第五章 海の言い分
世界は静まり返っていた。
あの大地震の直後、巨大樹の枝は確実に朽ちていた。しかし、エイルにはわかっていた。
「枝は減ってはいるが、また生えている…原因は数多に及ぶ」
失った右目の奥が疼く。未来が増えている。
早く剪定しなければ、取り返しのつかないことになる。
視界に映ったのは、荒れ狂う海だった。
漁船が転覆し、小舟は岩に砕かれ、痩せこけた母子が溺れている。
ただ、波は嘲笑うかの如く大きな音を立てて暴れている。
海が剪定している。
その時、三叉の槍が海面に突き刺さり、波は静まり返った。
「…来たか」
エイルは槍を握りしめ、馬から降りた。
相変わらず、見た未来と同じ光景だ。これには慣れているが、毎回この現実を見る度に心がまいってしまう。
目に映る未来は、本当にやってくるのだ。
その瞬間、海面が裂けた。
巨大な波の頂きには、1人の男があった。長い外套を翻し、穏やかな顔でこちらを見ている。
「海を司るこのワシになんの用だね?」
「こいつがニョルズ…か」
エイルは苦笑いを浮かべた。
ニョルズは、豊穣と海を司る神である。
どんなに穏やかな顔でも、この有様を目の前にして微笑んでいる鬼畜には容赦はしない、と彼は決めていた。
「なぜ助けないのだ?溺れているではないか」
彼は、溺れている母子を指さして言った。
「運命だからに決まっているではないか。彼らの運命はワシらには変えれんわ」
ニョルズ継承者のこの発言の最中、エイルは真っ先にグングニルを母子の元へよこした。
だが、
「何をするんだマヌケめが!」
ニョルズは槍を叩き返し、救出を妨げた。
「環境の変化に手を出しては行けない。このエリアス・ヨナ・ホルム神父は分かるのだ」
エイルはその時、脳裏にエリアスの最悪の未来が浮かんだ。そしてエリアスは続けた。
「神々が散々世の中に関与してきた末には、自然のバランスが崩壊して世界は滅びるであろう。これは私の予言だ」
彼には、これは予言なんかでは無いことはもちろん分かっていた。
「それ、この間の大地震の時に見た夢だろう?それが貴様に訪れるであろう最悪の未来だ」
「こんな未来が来るのか…おぉ、恐ろしい…だからこそ我々は世に干渉することを辞めるべきなのだ」
エイルはようやく理解した。
この神父は、絶対に温厚な人間だ。
神に選ばれるべきものこそが救われ、見捨てられた者を救おうとすることは環境へ手を下すことであるといいたいのだ、と。
「なるほどな。じゃあ、貴様も選別をしているのだな?」
「これは選別などではない。成り行きに身を任せ、運命に従っているだけだ」
その時、巨大な津波が遠くから迫っていることに気がついた。
「まずい、津波だ!」
「ほう、ここで貴様にあえて聞こう」
ニョルズは元々仕組んであったものだと言わんばかりに、落ち着いた様子で振り向きもせず言った。
「このままだと津波は港町を直撃し、多くの人が命を落とすだろう。もちろん今いる貴様もだ。だが、もし仮にワシが海を割いて津波を半分にしたとしよう。津波は絶対に港町には直撃しないだろう。ただし、割れた津波は元の何倍もの威力で他の都市へ迫るだろう…もちろん、南のユグドラシルにもな」
エイルは言葉を失った。
ロキの時とは違う。これは絶対に両方は救えない。
第一に、ニョルズに力を使わせなかったとしても自分は確実に死んでしまう。
それに、海を割ったならもう遅い。再びくっつけてひとつにすることは出来ないし、都市が壊滅してしまう。絶望的だ。
だが彼にはなんと、勝算以外何もなかったのだ。
「どちらかを選ぶ?そんなふざけたことしか考えられないのかよ」
ニョルズは驚愕した。もう波はすぐそこまで迫っているのに。
「これを救える、と言うのか?この状況下で、神をも超えるというのか、オーディンよ!」
その時、彼の右目から血が溢れ出た。
「ちがう。神を削るんだ」
大地が揺れ始めた。遥か遠くの大地が裂けてきている。
エイルは未来が見えた。
「ま、まさか…オーディン!それは触れてはいけない枝だ、運命には抗えない!」
だが彼は問答無用。続行したのだ。
そう、彼は未来をこじ開けようとしていたのだ。
巨大樹の枝を手探りで探した。
あった、ニョルズの未来!
彼は二つに別れた枝を折った。
その時、大地は眩い光を発し、視界は閉ざされた。
目を開けると、そこに津波はなかった。
ただ、ニョルズが浜辺に倒れていた。
「よ、よくも…そんな…ことをしたら、貴様の存在もワシの存在も消えるぞ!」
ニョルズは苦しみ、唸り声を上げた。
「いいや、消えるのはお前一人だ、ニョルズ!終焉の剪定に貴様の犠牲はつきものなんだ」
突如、エリアスの背後の神格が爆発した。
これはエイルが壊したのではない。
ただ、彼の力が未来改変に耐えられず逆流したのだ。
「我々は…ただの器なのか。貴様は未来を壊すことに失敗し、代わりにワシの力を壊したのか」
ニョルズは跪いた。もう立つことは出来ない。
その時、突如海面から大きな波が出現した。
だがその波はこちらではなく、真上へと上昇した。
「第三の未来はこれか」
ニョルズは力なく微笑んだ。
「俺は未来を削るだけだ。それが俺の意味なんだよ」
その瞬間、彼の右目が怪しげに光った。
力の暴走だ。
ニョルズはますます苦しんだ。
神格が崩壊している。
彼の額に刻まれたルーン刻印が消えかかっている。
「ヨナは再び海へ還る、か」
そう言い残し、消滅した海と共に彼の存在は消えた。




