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寿桂尼物語 第八章 断たれた継承 第一話 北の火、都の糸

本作は、石田源志による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。

北から来る紙は、乾いている。

熱を持たない。 けれど冷たくもない。 乾いている。

乾いた紙は、火に近い。 火はまだ見えぬ。 だが、近いところにある。

この朝、寿桂尼の前には二つの紙があった。

一つは北。 一つは都。

どちらも軽くはない。 軽くないものが並ぶ朝は、たいてい忙しい。

深雪が墨を磨っていた。 速い音は、書くことが増える日の音だ。

     *

氏輝が入ってきた。 座る前に北の紙へ目が行く。 若い当主が、まず火の近さを見るのは悪いことではない。 悪いのは、それしか見えなくなることだ。

氏輝は席に着き、一度だけ二つの紙を見比べた。 前よりよい。 並んでいるものを、並んだまま見ようとしている。

北の紙を読み終えて、氏輝は言った。 「まだ、踏み込んではいない。だが、近い」

「試しておりましょう。こちらの目が、どこまで届くかを」

寿桂尼はもう一枚の紙へ手を置いた。 「こちらは、京にございます」

氏輝が見る。 「今か」

「今にございます。火が近い時ほど、糸を細らせてはなりません」

氏輝はそこで黙った。 火と糸。 兵と縁。 どちらを先に見るかではない。 どちらも同じ場に置く話だと、そこまででようやく分かる。

「中御門の甥は、駿府に留まっております」

寿桂尼は続ける。

「留まっているだけでは、まだ糸にはなりません。きちんと場所を与えねば、いずれ都へ戻ります」

「屋敷を整えます」

氏輝は一度だけ眉を動かした。 「そこまでいたしますか」

「いたします。都の方が駿府においでになるには、まず場所が要ります。屋敷が整えば、座ができます。座が出来れば、人が寄ります。人が寄れば、縁になります」

「甥は、受けるか」

「受けましょう。こちらは他家ではございません。血の内の話にございます」

氏輝は、そこでようやく小さく息を吐いた。

「妹を合わせますか」

寿桂尼はすぐには答えなかった。

次女のことだ。 氏親が中御門と縁を結んだ時、寿桂尼はその縁の意味を政として受け取った。 都の糸を駿府に置く。 その結び目として、自分は今川へ来た。 その縁が今、次の世代へ渡ろうとしている。

渡すことは正しい。 だが渡すものが、自分の娘だ。

「合わせます」

そうだけ言う。

「屋敷を整え、座を整え、そのうえでございます」

「場所がなければ、縁もまた軽くなります」

深雪の手が、そこで一度だけ止まった。

「父上なら、迷わなかっただろうな」

「氏親様は、道を結ばれる方にございました。海も、陸も、寺も、都も」

氏輝は苦く笑った。 「私はまだ、火を見るとそちらへ目が寄る」

「それでよろしゅうございます。ただ、火ばかりをご覧になりますと、糸が切れます」

「なぜだ」

「火は、その時だけにございます。けれど縁は、火のあとにも残ります。残るものが多ければ、国は痩せませぬ」

「兵より長いか」

「長うございます。格と縁は、兵より長うございます」

氏輝は都の紙へ手を置いた。 「なら、進めるか」

「はい」

氏輝は言う。 「妹は、よいのか」

寿桂尼は、その問いにすぐには答えなかった。

娘である。 駒ではない。 駒ではないが、娘であるからこそ置ける場所もある。

氏親もそうだった。 寿桂尼自身も、そうだった。 娘もまた、そうなるかもしれない。

「よい、ではございません」

氏輝が顔を上げる。

「けれど、そうするほかございません時もございます」

氏輝は、その短い答えをそのまま受けた。 「分かった」

「北は」

「形を崩さぬ。火にしない。だが、備えは解かぬ」

よい。 少しずつ、自分の言葉になり始めている。

     *

昼過ぎ、寿桂尼は自ら前へ出た。

中御門の甥は、声の低い男だった。 低いが、弱くはない。 都の者にしては、こちらの空気をよく読んでいる。

「駿府にてお過ごしになる間、不自由のないよう屋敷を整えましょう」

それだけで、話の骨は足りた。

甥は、少し目を伏せ、静かに頭を下げた。 「恐れ入ります」

それだけだった。

寿桂尼は、その頭の下げ方を見ながら思った。 この男は、ここへ根を下ろすかもしれない。

縁が深ければ、根は下りる。 根が下りれば、糸は太くなる。 太くなった糸は、切れにくい。

帳面には落とさなかった。 落とせる言葉ではなかった。

     *

夕刻、氏輝が戻ってきた。 「どうだ」

「結べましょう」

「忙しいな」

「忙しゅうございます」

「父上は、これをいつも同じ顔でやっていたのか」

「同じ顔に見せておられたのでございましょう」

氏輝はそこで苦笑した。 「なら、まだ私は足りぬな」

「足りぬことにお気づきでしたら、それで十分にございます」

     *

人が引いたあと、寿桂尼は帳面に書いた。

――北の火、まだ紙の内。 ――都の糸、駿府に置く。

娘のことは、帳面に落とさなかった。 落とせば、政の言葉になる。 政の言葉にしてしまえば、それ以上のことは言えなくなる。

縁は、人の生き方ごと引き寄せることがある。 今日、駿府に置き直した糸が、この先どこまで伸びるかは分からない。 分からないまま、置くしかない時がある。

それが政であり、それが母であることでもあった。

寿桂尼は帳面を閉じた。 閉じたということは、次が始まるということだ。




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

今川クロニクル『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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