第12話 ゲルハルト伯、悩む
『ヴァルゼン公家歴10年 9月下旬 ドラッヘンブルク 晴れ』
【カレドン侯後見人ゲルハルト伯視点】
領土の多くをヴァルゼン公に切り取られ、昨日まで忠誠を誓っていたはずの貴族たちが寝返ってから、我が主君、ライナルト様は変わってしまわれた。
玉座の間には、昼間から酒瓶が転がり、若い君主は虚ろな目で杯を重ねるだけの日々。
「もう終わりだ……父上の代で築いたものが、全て……!」
何度諫めても、その言葉はもはや若き主君の耳には届かない。
このままでは、カレドン家は滅びる。ヴァルゼン公に攻め滅ぼされる前に、内側から腐り落ちてしまうだろう。
(……もはや、一刻の猶予もない)
私、ゲルハルト・フォン・カレドンは、自室に戻ると、一人静かに羊皮紙を広げた。
目の前には、解決すべき問題が山積している。
一つ、主君の立て直し。まずは医師と相談し、これ以上の飲酒を止めさせねば、話にもならぬ。
その日の夕刻、私は城内に詰めていた侍医ベルンハルトを呼び出した。
厳格な顔つきの中年医師は、いつも通り淡々と、しかし重い口調で語った。
「侯は、肝が腫れておられます。酒の摂りすぎです。しかも、昨夜は……一晩中、熱が下がらなかったと、侍女が」
「熱だと?」
「感染症でしょう。近衛の兵も、数名が似た症状で寝込んでいます。……このままでは、冬が越せぬかもしれません」
私は、無意識に拳を握っていた。
「断てるか? 酒を」
「……伯が説得できぬなら、もはや誰にも止められぬでしょう。民も、病に怯えています。『侯の呪いだ』などと口にする者すらおります」
その言葉は、刃のように私の胸へ突き刺さった。
(――このままでは、疫病で滅びた家として歴史に名を残すだけだ)
二つ、領内の結束。離反しなかった者たちをまとめ、荒れた民心を落ち着かせる必要がある。
そして、三つ。台頭著しい、あの男への対応。
「……グレン男爵、か」
ただの雑兵上がりが、今やヴァルゼン公国の東の守り手。あのヴァルゼン公が酒を酌み交わすほど、信頼を置いていると聞く。
先の戦で降伏した貴族たちは、今やあの男を通じてヴァルゼン公と繋がっている。事実上、あの男が国境地帯の新たな支配者だった。
私の元へ密かにもたらされる報告によれば、グレンフィルトの発展は恐るべき速さだという。
急ごしらえの土塁は石垣で補強され、粗末な丸太小屋は次々とレンガ造りの家々へと姿を変えている。ダリオ商会の者どもが我が物顔で出入りし、新たな街道の整備まで始まっている、と。
こちらが疫病と内紛で身動きが取れぬ間に、あの男は着々と、国境に新たな牙城を築き上げているのだ。
(あの男をどう見るかで、我がカレドン家の未来は決まる)
正面から敵対するには、あまりに無謀。かといって、無策でいれば、いずれはじわじわと追い詰められるだけだ。
私は、最悪の事態を想定し、もう一枚、新しい羊皮紙を取り出した。
万が一の時のための、「保険」だ。
羽ペンをインクに浸し、ご機嫌伺いの体裁をとりながら、慎重に言葉を選ぶ。
そして、文面の最後に、重要な一文を書き加えた。
(これが役に立つ日が来なければ、それに越したことはないのだが……)
書き終えた書状を、私は静かに封蝋で閉じた。
それは、カレドン家の誇りを預かる者として、決して使いたくない最後の一手。
もし、万が一、ドラッヘンブルクが降伏を受け入れる日が来たならば、城門には白旗ではなく、『白と赤の旗』を掲げる、と。
グレン男爵個人に宛てた、密約の書状だった。
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