第9話 混乱
「かなたさーん」
呼ばれて振り返ればバニラが手を振っていた。
その傍らには先ほどの女性店員。
「採寸は済ませましたけど、ブラ──下着類をお持ちでないとのことでしたので、お連れ様に似合いそうなものを2、3着ほど見繕わせていただきましたが、よろしかったでしょうか?」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
できるだけ店内を見ないようにレジへと向かう。
女性用下着店に土足で踏み入るのもそうだけど、ここはなんだか、俺が見てはいけない空間のように思える。妖精の花園を侵すゴブリンの気持ちだ。
他の客も男がいればそれだけでゆっくり商品を選べないだろうし、その程度の気を使うことぐらいしか俺にはできない。
「ありがとうございました〜、またのご来店をお待ちしておりま〜す!」
テキパキとスムーズに会計を済ませ、バニラを伴ってそそくさとその場をあとにした。
たったこれだけで1万円以上もの出費。他人事ながら女の人は大変だなと思う。下着なんていう、普段見えない場所にまで気を遣い、丁寧に着飾らなければならないのだから。
「あとは最低限の日用品……歯ブラシやコップ、皿の類いはいいとして箸──は使えるのか分からないからフォークかスプーン、ボディタオルにバスタオル、敷き布団は予算的に無理だから一先ず枕だけ。他になにか必要なものはあるかな……」
そんな思考を巡らせていると、空気が変わった。
違和感を抱いたその直後、遠くから悲鳴が響いた。
道行く人々──もちろん俺達もそちらに振り向いた。
最初の悲鳴を皮切りに、ふたつみっつ、よっつ、いつつ、むっつ──と次々に悲鳴が増えていく。増えていきながら、近付いてくる。ただならぬ様子に、事態も把握しないまま人の波が翻る。
「良くわからないけど、俺達も逃げるぞ」
「は、はいです」
◆
流れ出すようにショッピングモールから脱出した俺とバニラは、ざわざわとうるさい人混みから離れたところでショッピングモールを振り返った。
「…………あれ?」
警報が鳴っていないから火事の類いではないようだが、だとしたらあの混乱はなんだろうか。万引きや強盗、痴漢や喧嘩でもないだろう。だとすれば、通り魔でも出たのか。
「…………な、ないです」
なんにせよ、こんなことになってしまったら買い物どころではない。日用品は他のところで買わないと──そう判断してこの場をあとにしようとしたその時、ざわめきの中、人混みの喧騒に紛れて聞き覚えのある声がした。
「いやいやダメだって、なに言ってるのうさみん! 武器も防具もないのに戦えるわけないじゃん! あったとしても今のうさみんじゃ敵わないって!」
「ねえ早紀、放して! そんなのやってみないとわからないじゃない! 私だってこの前の探索でちょっとは強くなってるわ! こうしてる間にも逃げ遅れた人達が理不尽な暴力に襲われてるのよ!? どんなに微力でも、戦える力を持った私が、こんなところで他人任せに突っ立ってるわけにはいかないの!」
あれは──
「宇佐美さん、木崎さん」
「あ! 七篠さん! ちょうど良かった! うさみんを止めるの手伝ってください!」
「その前に、中でなにがあったの?」
「ダンジョンが……! 何の前触れもなく突然ダンジョンが発生したんです! モンスターがいっぱい溢れ出てきて、だからそれでうさみんがあの中に戻ろうとしてて……!」
前触れもなくダンジョンが発生した?
そこからモンスターが溢れてきた?
つまり、第1段階の亀裂をすっ飛ばして第2段階の拡張へ至り、即座に第3段階──氾濫に?
あり得ない。そんなの、聞いたことがない。
でも、こうなっているってことはそうなんだろう。
なら、取るべき行動はたったひとつだ。
「ダメだよ、宇佐美さん。これがもし本当に氾濫なら俺はもちろん、宇佐美さんの手にも負えない。アウルベアなんかとは比べものにならない脅威だ。いくら探索者だからって、できることとできないことがある」
「で、でもっ! だってっ……!」
第2段階と第3段階の間には大きな壁がある。
なぜ第2段階のダンジョンが第3段階へと移行するのかと言えば、それはダンジョンの均衡が大きく乱れたからだ。強力な個体や勢力のような、ダンジョン内のバランスを破壊する何らかの要因が発生したから。
つまり第3段階──氾濫で地球上に溢れ出てくるのは、存在するだけで生命の危機を感じさせるほどに常軌を逸した〝それ〟に適応できず、その環境から逃げ出さざるを得なくなったモンスターだ。
出現するモンスターにより、ダンジョンにはランクが設けられている。それが意味するところは、ある程度の上下、強弱こそあれど、生息しているモンスターにはそれほど大きな力の差がないということ。
あるモンスターがその圧倒的な存在感を察知し、本能的に逃げ出してしまうほどの脅威を感じれば、他のモンスターも同様の感覚に陥る。
そのため、氾濫するのはダンジョンに生息するほぼ全てのモンスター。
ショッピングモール内に出現したダンジョンのランクがどれほどなのかは知らないが、たとえGランク相当のものだったとしても、アウルベア1体に苦戦していた俺や宇佐美さんが、この災害とも呼べる波濤に太刀打ちできるはずがない。
「──だからって、見殺しになんてできない! 何もできないのはもう嫌なのっ!! 私は、ダンジョンとかモンスターとか、そんな意味のわからないものに理不尽に大切なものを奪われる人を少しでも減らすために探索者になった!! ここに……あそこに、私の生きる理由がある!! あれが私の存在意義なの!!」
「宇佐美さん……」
「うさみん……それでもダメだよ……うさみんに何があったかは知ってる……でも、だからこそわかるはずだよ。うさみんにとって私はなに? 私にとってのうさみんは──なにか、わかる?」
「──う、あ……それ、は……それ……は……」
「うさみんが死んじゃったら私悲しいよ」
「…………」
宇佐美さんは俯いて唇を噛み、涙を堪える。
木崎さんはそんな宇佐美さんを抱き締めた。
過去に何があったかはわからない。でも、見知らぬ人を救うため、大切な人を悲しませては意味がない。
見知らぬ誰かより、大切な人。
誰だって大切な人を選ぶ。俺だってそうする。
ともあれ、宇佐美さんはもう大丈夫そうだ。
俺はそっとその場を離れる。
「……あれ? バニラ?」
バニラがいない。
「…………あ」
宇佐美さんと木崎さんの元へ向かった時に逸れたんだ。
「あの、すみません!」
俺は近くにいた人に声をかけた。
「ニット帽を被った白い髪の女の子を見かけませんでしたか!? ダボダボのベージュのパーカーにピタピタのジーンズを穿いていたんですけど……!」
「あぁ、その子ならあの中に戻って行ったよ。ないないって、何か失くしたみたいな様子で」
「なっ──」
なんでとめねぇんだよ──なんてことないようにそう言ってのけるこの人に腹が立つが、怒っている場合じゃないし、そもそも悪いのはバニラから目を離した俺で、この人に怒りの矛先を向けるのは筋違いというもの。
「──ああ、クソ……!」
宇佐美さんはとどまったのに。
◆
ない。ない。ない。
かなたさんに買ってもらったものがない。
きっと、人混みに紛れて逃げてくる時に落としてしまったんだ。
かなたさんはお金がないと言っていた。
わたしが屁理屈を捏ねてあのままあの家に居座ろうとした時、ならせめていくらかはお金を稼いでくれと言った。そうしたら出ていかなくていいと言ってくれた。
かなたさんにはお金がない。
お金がないのに、わたしのためにお金を使ってくれた。なけなしのお金を、わたしがかなたさん達みたいに普通に生活できるようにと使ってくれた。
わたしがそうしようとしたように、追い出すことだってできたはずなのにそうせず、わたしがあの家に住むことを認めてくれた。
そして、かなたさんはわたしに名前をくれた。
かなたさんはわたしに家と名前をくれた。
人間の世界に来るまでの記憶はない。
どこで産まれて、どんな名前で、どう生きていたのか、何も憶えていない。でも、こんな気持ちになったのは初めてだった。何も憶えていないけど、それだけは断言できる。
「かなたさん……」
わたしは、かなたさんが買ってくれたあたたかい帽子を落としてしまわないよう目深に被り、来た道を引き返した。




