対象として扱う価値観が、資料と言動に露呈したからだった。
その後、星系維持組織は公式に謝罪こそしなかったものの、危険な幹部の更迭を発表した。
責任者の交代。
研究統括権限の整理。
監理局との接触窓口の刷新。
特殊人員への接触禁止の受け入れ。
文面だけなら、改善はあった。
少なくとも、監理局が再び現地へ入る程度には。
だが、副長はその報告を最初から信用していなかった。
出撃前の廊下で、ジェレミーが言った。
「確認は」
副長は笑みを浮かべたまま答える。
「表向きは済んでいます。元作戦局長は災害資源調整監へ異動。元研究統括官は星系災害史編纂室の顧問。どちらも実務権限なし、という建前です」
「実態は」
「人事決裁権はありません。ですが、予算配分、研究班の人員配置、現地防衛隊への非公式助言、災害対策部門への影響力は残っています」
ジェレミーの目が細くなった。
「更迭ではないな」
「配置換えです」
副長の声は、いつも通り穏やかだった。
「彼らは失脚したふりをした。あるいは、組織全体がそう見せた。こちらが再び現地へ入るように」
「罠の可能性は」
「あります」
「上位委員会には」
「共有済みです。ただ、兆候そのものは本物です。放置はできません」
ジェレミーは、少しだけ視線を伏せた。
「分かっている」
副長は、笑っていた。
だが、その笑みの奥にある温度は低かった。
「局長。今回、相手が線を越えた場合は」
「手続きを取れ」
「はい」
「感情で動くな」
副長は、わずかに肩をすくめた。
「努力します」
ジェレミーは、副長を見た。
副長は笑みを崩さなかった。
「冗談です。手続きは通します。感情が混じることと、手続きを曲げることは別ですから」
「そうだ」
ジェレミーは短く言った。
「だから君に任せる」
副長は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「承知しました」
現地滞在基地は、鉱物惑星の衛星軌道上に設置された臨時監理局区画だった。
星系維持組織が提供した施設ではない。
監理局が自前で展開した、移動式の封鎖拠点。
外壁は灰白色。
内部は狭く、無駄がない。
調査班の解析室、技術班の機材庫、医療班の臨時処置室、戦闘班の待機室、箱庭の娘たち用の休息区画。
エルは、窓のある小さな観測室を気に入った。
そこからは、鉱物惑星の夜側が見える。
地表の都市光は少ない。
代わりに、鉱脈に沿った淡い魔力光が、黒い地表に細い線を描いていた。
「きれいだね」
エルは言った。
レトは窓に顔を近づけた。
「でも、危ない光なんだよね?」
「うん。たぶん、苦しそうな光」
ロジーはデバイスを操作しながら答えた。
「地表から見ると綺麗だけど、地下では圧が上がってる。人間の街に噴いたら、みんな変な夢を起きたまま見るみたいになる」
レトは眉を下げた。
「それは、いやだね」
「いやだね」
エルは、窓の外を見たまま言った。
「人間、夢を見るのは好き?」
ロジーは少し考えた。
「楽しい夢なら好き。怖い夢は嫌。起きてるのに勝手に夢を見せられるのは、かなり嫌」
「そっか」
エルは頷いた。
「じゃあ、止める」
レトはぱっと笑った。
「うん! 止めよう!」
ロジーも笑う。
「まずは私の解析! レトは待機! エルは魔法使わない係!」
「使わない係」
エルは、その言い方が気に入ったように小さく繰り返した。
その数時間後。
すべてが分断された。
始まりは、通信異常だった。
外部回線ではない。
監理局拠点内部の、短距離通信。
調査班から技術班への定時報告が、一秒遅れた。
情報班の支援職員が、その遅れを検知した。
「内部回線、遅延」
次の瞬間、廊下の照明が青白く明滅した。
作戦統括官が顔を上げる。
「全区画、遮断確認!」
返答はなかった。
基地全体が、見えない硝子の箱に細かく分けられたように切断された。
空間分断魔術。
基地そのものを破壊するのではない。
廊下、隔壁、扉、通信経路、視線、音、移動座標をずらし、隣にいるはずの相手を別の閉鎖空間へ押し込める。
監理局の技術班なら、いずれ解除できる。
だが、時間はかかる。
その時間を稼ぐための魔術だった。
戦闘班の待機室に、警報音が響いた。
レトは即座に立ち上がった。
「敵!?」
近接戦闘員が武器を取る。
「まだ判断するな。内部侵入だ」
遊撃補佐員が扉へ走った。
扉は開かなかった。
いや、開いた。
開いた先が、廊下ではなかった。
黒い壁のような空間が広がっている。
三歩先がない。
空間が折り畳まれている。
「分断されてる」
遊撃補佐員が言った。
レトの周囲に、青白い硝子短剣が浮かんだ。
「わたし、抜ける!」
「待て、レト」
近接戦闘員が止めるより早く、壁面が破られた。
外からではない。
内側の床に、事前に仕込まれていた術式が開いた。
黒い装備の人影が、複数。
星系維持組織の実働部隊。
監理局の識別には、そう表示された。
敵性存在ではない。
魔物でもない。
人間。
その瞬間、レトの短剣の軌道が止まった。
「……人間?」
その一瞬で、拘束術式が起動した。
青い鎖のような光が床から跳ね上がり、レトの腕、脚、首元を絡め取る。
レトは反射的に硝子を砕こうとした。
だが、相手の顔が見えた。
若い兵士だった。
怖がっている。
それでも命令通りに動いている、人間だった。
レトの目が揺れた。
「だめ」
小さく、そう言った。
「人間に、刺しちゃだめ」
鎖が締まった。
レトの膝が床につく。
近接戦闘員が怒号を上げて飛び込んだ。
重装隊員が盾を展開する。
遊撃補佐員がレトへ伸びる拘束術式を切り裂こうとする。
だが、敵は監理局を研究していた。
レトが人間相手に一瞬止まること。
戦闘班がレトを庇うこと。
非致死制圧を選ぶこと。
全部、計算に入っていた。
別区画。
情報解析室。
ロジーは、デバイスを押さえていた。
「やだ」
最初に起きたのは、痛みではなかった。
遅延。
頭上のデバイスが、ほんの半拍、思考補助を遅らせた。
ロジーの顔から血の気が引いた。
「やだ、待って、待って、いま、私、次なに、えっと、記録、記録しなきゃ、違う、避難、連絡、局長、レト、エル、あれ、今どこ、ここ、ここどこ」
情報班の職員が叫ぶ。
「ロジーのデバイスに干渉!」
敵は通信侵入をしていなかった。
ハッキングではない。
もっと単純で、もっと悪質だった。
壁面から射出された細い物理針が、ロジーのデバイス外殻に接触していた。魔力信号ではなく、微細振動と局所磁場で、デバイスの制御リズムを狂わせている。
ロジーの脳は壊れている。
デバイスは、その壊れた脳がロジーとして日常を送るための外部補助だ。
そこへ物理的に触れた。
思考を直接殴るようなものだった。
「ロジー、見るな!」
情報班職員が彼女の前に出る。
「だい、じょうぶ、私、大丈夫、記録、記録開始、記録、き、ろく、あれ、文字、文字どこ、私の、私、わたし、私って、えっと」
ロジーの声がほどけていく。
言葉が繋がらない。
意味が逃げる。
彼女は両手で頭上のデバイスを掴もうとしたが、届かない。
デバイスは小刻みに震え、警告灯を赤く点滅させていた。
「やだ、やだ、やだ、私、まだ、分かる、分かってる、分かってるから、消えないで」
敵の一人が言った。
「対象二、思考低下確認。拘束へ移行」
その言葉を聞いた情報班職員の顔が、明確に変わった。
「対象?」
彼は、普段穏やかな記録整理官だった。
怒鳴ることは少ない。
ロジーの騒がしさにも、いつも静かに付き合っている。
その彼が、低く言った。
「今、誰を対象と言った」
敵は答えなかった。
拘束術式が走る。
情報班職員はロジーを抱えるようにして伏せた。
術式が背中を撃った。
彼は呻いたが、ロジーを離さなかった。
「ロジー、聞こえますか」
「きこ、聞こえる、聞こえる、たぶん」
「私の声だけ追ってください。ここは監理局拠点。あなたはロジー。情報班。デバイスに遅延。まだ繋がっています」
「まだ、繋がってる?」
「はい」
「私、いる?」
「います」
「記録、できてる?」
「今はしなくていい」
ロジーの目に、涙が浮かんだ。
「しないと、消えちゃう」
「消えません。私が覚えています」
その直後、二人の周囲を拘束術式が包んだ。
情報班職員は、最後までロジーの耳元で言い続けた。
「あなたはロジーです。ここにいます。消えていません」
観測室。
エルは、一人だった。
最初の警報は聞こえなかった。
空間分断魔術が、音を切っていたからだ。
エルは窓際に座り、鉱物惑星の夜側を眺めていた。
地表の魔力光が、さっきより少しだけ乱れている。
細い線が震え、時々、泡のような光が膨らむ。
「苦しそう」
エルは呟いた。
背後で、扉が開いた。
いや、扉の形をした空間が剥がれた。
黒い装備の人影が、五人。
さらに後ろに、術式支援の影。
エルは振り返った。
「なに?」
敵は答えなかった。
一人が、拘束術式を起動した。
白い輪がエルの足元に広がる。
エルはそれを見下ろした。
「これ、あたしを止めるやつ?」
返答の代わりに、衝撃が来た。
非致死性の魔力弾。
肩に当たった。
エルの小さな身体が、壁にぶつかった。
痛みはあった。
だが、エルはすぐに悲鳴を上げなかった。
肩を押さえ、首を傾げる。
「いまの、なに?」
敵の一人が、わずかに息を呑んだ。
事態を理解していない。
その反応が、かえって彼らを苛立たせた。
「対象三、反応鈍い。追加拘束」
二発目。
今度は脚に当たった。
エルが床に膝をつく。
そこで、ようやく理解が追いついた。
これは遊びではない。
実験でもない。
人間が、エルに攻撃している。
エルは、ゆっくり顔を上げた。
「レトは?」
敵は近づいてくる。
「ロジーは?」
誰も答えない。
「職員さんたちは?」
返答はない。
エルの瞳が、少しだけ遠くを見た。
魔法を使うつもりはなかった。
使わない係だった。
でも、確認するだけなら。
見るだけなら。
エルの意識が、静かに広がった。
術式ではない。
探査魔術でもない。
通信でも、記録参照でもない。
エルが、硝子玉の宇宙の内側を見る。
そこにあるものを、自分の身体の痛みのように確かめる。
レト。
床に膝をつき、拘束術式に縛られている。
青白い硝子短剣は浮かんでいるのに、撃てない。
人間を傷つけてはいけないと、自分で自分を止めている。
ロジー。
デバイスが震えている。
思考がほどけている。
情報班職員に抱えられながら、必死に自分が消えていないことを確かめている。
戦闘班。
傷ついている。
それでも殺さないように戦っている。
医療班。
処置室の扉をこじ開けようとしている敵を、器具台で押し返している。
外務班。
通信を奪われないよう、血のついた手で端末を握っている。
作戦統括官。
閉鎖された指揮区画で、分断術式の構造を叫ぶように読み上げている。
死者はいない。
まだ、いない。
でも、みんな傷つけられている。
エルは、立ち上がった。
肩から血が落ちた。
赤かった。
エルはそれを見た。
それから、前にいる人間たちを見た。
「あたしは」
声は小さかった。
けれど、部屋全体が聞いた。
「あたしは、人間のことが好き」
敵は動きを止めなかった。
拘束術式が、エルの腕に絡む。
エルは、その術式を見た。
「でも、これはなに?」
誰も答えない。
「人間は、レトを痛くしない」
空気が、変わった。
「人間は、ロジーを壊さない」
窓の外の星が、遠くなったように見えた。
「人間は、職員さんたちを傷つけて、記録を取ろうとしない」
エルの声は、泣いていなかった。
怒鳴ってもいなかった。
だからこそ、異様だった。
「だから」
彼女は結論を出した。
「あたしには、分からない」
拘束術式が砕けた。
音はしなかった。
ただ、世界の方が、エルの理解に合わせて形を変え始めた。
「きっと、あなたたちは、人間じゃない」
魔法が顕れた。
観測室にいた実働部隊の顔から、表情が消えた。
皮膚が裂けたわけではない。
血が噴いたわけでもない。
肉体が壊れたわけでもない。
もっと根本的なものが外された。
名前。
声。
迷い。
命令に従う理由。
自分が人間であるという、輪郭。
彼らの身体が、半透明の硝子人形のように変わっていく。中には心臓の鼓動に似た光が残っている。死んではいない。苦しんでもいない。
ただ、人間として扱われていない。
武器が床に落ちた。
一人が口を開こうとしたが、声ではなく、命令文がこぼれた。
対象三拘束。記録取得。上位指示維持。
エルは、それを聞いた。
「ほら」
彼女は、静かに言った。
「人間の言葉じゃない」
魔法は観測室だけで止まらなかった。
基地内にいた実働部隊へ広がる。
空間分断魔術の術者。
ロジーのデバイスに物理干渉を仕掛けた者。
レトへ拘束術式を放った者。
監理局職員を負傷させた者。
全員が、同じように止まっていく。
透明な硝子の人形。
命令を保存した器。
人間の形をした、作戦の道具。
そして、魔法はさらに奥へ伸びた。
指示系統へ。
隠された通信回線。
偽装された災害対策室。
更迭されたはずの元幹部たちがいる、地下司令室。
元研究統括官は、端末の前で立ち上がった。
「何だ、これは」
自分の声が、文字列になって床に落ちた。
何だ、これは。
彼は喉を押さえた。
次の瞬間、彼の身体から色が抜け始めた。
元作戦局長が叫ぼうとする。
「緊急遮断を――」
声は命令文になった。
緊急遮断を実行。証拠記録を破棄。災害兆候を第二段階へ移行。
その場にいた者たちが、互いを見た。
彼らは初めて理解した。
エルを知らなかったのではない。
彼らは、知らないものを利用しようとした。
その結果、知らないものに見られた。
人間としてではなく。
加害の構造として。
エルの魔法は、彼らを殺さなかった。
殺す必要がなかった。
人間でないなら、処理すればいい。
危険な装置なら、停止すればいい。
命令文の塊なら、封印すればいい。
エルの中で、それは優しい結論だった。
レトとロジーと職員たちが、これ以上傷つかないための、いちばん簡単な方法。
だからこそ、最悪だった。
ジェレミー・クリエットは、分断された通路を走っていた。
手には、ハンドガン一丁。
基地内の空間は、正常な地図を失っていた。
一歩先が十メートル先に繋がり、右の扉が背後の廊下へ戻り、天井の照明が床に映る。
だが、ジェレミーは迷わなかった。
魔術師ではない。
空間術者でもない。
それでも、彼は戦場の歪みを読む。
銃声が鳴る。
弾丸は敵ではなく、術式の節へ撃ち込まれた。
正確に。
必要な数だけ。
一発ごとに、分断空間の角が剥がれていく。
副長の声が、内部回線の残骸から飛んだ。
「局長、エルの魔法が指示系統へ到達しています」
「死者は」
「現時点で確認なし。ですが、実働部隊および指示者の存在定義が変質中。人間判定の剥奪に近い」
ジェレミーの表情は変わらなかった。
「エルの位置は」
「観測室。単独。負傷あり」
ジェレミーの足が速くなった。
副長は続ける。
「レトとロジーは救出班が向かっています。私は上位委員会と接続中。指示者が第二段階を起動しようとした場合、排除承認を取ります」
「取れ」
「はい」
通信が切れた。
ジェレミーは最後の分断壁の前で止まった。
向こう側に、エルがいる。
壁は透明ではない。
だが、気配はあった。
冷たい。
静かな。
人間を好きな少女が、人間をやめさせようとしている気配。
ジェレミーはハンドガンを構えた。
撃った。
弾丸は壁を壊さなかった。
壁に刻まれた術式の一点だけを穿ち、空間の噛み合わせを外した。
観測室への道が開く。
ジェレミーは入った。
そこには、硝子人形のようになった兵士たちが立ち尽くしていた。
その中央で、エルが空を見ていた。
肩から血を流し、脚にも傷がある。
顔はいつも通りに見えた。
ふわふわしていて、淡々としていて、泣いていない。
だが、手が震えていた。
小さく。
どうしようもなく。
ジェレミーは銃を下ろした。
「エル」
エルは、ゆっくり振り返った。
「ジェレミー」
その声も、いつも通りだった。
「来たんだ」
「ああ」
「レト、痛かった」
「知っている」
「ロジー、分からなくなってた」
「知っている」
「職員さんたち、血が出てた」
「知っている」
エルは、硝子人形たちを見た。
「あたし、人間のことが好き」
「ああ」
「でも、これ、人間じゃない」
ジェレミーは、まっすぐエルを見た。
「人間だ」
エルの瞳が、わずかに揺れた。
「違うよ。人間は、あんなことしない」
「する」
ジェレミーの声は、静かだった。
「人間は間違える。傷つける。奪う。命令に隠れる。合理性で誰かを損耗表に入れる。怖いことをする」
エルは、少しだけ首を振った。
「じゃあ、あたしの好きな人間と違う」
「違う人間だ」
「そんなの、いや」
「それでも人間だ」
エルの手の震えが強くなった。
「人間だったら、戻したら、また傷つける」
「それは私たちが止める」
「またレトが痛くなる」
「止める」
「ロジーが壊れる」
「止める」
「職員さんが死ぬかもしれない」
「その前に止める」
「ジェレミーも、傷つく」
ジェレミーは、そこで少しだけ沈黙した。
そして言った。
「それでも、君が人間をやめさせてはいけない」
エルは黙った。
「君が人間を好きでいたいなら、人間を人間のまま止めろ。罰するにしても、裁くにしても、殺すにしても、人間として扱え」
エルの目が、ほんの少し見開かれた。
「殺すのは、いいの?」
「いい、ではない」
ジェレミーは近づいた。
周囲の硝子人形たちは動かない。
「必要なら、私たちが責任を持って行う。手続きを通し、記録を残し、理由を背負う。君が怖かったから、分からなかったから、人間じゃないことにして消す。それは違う」
エルは、俯いた。
「怖かった?」
その声は、自分でその言葉の意味を確かめるようだった。
ジェレミーは、エルの前で膝をついた。
目線を合わせる。
「怖かっただろう」
エルは泣いていなかった。
涙はない。
表情も崩れない。
それでも、身体は震えていた。
「あたし、分からなかった」
「ああ」
「人間が、なんで、あんなことするのか」
「ああ」
「レトが、撃てなかった」
「あいつは、人間だと分かったから止まった」
「ロジーが、消えそうだった」
「消えていない」
「職員さんたち、痛かった」
「全員、帰す」
エルは、ジェレミーの袖を掴んだ。
弱い力だった。
「戻したら、人間になる?」
「元から人間だ」
「戻しても、傷つけたことはなくならない?」
「なくならない」
「じゃあ、どうするの」
「裁く」
「裁く」
エルは、その言葉を小さく繰り返した。
「人間として?」
「人間として」
長い沈黙。
それから、エルは小さく頷いた。
「分かった」
魔法がほどけた。
硝子人形たちに、色が戻る。
肌。
声。
呼吸。
恐怖。
罪悪感。
命令への服従。
保身。
悪意。
人間の輪郭が戻る。
戻った瞬間、実働部隊は全員、床に崩れ落ちた。
死んではいない。
だが、もう立てなかった。
エルの膝も崩れかけた。
ジェレミーが抱き止めた。
エルは、しがみつかなかった。
ただ、されるがままに抱き締められていた。
ジェレミーは、責めなかった。
「怖かったな」
その一言で、エルの震えが一度だけ大きくなった。
泣かない。
泣き方が、まだ分からないような顔だった。
それでも、ジェレミーは抱き締め続けた。
「もういい。ここは私が引き受ける」
エルは、ジェレミーの肩口で小さく言った。
「人間に戻した」
「ああ」
「あたし、できた?」
「できた」
「じゃあ、次は、ジェレミーが止めて」
「分かった」
レトは、戦闘班に救われた。
重装隊員の盾が拘束術式を受け止め、遊撃補佐員がレトの腕に絡んだ術式を切り、近接戦闘員が敵兵を床へ叩き伏せた。
殺してはいない。
だが、二度とその場で立ち上がれないほど、正確に無力化した。
レトは、床に座り込んだままだった。
硝子短剣は消えている。
「わたし」
声が震えていた。
「止まっちゃった」
近接戦闘員は、膝をついてレトの拘束具を外した。
「止まったな」
「人間だったから」
「ああ」
「でも、職員さんたち、怪我した」
「したな」
レトの目に涙が溜まる。
「わたしが、すぐ動けたら」
近接戦闘員は、乱暴に言わなかった。
ただ、短く言った。
「人間だと分かって止まったんだろ」
「うん」
「それは、お前が教えられたことを守ったってことだ」
「でも」
「次にどうするかは、帰ってから訓練する。今は帰還だ」
レトは、唇を噛んだ。
「お兄さんのところ、行きたい」
「行ける。だが先に医療班だ」
「うん」
レトは頷いた。
泣きながら、それでも立った。
ロジーも救われた。
デバイスへの物理針は、技術班が切除した。
思考補助はすぐには安定しない。
ロジーは医療班の簡易ベッドで、毛布にくるまれていた。
頭上のデバイスは、淡い光を取り戻している。
だが、いつものような高速ホログラムは出ていない。
「私、ログ飛んだ?」
彼女は最初にそう聞いた。
記録整理官が、隣で答えた。
「一部、欠落があります」
ロジーの顔が歪んだ。
「やだ」
「ですが、私が覚えています」
ロジーは、彼を見た。
「ほんと?」
「はい」
「私、変なこと言った?」
「言いました」
「なに?」
「あなたはロジーです、と何度も確認しました」
ロジーは毛布を握った。
「そっか」
「はい」
「私、いた?」
「いました」
ロジーは、少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、あとで記録して」
「本人確認後、非公開分類で」
ロジーは、弱々しく笑った。
「ちゃんとしてる」
「情報班ですから」
その言葉で、ロジーはようやく目を閉じた。
地下司令室。
元幹部たちは、人間に戻っていた。
だからこそ、次の命令を出せた。
「第二段階を起動しろ」
元作戦局長は、震える手で端末を掴んでいた。
エルの魔法から戻された恐怖で、顔は青白い。
それでも、彼は止まらなかった。
証拠を消すため。
監理局を巻き込んで災害化し、すべてを混乱へ流すため。
自分たちの失敗を、災害のせいにするため。
元研究統括官も、同じだった。
「記録を破棄しろ。災害兆候が自然増幅したように見せる。監理局が介入失敗した形に――」
その時、部屋の照明が消えた。
非常灯が点くより早く、副長が立っていた。
金髪。
細身の長身。
いつもの薄い笑み。
場違いなほど、静かな姿だった。
「残念ですが」
副長は言った。
「すべて記録済みです」
元作戦局長が凍りついた。
「なぜ、ここに」
「空間分断魔術は、監理局拠点内では時間稼ぎになりました。しかし、外部司令室の遮断は甘い。あなた方は監理局の特殊人員ばかり研究して、監理班を軽視しすぎた」
副長の手元には、小さな通信端末があった。
上位委員会緊急承認。
表示は簡潔だった。
第六管制星系人為的魔力災害誘発事件。
指示者群による第二段階災害起動の即時危険を確認。
拘束不能、証拠破棄および広域被害拡大の恐れあり。
惑星監理局副長による先制排除を承認。
元研究統括官が叫んだ。
「待て、我々は星系のために――」
「いいえ」
副長の笑みは消えなかった。
「あなた方は、箱庭の娘たちをもう一度おびき出すために、人為的に災害を育てた。監理局職員を襲撃し、ロジーのデバイスに干渉し、レトの倫理教育を利用し、エルの反応を観測しようとした」
彼は一歩進んだ。
「そして今、証拠隠滅のために第二段階を起動しようとしている」
「拘束すればいいだろう!」
元作戦局長が叫んだ。
副長は、静かに首を振った。
「拘束術式を起動した瞬間、あなたの足元の端末が災害増幅を実行する。生命反応停止でも同じ。だから、停止手順を先に奪いました」
元作戦局長の顔が歪む。
副長は続けた。
「あなた方の仕込みは、もう無効です」
元研究統括官が後ずさった。
「なら、殺す必要は――」
「あります」
副長の声は、変わらなかった。
「あなた方は、戻せばまたやる。役職を変えても、権限を残した。更迭されたふりをした。謝罪も反省もせず、次の機会を待った。そして今回、実行した」
その目が、ほんのわずかに冷たくなる。
「監理局は、三度目を許しません」
微小な魔力針が、空気に生まれた。
肉眼ではほとんど見えない。
細く、静かで、無駄がない。
副長の暗殺術式。
怒りに任せたものではない。
叫びも、見せしめも、拷問もない。
承認。
対象確認。
周辺被害評価。
証拠保全。
退路封鎖。
そして、排除。
精密すぎる殺意だった。
元作戦局長が最後に見たのは、副長の笑顔だった。
「これは報復ではありません」
副長は言った。
「宇宙維持上の処理です」
針が走った。
数秒後。
地下司令室の指示者群は、全員沈黙した。
副長は、すぐに端末へ報告を送った。
先制排除完了。
第二段階起動阻止。
証拠記録保全。
周辺被害なし。
送信。
それから、副長は一度だけ目を閉じた。
感情はあった。
当然、あった。
レトが人間相手に止まることを利用したこと。
ロジーの壊れた脳を支えるデバイスへ触れたこと。
エルに、人間を嫌わせるような光景を見せたこと。
それらへの怒りが、ないはずがない。
だが、副長はその怒りを理由にはしなかった。
理由は、書類に残るものだけでよい。
彼は目を開け、いつもの笑みを戻した。
「局長」
通信を繋ぐ。
「こちらは終わりました」
少し遅れて、ジェレミーの声が返った。
「エルは止めた」
副長は、初めてわずかに息を吐いた。
「それは何よりです」
「レトとロジーは」
「救出済みです。医療班が対応中」
「死者は」
「監理局側、なし。外部実働部隊も生存。指示者群は、上位委員会承認に基づき排除しました」
短い沈黙。
ジェレミーが言った。
「戻れ」
「はい」
副長は通信を切った。
地下司令室には、もう命令を出す者はいない。
端末には、彼らが仕組んだ人為的魔力災害の全記録が残されている。
箱庭の娘たちを引きずり出すために、惑星を危険に晒した記録。
監理局職員を襲撃した記録。
レト、ロジー、エルの反応を観測対象として分類した記録。
第二段階起動による証拠隠滅計画。
すべて残る。
ロジーが見なくても。
ロジーが記録できなかった時間でも。
監理局が記録する。
副長は、最後に部屋を振り返った。
「理解したふりをするな、と言ったでしょうに」
その声は、誰にも届かなかった。
帰還後。
監理局の医療区画は静かだった。
レトは、包帯を巻かれてベッドの端に座っていた。
ロジーは隣のベッドで、デバイスの再同期を受けている。
エルは少し離れた椅子に座り、毛布を肩にかけられていた。
三人は、ほとんど喋らなかった。
職員たちも、無理に励まさない。
軽い言葉で終わる出来事ではなかったからだ。
ジェレミーが入ってくると、レトはぱっと顔を上げた。
「お兄さん」
声は小さかった。
ジェレミーはレトの前に立つ。
「よく帰った」
それだけで、レトの顔が歪んだ。
「わたし、人間って分かって、止まっちゃった」
「聞いた」
「職員さんたち、怪我した」
「それも聞いた」
「わたし、だめだった?」
ジェレミーは、即座に答えた。
「だめではない」
レトは、ぽろぽろ泣き出した。
ジェレミーは続けた。
「次にどうするかは訓練する。だが、人間だと分かって止まったことを、私は責めない」
レトは、泣きながら頷いた。
「うん」
ロジーが、毛布の中から小さく手を上げた。
「局長」
「ロジー」
「私、ちょっと分からなくなった」
「ああ」
「でも、戻った」
「戻っている」
「ログ、欠けた」
「補完する」
「私が記録できなかったのに?」
「監理局が記録した」
ロジーは、目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、私、消えてないね」
「消えていない」
ロジーは、デバイスの光を見上げた。
「そっか」
その声は、いつものロジーよりずっと静かだった。
最後に、エルが言った。
「ジェレミー」
ジェレミーは振り返る。
エルは毛布を握っていた。
「人間に戻した」
「ああ」
「でも、戻した人間は、死んだ?」
レトが息を止めた。
ロジーも目を開いた。
ジェレミーは、嘘をつかなかった。
「実働部隊は生きている。指示者は、副長が排除した」
エルは、しばらく考えた。
「人間として?」
「人間として」
「記録した?」
「した」
「理由も?」
「残る」
エルは、小さく頷いた。
「じゃあ、あたしが人間じゃないことにしなくても、止まる?」
ジェレミーは言った。
「止める」
エルは、その言葉を受け取るように目を閉じた。
「分かった」
その日、エルは泣かなかった。
レトは泣いた。
ロジーは少しだけ泣いた。
エルは泣かなかった。
ただ、眠るまでずっと、毛布の端を握っていた。
ジェレミーはその横にいた。
副長は少し遅れて医療区画に戻ってきた。
血はついていない。
服も乱れていない。
いつもの笑みもある。
だが、ロジーが彼を見て、小さく言った。
「副長、怒ってる?」
副長は足を止めた。
「怒っていませんよ」
レトが涙目で見上げる。
「ほんと?」
副長は、少しだけ笑みを深くした。
「手続きは済ませました」
ロジーは毛布を握ったまま、ぼそっと言った。
「それ、怒ってる大人の言い方だ」
副長は否定しなかった。
ジェレミーも何も言わなかった。
エルだけが、副長を見ていた。
「副長は、人間?」
副長は穏やかに答えた。
「ええ。困ったことに」
エルは少し考えてから言った。
「じゃあ、怒っても人間」
副長は、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに頭を下げた。
「はい。怒っても、人間です」
その言葉を、エルは覚えた。
事件後、第六管制星系維持組織は、上位委員会の直接監査下に置かれた。
人為的魔力災害の誘発。
監理局拠点への武力襲撃。
箱庭の娘たちへの計画的接触。
ロジーのデバイスへの物理干渉。
レトの倫理教育を利用した拘束。
エルの魔法反応を誘発する意図。
証拠隠滅目的の第二段階災害起動未遂。
それらは、政治問題では済まなかった。
組織は解体されなかった。
だが、中枢は切除された。
権限系統は監理局と上位委員会の監査下で再構築され、特殊存在に関する研究部門は閉鎖された。過去に提出された魔力生命体戦力資源化に関する全資料は、禁書管理担当と倫理監査主任の共同管理下へ移された。
監理局内部には、新しい研修項目が追加された。
人間を人間として止めること。
副長が作った項目だった。
講義の冒頭、彼はこう言う。
「敵が人間である場合、難易度は上がります。殺せないからではありません。殺すとしても、人間として扱わなければならないからです」
新人たちは、その言葉の意味をすぐには理解できない。
それでよい。
理解したふりをされるより、ずっとよい。
監理局は、記録を残す。
判断を残す。
失敗を残す。
震えを残す。
レトが止まったこと。
ロジーがほどけかけたこと。
エルが人間を人間ではないものにしかけたこと。
ジェレミーがそれを止めたこと。
副長が、承認を得て指示者を殺したこと。
全部、残る。
誰かを責め続けるためではない。
次に、同じことを繰り返さないために。
そして、箱庭の娘たちが人間を好きでいられるように。
硝子玉の宇宙は、今日も続いている。
その内側で、人間は間違える。
傷つける。
奪う。
嘘をつく。
合理性の名で誰かを壊そうとする。
それでも、監理局は人間を人間として止める。
箱庭の娘たちを兵器にしないために。
人間を怪物に逃がさないために。
エルが、人間を好きだと言える世界を、まだ終わらせないために。




