第8話 子を心配する母
暑い山道。観光用に整備されたアスファルトは、空から受けた熱をもってその上の光景を漂わせる。視界が揺らめくものだから、俺は一瞬、熱さにやれたのかと思った。
俺が登る道の先で、人影が揺らめいていた。距離が近づいていくに連れて、それがスカートを履いた女性だということが分かった。
その女性はこの暑さをものともしないような、嘘みたいに綺麗な笑顔を貼り付けて、俺を見ている。
まるで気づいていないかの素振りで視線を逸らした。
知っている人間でもないので、俺を見ているように見えるだけで、実態は他のものを見ているのだと思い、その横を通り過ぎようとした。
しかし彼女は、俺が隣にまで来ると、右手を頬に置きながら、まるで会場スタッフにでも話しかけるような声色で話しかけて来た。
「あの、うちの子を知らないでしょうか」
知るわけがない。俺は、彼女の子供の名前も顔も知らないのだ。それに、今日この場所には子供も多い。誰が彼女の子供かなんて検討もつかない。
こんな展望台に迷子センターがあるかは分からないけれど、通り掛けの人間に聞くようなことでもない。彼女は自分の子供の特徴も告げずに困り顔をしていた。
それが俺には違和感であった。
「えっと、すみません。俺には分からないので、そこのお店の人にでも」
「困ったわ、あなたの彼女さんと楽しそうに遊んでいたのだけれど」
なるほど。そういうことか。それで俺を頼ったのか。とはいえ、一応はいつもの言葉を返しておくことにした。
「すみません、俺に彼女はいないです」
「いいえ、あれは確かに貴方の彼女さんだったわ。だって、あんなにも楽しそうにしていたじゃない」
まあ、赤堂さんのことだろうな。こないだ、篠崎先生にも同じことで間違われたことを思い出す。先生だけじゃない。同級生だって付き合ってるのかと勘違いしていたくらいだ。
「あー。彼女は友達ですよ」
「あら。そうだったの。それにしては、やけに親しげだったわね」
「そうですか?そうでもないと思うんですが」
「ええ。彼女があんなに楽しそうに話しているなんて、珍しいことよ」
「そうですか?そんな風には思いませんけれ、ど」
ぞくりと悪寒がした。嫌な視線、いや、敵意を向けられたような感覚。そんな筈はないと目の前の女の顔を見るも、そこには子どもを心配する母親の顔しかない。その顔は少しだけ面倒そうな面に変わり、気のせいか、脱力したように見えた。
「まあ、間柄なんてどうでもいいわ。それよりも私の子よ。その子、どこにいるの?」
「それが、俺も他の人と立ち話をしてしまっていまして、知らないんですよね」
「他の人?」
女の人が、じっと黙って俺を見つめた。強迫感を覚える、探る目。俺はその目を見て確信する。先程感じたものも、きっと気のせいではない。この女、どこかおかしい。直感的に、そう感じた。
「ええ。今日あったヒーローショーに、うちの生徒会も絡んでいたようで。同じ学校の知り合いに出くわしていたんです。だから、申し訳ないですが」
「あなた、河原山高校の生徒なの?」
殺意。なんだ、なんなんだ。これは。
「いえ、大然高校の方です」
「……。そ。それなら、早く貴方の彼女に電話をしなさいな。連絡先、知っているのでしょう?」
彼女じゃないって言ったはずだが。
「申し訳ないですが、」電話番号を知らないもので
そう断って、適当にこの場を離れようとした矢先、スマホの着信が鳴ってしまう。
相手は赤堂さんだ。
目の前の女が俺のスマホを覗き込む。
「出て、いいわよ」
俺は諦め混じりでその電話を取った。
「あ、尾緒神?私に用ってなんだ?」
電話越しに聞こえた声に、おかしなことを言う奴だと思った。そっちから電話をかけて来たのに、要件はなんだと聞いてくるのだから。
「用はなんだと言われても、電話を掛けて来たのはそっちだろ」
「そうだけど。お前、橘に伝言を頼んだんじゃないのか」
「橘さんに?なんで?」
威圧。いや、闘志?期待、希望、餌。不思議な気配を、隣の女から感じていた。
この女、感情を隠す気はないらしい。いや、隠せないのか。
「いや、今丁度橘に会ってな、尾緒神くんが電話をして欲しいって言ってたよって教えてくれて」
そんなことを、言った覚えはない。まさか、わざとこのタイミングで電話を掛けさせたのか。いや、ただの偶然だ。そうに決まっている。でなければ、何故あいつは、俺とこの女を出合わせたのか。もしかして、俺を頼れと、橘さんが言ったのか。
いや、それは流石に被害妄想が過ぎる。
「橘が言うにはな。尾緒神くん、また巻き込まれているよ。だってさ」
それは、生徒会長に絡まれていたことを指しているのだろうか。それとも、今この現状に対して言っているのだろうか。
「橘は、近くにいるのか?」
「え?ああ、勿論だ。あ、あれ」
「どうかしたのか」
「いなくなってる」
奇妙な悪寒がした。
本能が感じたままに振り返ると、俺に話し掛けていた母親もまた、いなくなっているのである。
頭が混乱する。
「おい」
肩を掴まれて心臓が跳ねるような思いがした。
「あ?そんなに驚かなくてもいいじゃねぇか」
振り向けば、髭面の男が立っていた。俺が警戒する様子を見せると、男は面倒臭そうに肩を落した。そしてポケットから手帳のようなものを取り出すと、それを俺に向けて開いて見せる。
「安心しろ。こう見えて、俺は警察だ」
差し出された警察手帳をよく見てみる。確かにそれは、本物の警察手帳だった。昔、中学時代に何度か見ることになった警察手帳。それが本物かどうかを見分ける知識を、また使うことになるとは思わなかった。
「ごめん、赤堂さん。お巡りさんが俺に用事があるみたいだから、電話切るな」
「え。お巡りさんって、警察か?何で」
赤堂さんの疑問を最後まで聞くことなく、俺は電話を切る。
警察がいるのなら話が早い。そう思ったが、よく考えてみれば、俺がただもやもやしているだけのことを、上手く人に伝えられる訳がなかった。俺だってまだ証拠を持っておらず、説明をするにしても橘さんがそう言ったからもやもやしている。というしかない。
そんなの、気にし過ぎだ。と返されて終わるに決まっている。
かといって、國火下に命を狙われていることを伝えて、保護して貰うことも、なんだか違う気がした。俺が何もしない、何も出来ないようになる選択肢を取ることは、どうしてかいけない気がする。
ああ、くそ。やっぱり、橘さんの妄言が俺の行動を縛っている。あれを無視出来ない俺が居てしまっている。
とにかく、今の状況も踏まえて、あいつと喋った後からころころと何かが起きすぎている。
それに、さっきの女も赤堂さんを知っているようだった。一つ前の國火下の件もある。
どうしてか、俺の友達が今回の件に関わって来そうなのである。
だったら、俺は。
「警察が、俺に何の用ですか」
とはいえ、警察を無下にすることなんて出来ない。
「ちょっとさっきの不審者の話をしたくてね。それと、お前のお友達についても」




