第36話. 動き
血のかさぶたにまみれた左腕をだらりと垂らしたまま、炉端に座っているエイナル。
マルタンは黙って立ち、彼を見つめていた。
『あのクソ野郎に何をさせようか。』
くたばった仇の名を持ち出して挑発してきた者を、一年間こき使える機会。
できることなら、最もきつくて面倒な仕事ばかりをさせるつもりだった。
ギィィ-
木の器を持って屋敷に入ってきたハサン。
彼はアルコールの臭いが充満した何かを、エイナルの腕に塗り始めた。
「おお、何かと思えばこれか。」
エイナルがハサンの手にある器を奪い取り、口元へ持っていった。
慌てた顔で彼を止めるハサン。
「それは塗るものだ。」
エイナルは躊躇しなかった。
ズズッ-
器の中の液体を一口飲み干すと、ハサンに空になった器を渡した。
「はぁ、これで少しは痛みが引いたな。」
ハサンはやれやれと首を横に振ると、エイナルの腕に包帯を巻き始めた。
しばらくして、包帯を巻かれた腕をゆっくりと振っていたエイナル。
彼はマルタンと目を合わせると、不思議そうな表情で尋ねた。
「少し目に生気が戻ったみたいだな? 俺との戦いが役に立ったのか?」
「確かに、役には立った。」
あの巨躯のノルド人に何をさせるか考えているうちに、妙な活力が湧いてきた。
「エイナル、まずはシモンとジャックを鍛えろ。」
正気かという顔で左腕を持ち上げるエイナル。
自分が患者だと知らせたいのか、包帯を巻かれた腕を振ってみせたが、マルタンは取り合わなかった。
「片手でも構わない。それくらい差がある相手だからな。」
エイナルはため息をつき、腕を下ろした。
「はぁ... やれってんならやるさ。」
彼はしばらくぼんやりしてから、マルタンへ顔を向けた。
「で、そいつら誰だ?」
ここに数日滞在していながら、いまだにシモンとジャックが誰なのか分かっていない様子。
「一緒に暮らしている者たちの中で、体の大きい二人だ。」
「体の大きい二人...?」
エイナルが眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
「大工と木こりのことか?」
マルタンが頷いた。
「その二人だ。」
エイナルはようやく状況を理解したような顔をした。
「その二人ならまあ。片手でも十分すぎるな。」
その言葉どおり、シモンとジャックを鍛えるくらいなら容易いこと。
マルタンは続いて、エイナルにやらせるべき別の仕事を思い浮かべた。
「ここの言葉も新しく覚えろ。」
エイナルが顔をしかめた。
「一年暮らすだけなのに言葉まで覚えろって? 鍛えるのは適当に体を動かしてりゃ済むだろ?」
「ここで何年暮らすことになるか分かるのか?」
マルタンは相手が反発する前に、そのまま言葉を続けた。
「ピエールならお前と多少は話が通じるから、彼から習えば楽だろう。」
エイナルが顔をしかめた。
「ピエール? それはまた誰だ?」
「...自分で探せ。」
今すぐエイナルにやらせる仕事は、この程度がすべて。
腕が治れば、もう少し多くの仕事をさせられるだろう。
***
エイナルとの戦いから数日後。
マルタンは再びポワイヤックを訪れたレスパールの城主代理を迎えた。
以前との違いといえば、アイマルを伴わず、わずかな人数だけを連れてきたことくらい。
マルタンはひとまず客人たちを屋敷へ通した。
「何か新しい知らせでもあるのか?」
「かなり大きな知らせですよ。公爵様を暗殺した黒幕が二人に絞られたようです。」
ベルトランが続けて口を開いた。
「黒幕として名が挙がっているのはサンチョ公とフェザンサックの伯爵で、そのせいでガスコーニュの情勢が非常におかしなことになっています。」
彼はしばし息を吸い込むと、続けて状況を説明した。
「他の大領主たちは息を潜めており、サンチョ公と中部の伯爵たちは互いに向けて戦争の準備をしているようでした。」
マルタンが怪訝そうな口調で聞き返した。
「今、戦争の準備をしていると?」
冬に戦争をするなど狂気の沙汰だった。
兵士たちは寒さに震え、日が短くて移動も難しいうえ、補給まで不便な時期。
敵が目と鼻の先にいるのでない限り、そんなことはあり得なかった。
「ガスコーニュ中部とボルドーは、そこまで近くないはずだが?」
「ええ、おそらく今すぐ戦争を始めることはないでしょう。暖かくなった時に備えた動きでしょうね。」
「早ければこの春か。」
マルタンは頷くと、再び口を開いた。
「知らせはそれだけか?」
ベルトランが声を潜めた。
「もちろん違います。アムール川の大領主たちを説得するという計画、覚えておられますか?」
支持勢力が一つもないアイマルのための計画。
後ろ盾だった公爵まで死んだのに、アムール川の大領主たちが狂ったわけでもあるまいし、アイマルに従うはずがなかった。
「それは当分、不可能なことじゃなかったか?」
「ええ、ですから今回説得する内容は少し違います。」
ベルトランが懐から羊皮紙を取り出しながら言った。
「彼らを我々の勢力に取り込むのではなく、他の勢力に属するのを阻止するのです。」
ガスコーニュのおおよその姿が描かれている地図。
ベルトランはそれを広げると、説明を始めた。
「サンチョ公と中部の伯爵たちの戦争。まだ暗殺の黒幕が明確ではない状況ですから、他の大領主たちも悩んでいることでしょう。」
彼の指が地図の左下を指した。
「前にもお話ししたアドゥール川の大領主たちが、その代表的な勢力です。我々は彼らが中立を宣言するよう、話し合う程度で構いません。」
ベルトランが慎重に言葉を付け加えた。
「...運が良ければ、彼らとかなり友好的な関係を築けるかもしれません。」
マルタンは頷いてから尋ねた。
「ガスコーニュの他の大領主たちは? 彼らを説得する必要はないのか?」
ベルトランが首を横に振った。
「他の者たちといってもピレネー山脈の大領主たちですが、彼らは名目上だけガスコーニュの封臣である者たちですから、関係ないでしょう。」
マルタンはベルトランが広げた地図を眺めた。
「そんな感じなら、ガスコーニュにはそもそも勢力が三つしかないのか?」
「大きく見ればそうです。メドックを除くジロンド川を押さえたサンチョ公、中部の伯爵たち、アムール川の大領主たち。このように分かれていると見て差し支えありません。」
「なんとなく分かった。」
状況は理解したので、重要なのはアムール川へ向かう日程だった。
「それで、いつ出発するんだ?」
ベルトランが彼をじっと見つめた。
「...いつがよろしいですか?」
「...?」
マルタンはどこか話が噛み合っていないことに気づいた。
「俺が決めるのか?」
「出発する者がほとんどいませんから。」
マルタンが眉をひそめた。
「レスパールの行列についていくものだと思っていたが?」
「本来ならそうだったでしょうが、今は小規模な使節団と伝令の中間のような形で出発することになります。」
ベルトランが使節団の人員を一人ずつ口にした。
「マルタン卿、エネコ卿、こちら側の書記が一人。そこに卿がお望みなら、一、二人ほど追加で連れていっても構いません。」
決まっている人員は三人。
そこに二人を加えたところで、五人がすべてだった。
「...それで終わりだと?」
「ええ、エネコ卿は覚えておられますか? 公爵様が卿をボルドーへ招待された際、遣わされた者の一人です。」
エネコという者といくつか取り留めのない話を交わした記憶はあるが、重要なのはそこではなかった。
「人数がそれだけなのに、なぜ俺が使節団に加わる必要がある? 他の者が行ったほうがいいだろう?」
ベルトランは当然のことを聞かれたとでもいうように、両目を瞬かせた。
「それは。卿がこちらの人物の中で一番有名だからですよ?」
「...俺が?」
「ええ、マルタン卿がです。」
ベルトランはしばらく考え込むと、言葉を続け始めた。
「城塞破壊者マルタンだとか、血塗れのマルタンだとか... まだ呼び名は統一されていませんが、メドックの話が出れば卿の名が真っ先に挙がります。」
どれもこれも、かなり物騒な異名。
戦争の少ない地域だからか、大袈裟に騒ぎすぎている気がした。
「そんな呼ばれ方をするくらいなら、なおさら俺は行かないほうがいいんじゃないか?」
ベルトランがきっぱりと首を横に振った。
「卿の名声がありますから、大領主たちはその好奇心からでも接見を許すでしょう。大領主たちの説得はエネコ卿が主導しますので、卿はただ黙って立って帰ってくればいいのです。」
マルタンはしばし考え込んだ。
どこか妙な役割を任されることになったが、仕事そのものは正当な外交任務なのだから、特に断る理由もなかった。
「出発する時期は俺が決めると言ったか?」
「ええ、早ければ早いほど良いですが。」
今すぐ出発しても構わないと言わんばかりのベルトランの眼差し。
いくらなんでも、すぐに領地を空けるわけにはいかなかった。
「レスパールに戻っていれば、すぐにそっちへ行く。一日二日あれば十分だ。」
ベルトランは安堵した表情を浮かべた。
「結構です。準備を済ませてお待ちしております。」
***
ベルトランが去った後、考えを整理したマルタンは庭へ出た。
まずは彼と共にアムール川へ向かう者を決めなければならなかった。
「一、二人ほど追加で連れていってもいいと言っていたか。」
マルタンは庭で一番騒がしい場所を見やった。
「うわあ~!」
穂先のない槍でシモンとジャックをぶん殴っているエイナル。
彼は片腕が使えないうえ、他の者たちと言葉も通じず、人の三、四倍は軽く平らげる人間だった。
『あいつ以外なら誰でもいいな。』
続きが気になる方は、下のリンクから先行公開分をぜひチェックしてみてください!
第55話まで先行公開中です!
▼ 続きはこちら
https://chuusei.booth.pm/




