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寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第二話 剥がれた蓋

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

敗報の紙は、軽い。

軽いから浅いわけではない。 むしろ逆だ。 悪い報せほど、紙は薄い。 書くべきことが少ないからだ。

吉田、落つ。 牧野、降る。

それで足りてしまう。

寿桂尼は、その紙を朝の光の中で見ていた。

庭は白い。 白いまま、何も言わない。 だが紙の白は違う。 書かれれば残る。 残るものは、庭より重い。

深雪が墨を磨っていた。 低い音は、言葉が少ない日の音だ。 言葉が少ない時ほど、場は重い。

     *

氏輝は早く政所へ入ってきた。

座にも慣れた。 紙の重さも知っている。 だが、知っていることと、見誤らぬことは同じではない。

氏輝は席に着く前に、紙へ目を落とした。 それから一度だけ庭を見た。 白い。 白いままでいるものがあるから、人はその前で崩れずに済む。

「吉田か」

寿桂尼は頷いた。 「はい」

氏輝は紙を取り、折り目を伸ばし、すぐに読み終える。 読み終えても、すぐには置かなかった。 軽い紙は、手に残る。 軽いまま、重い。

氏広が先に口を開いた。 「剥がされましたな」

城が一つ落ちた、と言わない。 氏広らしい言い方だった。

吉田は、城である前に蓋だった。 蓋があるうちは、東三河の息はその内にこもる。 だが蓋が剥がれれば、向こうの風はそのままこちらへ来る。

氏輝は紙を机へ置いた。 「敵ではあった。牧野と戸田が外れた時点で、もう今川の外を噛んでいた」

「だが、ここまで早く東三河の蓋を剥がしに来るとは見なかった」

言い訳ではなかった。 見積もり違いを、そのまま口にしていた。

泰能が静かに言った。 「西三河で止まるやもしれぬ、とご覧になったのでございましょう」

「そうだ。三河といえば松平。だが実際は一枚ではない。くっついたり離れたりする。今回もまた、その程度で終わるかもしれぬと見た」

そこが誤算だった。

氏広が低く言う。 「しかも吉良の名がございました」

吉良。 その名が上にあるかぎり、清康はただちに斬るべき賊とは見えにくい。 しかも吉良には、氏輝の姉が入っている。 血の内にある縁は、刃を抜きにくくする。

寿桂尼は、その「刃を抜きにくくする」という言葉を、胸の内で一度だけ止まった。

縁は、結んだ時には正しい。 吉良との縁も、氏親が置いたものだった。 だが今、その縁が清康を見えにくくする盾になっている。

昨日、寿桂尼は「縁は兵より長い」と氏輝に言った。 長い縁は、長く効く。 だが効き方が変わっても、長く残る。

縁の怖さは、切れないことだ。

「吉田まで来た以上、もう三河の内の話ではない」

氏輝は庭を見た。 今朝の白は、少し遠く見える。 遠く見えるということは、考えることが増えたということだった。

「では、次だな」

その一言で、場がようやく後悔から離れた。 氏輝は誤算を認めている。 だが、認めたまま座に沈むつもりはない。 そこは当主だった。

「どこを締めます」

氏広が問う。

「宇津山だな。湖の北を太らせる。兵を入れる。だが兵だけでは足りぬ」

泰能が頷く。 「耳にございますな」

「そうだ。湖上も、今切も、寺も、先に聞けるところを太らせる」

よい。 ただ兵を足す話にはしていない。 風は、先に聞かなければならない。

「掛川からも結び直します」

結び直す。 その言葉に、寿桂尼は少しだけ目を伏せた。 氏親がよく使った言葉だった。

蓋を失えば、次の結び目を太らせるしかない。 国は、そうやって持たせるものだった。

「口を締め、耳を太らせることにございます」

寿桂尼は静かに言葉を添えた。

寿桂尼は帳面を開いた。

――吉田落城。牧野降伏。東三河の蓋、剥がる。 ――宇津山へ増員。浜名へ注意。 ――湖上、寺筋、今切口の報せ、太らせること。

「見積もり違えたことは、内でよろしゅうございます」

寿桂尼はそこで言った。

「外へは、そう見せぬほうがよろしゅうございます」

氏輝は少しだけ苦く笑った。 「母上は、こういう時だけやさしくない」

「やさしゅうございましたら、次でも誤りましょう」

「分かった」

少し間を置く。

「吉田は落ちた。だが、次は落とさぬ」

寿桂尼は、その一言を胸の内で受けた。 城一つを失っても、言葉まで落としていない。

     *

人が引いたあと、寿桂尼は帳面の端に短く書いた。

――敵にあり。 ――ただし、よくある三河の伸びと見積もりしこと、誤算なり。 ――縁の盾、効きすぎたり。

三行目は、落とすべきか迷った。 だが落とさなければ、次の者が同じ誤算を繰り返す。 寿桂尼は、その一行を残した。

書いてから、廊の向こうで小さな足音が止まった。

「尼御台様。彦五郎様の御前にて、今朝も薬を戻されたとのことにございます」

場が、ほんのわずかに静かになった。

「下がりなさい」

寿桂尼はそうだけ言った。

北の火。 東の風。 そして、家の内。

国は外だけでは崩れない。 内から細ることもある。 その細りは、たいてい最初は小さい。

寿桂尼は、帳面にもう一行だけ書いた。

――内、まだ言葉にならず。

外の誤算は、認めれば次へ進める。 だが内の細りは、認めることすら難しい。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。



本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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