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第15話 ウサギのいる夜

 あのあと、体感で5分近くぎゃんぎゃん泣き続けたバニラは、今ではさも当然のように俺の部屋着に身を包み、上機嫌に兎耳を揺らしながら俺の膝の上で適切な音量のテレビを観ていた。


「えへへ」


 度々こちらを振り返ってはこうして笑っている。

 なにがそんなに嬉しいのか、いつこんなに懐かれたのか、バニラのことはまだよくわからないが、かわいいので気にしない。


 ふと時計を見ればすっかり晩飯時。


 1週間と数日にも及ぶ入院生活を送るより前は、栄養バランスなど考えもせず、その日の気分次第で弁当や惣菜を組み合わせたりもしたが、手頃な価格で美味しく味わえる菓子パンが主食だった。


 しかし、今日からはバニラがいる。

 節約をするという意味でも一度食生活を見直す必要がある──のだが、生憎と今この家に食べられるものはない。全部バニラが食べ尽くしている。

 『悪食』がある俺なら生ゴミなりなんなりで空腹を満たせたが、やはりバニラがいる。


 今から買いに行ってもいいが、どうせなら美味しいものを食べさせてやりたい──ということで、バニラと共にファミレスに来た。


 物珍しそうに店内を見回すバニラ。

 席へ案内されれば興味の対象は卓上のものへ移り、「この中から何でも好きなのを選んでいいよ」とメニュー表を手渡せば、今度はそれに熱心に視線を這わせる。


「ステーキか……ハンバーグか……」


「そのどっちかで迷ってるのか?」


「はい……どちらも美味しそうで……」


「なら俺が片方を頼むから半分こしよう」


「かなたさん……! もしかして天才ですか……!?」


 そんなやり取りを経て注文したのは、肉厚のステーキと巨大ハンバーグ、もちろんライス付き。醤油ガーリックソースとデミグラスソースの濃い香りが胃をざわつかせる。バニラなんか目にした瞬間にごくりと生唾を飲み込んでいた。


 約束通りステーキとハンバーグを2つに切り分け、半分にしたそれを交換する。


「いただきまーす!」


 言葉だけではなく手まで合わせる律儀なウサギ。

 現代社会においてここまでする人間がどれほどいるだろうか。一人暮らしだった頃は、無言で食べ始めて無言で食べ終わる──そんな有り様だったことを思えば、ここまで礼儀正しく振る舞えるバニラには感心せざるを得ない。


 俺は、日本人どころか地球の人間ですらないバニラに倣って「いただきます」と呟き、切り分けたステーキを口にした。


「……!!」


 温かい、というか熱い。


 味の薄さの代わりに患者の栄養バランスと健康面に特化した病院食では得られなかったものとは何か。それは美味しさだ。


 温かいのは病院食もそうだったが、そこに美味しさは皆無だったと言ってもいい。むしろ中途半端に温かいからより無機質に感じられるほど。


 これは熱いほどに温かくて、それでいて美味しい食事だ。そこからは、病院食では得られなかった心の栄養を摂れる。


「うまい」


 きっとオーガとの一件がなければ、俺は心も体も健康になれていたことだろう──と、オーガへの憎しみを噛み締めながらステーキを味わう。

 壊滅的な『悪食』生活もこの感動に拍車を掛けている。


 ちらりとバニラを見遣れば、満月のように両目を見開き、思わず叫び出したくなるほどの衝動を、全身をギュッと絞るように縮めてプルプルと震わせることで噛み殺し、独り甘美な味わいに酔い痴れていた。


 せっかくの至福の時間を邪魔するまいと、父性だか母性だかに綻ぶ頬を美味に蕩けさせながら食べ進めようとしたその時、正気に戻ったバニラが独り言のように言葉を漏らした。


「よく、誰かと食べるごはんは美味しいって耳にしますけど、本当にその通りでした。かなたさんと食べるごはん、とっても美味しいですっ!!」


「ああ、そうだな。俺も久しぶりに美味しいと思えたよ」


 そう言うとバニラは「えへへ」とはにかむように笑い、再び夢の世界へと戻っていった。

 なにがそんなに嬉しいのか、楽しいのか──なぜこんなにも心を許されているのか、まだよくわからないけど、俺も大概そうだから気にできない。







「ただいまもどりましたぁ〜」


 デザートまで律儀に頼んだバニラは帰宅するなりベッドに飛び込み、右に左にと転がった。それが俺のベッドであることは言うまでもない。


 時刻は20時40分。


「バニラ、先に風呂だ」


「え〜、ゆっくりさせてくださいよ〜」


「早くしなさい」


「むー、わかりましたよ、おとうさん」


 ベッドから転がり落ちたバニラはむくりと起き上がり、服を脱ぎ散らかしながら風呂場へと姿を消した。


 頭を抱えるフリをして目を逸らしたが、割と本気で頭を抱えたい。


 ガサツというかズボラというか、自分が女であるという意識が致命的に足りていない。

 平然と俺のパンツを穿いていたのもそうだが、風呂の勝手もわかってそうだったから、十中八九ボディタオルも俺のを使ってる。おそらく歯ブラシとかも。


 『悪食』があるからと、誰が何をしたかも分からないものを──たとえば菓子パンの包装のような、誰が何を触ったかも分からない手で──トイレをした後に洗わなかった手で触れたりしたかもしれない、そんなものを口にしたりしている俺は、その辺りの感覚が鈍い。

 『悪食』の効果が及ぶ消化器系とは関係のない、体表を洗うボディタオルのようなものにしても、そんなよく分からないものを口にできるのなら──と、気にしない節がある。


 だから、それが俺のものなら全然構わないが、この調子で他の誰かに接されて、変な問題を起こされたりしても困る。


 あとできちんと話し合わなければ。


 バニラが風呂に入っている間、特にすることもない俺はそこでようやく部屋の惨状に目を向けた。


 家を出る前に防犯の観点からベランダの窓ガラスだけはガムテープで塞いだが、バニラが出したゴミはそのままだし、ガラスの破片も全部は掃ききれてない。

 なんせ、疲労困憊での帰宅直後、飛び付くように抱き着かれてぎゃん泣きされ、以降は甘えん坊になってしまった寂しがり屋ウサギをあやすのに手一杯だったから。


 俺はまだまだ余裕で痛む体を酷使し、バニラが風呂を上がるまで部屋の掃除に勤しんだ。







「ふい〜、いいお湯でしたぁ〜……ってあれ? お部屋が綺麗になってます。かなたさんがやってくれたんですか? ありがとうございます!」


「……っ、あのな、お前な、服ぐらい着ろよ」


 バスタオルで頭を拭きながら現れたのは全裸のバニラ。


 最初はもちろんドキッとした。

 でも一人暮らしをする前──まだ両親と姉と、家族みんなで暮らしていた頃、姉がこんなんだったのを思い出して、その姿と重なってしまった。


 俺の視線はバニラに向いたままだが、そんな経験によりバニラの大切な部分は意識からシャットアウトされている状態のため、残念ながら何も感じない。

 セルフモザイクである。

 我ながら優秀なフィルターを持っているものだ。


「かなたさんならいいかなと思いまして」


「買った下着はどうしたんだ?」


「ありますよ。面倒臭いので着けてませんけど」


「わざわざ取りに戻るぐらいお気に入りなんじゃないのか」


「まあそうですけど、取りに戻った理由の大半は、お金のないかなたさんがわたしのために買ってくれたものだったからですよ。だからなんというか、着けるのがもったいなくて。このまま大事な宝物としておいておきたい……みたいな?」


 俺は不理解の目で訴える。


「わかりましたよぅ……着ければいいんですよね、着ければ。かなたさんがお望みならわたしはそうします。きちんと覚えておきますからね。かなたさんは裸より着てる方が好きって」


 バニラはぶつくさ言いながらも紙袋を漁る。

 俺は通知音を鳴らすスマホに視線を落とした。


「はい、着けましたよ、かなたさん。みてください!」


 何もおかしいことはない、これは普通のことだ──そんな普段通りのなんてことない語調のせいか、見ちゃダメだろと言うより早く、思うよりも早く、条件反射的に見てしまう。


「……ッ!!」


 シャットアウトされていた部分が彩られていた。

 裸では見えなかった部分が、下着によってようやく目に見えた。

 それはバニラの瞳の色と同じ、桃色だった。


 俺の部屋着はバニラには大きい。着回して生地が弛んだパーカーも大きかった。だからあまり分からなかったんだ。体のシルエットが。


 腕は細く、腰も細い、足は長く太いところは太い。

 しかし胸部や臀部は女性らしい丸みを帯びている。

 風呂上がり故か仄かに朱色の差したきめ細やかな白い肌が、柔らかく鮮やかな優しい桃色に強調され、より蠱惑的に艶やかな色を放っていた。


「──服も着ろ!!」


 俺は一頻り堪能してからそう叫んだ。







 時刻は23時ちょうど。

 あれからみっちりバニラに常識を叩き込んだ。

 頭から煙を噴いてパンクしそうになるまで徹底的に。


 ならもう教育は終わったのかと言えばそうではない。

 バニラは今も勉強中だ。夢の中で。

 いわゆる睡眠学習という奴である。

 きちんと整えたベッドの上で質の高い眠りについている。


 俺は湯船に浸かりながら明日以降に思考を巡らす。


 色々ありすぎて明日を憂鬱に思う暇などなかった。

 土日はバニラの身元について東奔西走しなければ。

 月曜からはまたいつも通り学校に行きバイト三昧。


 笑みが浮かび溜め息が漏れるほどの目まぐるしさ。


 ただ、それも悪くないと思える。


 どんなに疲れて帰っても、家で誰かが待っている。

 あんなおばかウサギにはねぎらいの言葉もいたわりの行動も期待してないけど、家にいて、帰りを待っていてくれるというだけで、頑張ろうと、日々を懸命に生きようと、そう思えてくる。


 きっと俺はバニラに負けず劣らずのバカなんだろう。


 それでいい。そんなもんでいい。


 金がない金がないと張り詰めていた。切り詰めていた。

 財布に余裕がなかった。心にも余裕がなくなっていた。


 心身に溜まった不純物が湯船に溶けていく。


「いいな、いいな、人間っていいな」


 そう口遊む脳裏には、とあるウサギがいた。


 そいつは地球の人間じゃない。

 モンスターが蔓延るダンジョンからやってきた、人型をしているだけの生き物。

 俺達地球人類はそれらをまだ人間と定義していないが、少なくとも俺は、そいつをひとりの人間として見ていた。

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