第七章 最後の審判
音が消えた。
つい先ほどまで爆音が響き渡っていたこの地は、嘘のように全てが遠のいて聞こえている。
膝をつくその亡骸は、テュール継承者だった。一瞬にして死亡は確定したのだ。
肉体は崩れ落ちず、ただ静止しているのみ。
戦の神は、戦の最中に第三者によって命を落としたのだった。
エイルは理解できず、咄嗟に未来視を使った。
― 見えなかった、何も。
世界樹の枝も、分岐も何もかも無かった。
思い足跡が響いた。
それは急がず、確実に意思はなかった。
背丈は2mほどの、人の体を保ちながらも獣の輪郭を持つ影は、鋭い牙から血を滴らせていた。
フェンリル…その瞳には、怒りも歓喜もなかった。
ただ、暗闇しか見えなかった。
エイルは震える足腰を無理やり動かし、傷だらけの手でグングニルを握った。
未来は見えなくとも、エイルには分かっていた。
これが本当の終焉なのだ。
終わらせる者は、着実に攻撃するチャンスを伺っていた。
「自分が正しいと思って、いままで剪定をしてきたが…意味はあったのだろうか?他の皆の思い描く終焉ならば、成功していたのだろうか?」
だが、考える間もなくエイルは槍を握りしめ、フェンリルに向かって走って行った。
地面が砕けた。終焉の踏み抜いた地は震え、獲物を確実に捉えていた。
走り出した途端、あの巨体が消えた。
―― 速い。
視界の端が裂ける。
横薙ぎの爪。
受ける。
血が視界を滲ませる。
腕が痺れ、足腰は言うことを聞かなかった。
骨と未来が軋む。
未来はやっぱり見えない。
狼の猛攻は続く。
噛みつき、退き、爪を振るう。
避ける。
遅い。
肩が抉れる。
血がはねる。
エイルは跪いた。
―― まだだ、まだ終わっちゃいない。
ここからだ。ここからが始まりだ。
今までのは下準備だ。
槍を腹に突き刺す。
弾かれる。硬い。刃が通らない。
跳ね返された体は地を転がる。
土が舞う。
肺が焼ける。
何も、読めない。
彼は悟った。
「これが、本当の戦いなのか―」
戦う理由なんてなかった。誰かのためじゃない。世界を救うためでもない。
フェンリルは止まらなかった。
怒りもない。
殺意もない。
ただ、終わらせようとしていた。
拳を振り下ろし、地面が割れた。
破片が頬を裂く。
距離が開く。
一瞬、理解した。
「勝つことは、できない」
その事実だけが、異様に鮮明で、温かかった。
足が震える。
止まらない。
止まることはできない。
止まれば全てが終わる。
また、フェンリルは踏み込む。
タイミングなど読めやしない。
地が沈み、衝撃が遅れて胸を打つ。
牙。
髪が裂ける。
反撃。
顔を狙う。
弾かれる。
次は喉を狙ってみる。
掠れた。
初めて血を見た。
―― 浅い、浅すぎる。
次の瞬間、視界が回転した。
何が起きた?分からない。
肺の中の空気は無い。
立て。
体が言うことを聞かない。
視界が滲む。
巨体が影を作る。
世界が軋む。終わるのだ。
そう思った途端、槍が軽くなった。
誰かの鼓動が重なる。
視界の奥に、黒い影。
同じ呼吸。
同じ殺意。
同じ瞳。
景色は違えど、同じだった。
振り返る必要はない。
背後に気配を感じる。
同じ構え、
同じ角度、
同じ目つき。
体が勝手に、何かを振るった。
分からない。何かだった。
初めてフェンリルが退いた。
自分自身が光って見えた。
―― 深い。
確かに届いた。
だが、染まっても揺るがない巨体はまた進み出した。
周りの景色が見えない。
ただ、先程より明るさが減った。
一瞬にして視界は暗くなった。
腕が折れた。
肋が折れた。
噛み砕かれ、鈍い音が響く。
爪が振り下ろされ、足を貫いた。
痛みなんて、もう感じない。
手の甲が少し汚れていた。
なんだっけ、こんな汚れあったっけ…。
鼓動のみが耳に響く。
木?
一瞬、視界に木が写った。視界は閉ざされていると言うのに…。
もう一度、グングニルを握る。
この感触は、最後のような気がした。
何も考えず、槍を振り抜く。
乾いた土が舞い、冷たい風が吹き付ける。
無数の腐った根が大地を凹凸させる。
一人の老人は、槍を構えた。何も無い空間に向かって。
振り抜いた。
鈍い音だけが、辺りに響いた。その途端、何が軋むような轟音が聞こえたと思いきや、大地は陥没した。
だが老人は落ちなかった、
光り輝く切り株の上に、彼は静かに腰を下ろした――
エイルは森の中に居た。目の前には巨大な狼…
そうだ。
俺はずっと戦っていた。
そして地面に打ち付けられ、猛烈な攻撃を浴びせられていたのだ。
だが狼は動かなかった。目に光はなく、ただ半分に割れた岩の前で銅像のように固まっていた。
何かが絶たれた、それだけは分かる。
今までのみなぎる力や正義感、は、どこにもなかった。
決意も、嘘だったかのように無かった。
ただ、普通の人間としての意識だけだった。
視界は晴れ、彼は体を起こした。
身体中に、猛烈な痛みが走った。
声が出なかった。
今は誰にも攻撃されてないのに…
彼は気づいた。自分の手の甲を見た。
ルーン文字が、消えた。
目の前で、一瞬にして。溶けるように。
彼は力が入らなかった。ただ、走馬灯のように、自分が剪定した仲間の顔が脳裏に浮かび、そのまま風が吹いた。
声がした。
雷鳴の中で笑う男は言った。
「お前は、未来を守ったんだよな?」
薄く笑う、貫かれた男が言った。
「正義、って言葉は便利だよな。お前はそれを信じて、俺を刺したんだよな?」
潮の匂いと共に、穏やかな声は言った。
「守るための剪定だったのだろう?なら、守れたのか?今、満足しているか?」
片腕を失いながらも立ち続ける男は言った。
「戦う意味を奪ったのはフェンリルか、お前か…どっちだろうな?」
そして、義眼の男は最後に言った。
「誰にでも正義はある。思想は全員違う。だがそれでも、君は裁いた。最後まで諦めることなく、全てを裁いた」
乾いた風が吹く。ここは地球上どの場所でもない。切り株の上からエイルを見下ろすこの男は、振り向きざまに言った。
「お前だけが、正しかったのか?」
涙が溢れ出た。
正しい道は、他にあったのではないか?
盲目になっていた。かろうじて片目はあるというのに…。
エイル・ヴァルドは唇を噛み締めた。
これが答えだった。
金属音がした。
森の中は、崩れ落ちる大型動物の骨と、一本の槍を除いて静まり返っていた。
神話は終わり、輪廻は終点を迎えた。




