第10話 手作りの虫籠
肩を上下にさせながら、俺は雑木林の中を抜けていく。
その先に、会いたかった少女の姿があった。
「よお、やっと見つけたぞ。赤堂さん」
この糞暑い時期に、未だに赤いマフラーを付けた友人がそこにいた。
「尾緒神。遅かったじゃないか」
赤堂さんは、少しむっとしていた。電話を急に切ったからだろうか。
整備された道からは外れた森の中。道無き道、文字通りの山道を駆け回って俺はやっと赤堂さんと合流することが出来た。
どうしてか、赤堂さんが少しだけ安心するような表情を見せる。彼女の後ろには一緒に遊んでいた子ども達がいた。前に見た時よりも、その数は減っていた。
俺は自分の服に付いた土を払いながら聞く。
「お前、なんてところにいるんだよ。こんな場所、分かる訳ないだろ」
「その為の電話だろ?尾緒神こそ、どうやって私達を見つけたんだよ」
「走り回った。あと、勘」
「……。尾緒神、お前意外と脳筋なのか」
む。そう言われるのは、なんだか嫌な感じだ。
「どちらかと言えば、獣的なアレだ。昔、山に住み着いたことがあってな。その時に動物的な直感を得た」
「それは、修行的なアレか?」
修行、というよりかは藻掻き、悪足掻きの類いだが。
「まあ、そんな感じだ」
答えると、赤堂さんの瞳が煌めいた。俺は、嫌な予感がした。
「よし!夏休みの予定が1つ決まったな!」
「嫌だぞ」
「なぁんでだよ!私も動物的直感を手に入れたい!」
「あのなぁ、そんなにいいもんじゃないぞ?」
気が付けば、赤堂さんの後ろで男の子達も目を輝かせていた。
「僕達もやりたい!」
俺は、眉を潜めて唇を尖らせた。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。と、それにしても尾緒神、泥だらけだな。もしかして、こういう山道を歩くのは苦手だったか」
赤堂さんが子ども達との間に入ってそんなことを言う。こいつ、意外と大人なのかもしれない。
「まあ、ちょっと苦戦してな」
一目散に見つけて、ある程度誘導した上で撒かないといけない相手のことが、想定以上に厄介で困ったのだ。特に撒くのが難しかった。人の執念は馬鹿に出来ない。
「ほんと、どうしてこんな場所に来たんだ?ここには何もないだろ」
「そんなことないぞ?よく見て見ろ、尾緒神。自然がある」
そりゃ大自然だけれども
「この中でやるヒーローごっこは一味違う。みたいな感じか?」
「それもあるけど、それだけじゃない。甘いね。尾緒神」
なんか、赤堂さんがドヤリ始める。
「山の幸って言葉は知っているかな。尾緒神くん」
「キノコでも採ってたのか?」
「違いますぅ。分っかんないかな?」
某探偵のような口調で喋り出した赤堂さんが、チッチッチと舌を鳴らしながら助手(想定)の俺へと人差指を揺らしてみせた。
「探索だよ、尾緒神くん。皆と山の幸やカブトムシを探してたんだ。見せてやってよ、友太くん。私達が捕えた凄い成果を!」
両手を腰に当て、胸を張った赤堂さんがドヤ顔をする。するとその後ろにいた友太くんが嬉しそうに木の枝で出来たお手製の虫かごを見せてくれた。なんだこの自作虫かご。既に凄いじゃないか。
「見て見て!ヘラクレスだよ!凄いでしょ」
前歯が一本抜けた男の子が、嬉しそうにそれを見せてくれた。俺は腰を屈めてその籠を覗き込む。中には立派なヘラクレスオオカブトが確かに捕まえられていた。いや
「本当に凄いな、これ」
「「だろ!」」
赤堂さんと友太くん達の声が揃う。
いや、なんでこんな山にヘラクレスオオカブトが?と疑問に思う。
赤堂さんと話をしながら、俺は改めて子ども達に目を通した。
ここに居るのは、赤堂さんと子どもが7人。男の子が5人で女の子が2人。この中で一番奥に居て黄昏れているちょっと大きめのアイツが、赤堂さんの言っていた中坊だろうか。
「見てくれよ、尾緒神。私のノコギリクワガタも凄いだろ?」
赤堂さんのノコギリクワガタを見せてくれる。
ノコギリクワガタまでいるのか、この山は。
「確かに凄いな。というか、この籠は自分で作ったのか?」
「勿論だとも。尾緒神も作り方を知りたいか」
いや、いらないな。と言いかけて止める。
「そうだな、じゃあお願いしようかな」
「おうよ!あ、ちょっと待ってな」
そう言って赤堂さんは子ども達の方へと振り向く。
「皆はどうする?もう少しこの辺で他のものを探してみるか」
「ううん。僕達もお兄ちゃんを手伝うよ!僕ね、良い木が落ちてる場所知ってるんだ」
「僕も知ってるよ!」
「なんなら、僕達がお兄ちゃんに作ってあげるよ」
「だったら、誰の籠がお兄ちゃんに選んで貰えるか勝負だ!」
そう言って男の子達は各々の思う最強の虫取り籠を作るために捌けていく。一番奥の中坊も、1人の男の子について離れていく。とはいえ、皆見えないくらい遠くまでには行かない。
「じゃあ、私達はお兄ちゃんにお花の冠作ってあげる」
そう言って女の子達も小さなお花を摘み取り始めた。その頭には、かわいい冠が乗ってある。
子ども達が離れてから、俺も自分の籠を作る為に赤堂さんとその辺に屈んで木の枝を集め始める。だが当然、本命は籠作りなんかじゃない。しゃがんだ後に、赤堂さんは手を動かしながら子ども達には聞こえない声で話し掛けてきた。
「尾緒神。さっきの音は聞いたか」
「ああ。聞いたよ。銃声だろ」
「銃声。やっぱりそうだったか」
「俺は、人が撃たれる瞬間を見たよ」
「そ、そうなのか」
赤堂さんが心配そうな顔をする。
そんなに心配しなくても大丈夫だよ。俺は―――。……。
「殺人犯はまだ捕まっていない。この山は今、銃を持った犯罪者がうろつく場所になっている」
「そ、そうなのか」
赤堂さんの顔が不安に満ちる。
「な、なんだよ。なんでちょっとニヤついているんだよ」
そんな指摘を受けて、俺は自分の唇を触った。ニヤついている?そんな馬鹿な。
「尾緒神?大丈夫か」
「あ、ああ。そうだな」
たじろぎながら、笑みが浮かんでいた理由を探す。そうだ。こういう時はきっと。
「流石に今回は、面白そうなことだな!尾緒神。とか言って、赤堂さんが銃声の犯人を捜し始めたりしないんだなって思ったんだ」
「わ、私だって流石に怖さが勝つ。さっきだって、皆の不安を取り除くのが大変だったんだぞ」
銃声が鳴ったとき、怯えた子ども達を宥めてくれていたらしい。
「私だって怖かったけど、パニックになったらいけないと思って頑張ってたんだ。この中だと、私が一番年上だったしな」
確かに、パニックになった子ども達が、親元に帰ると勝手に動いたらよくないことになったかもしれない。山は危ない。俺達の手に負えないところで、勝手に遭難や転落事故をすることはあり得ることなのだ。
勿論、今回の場合は銃を持った犯人に出くわしてしまうことだってあるわけで。
「そうか。それは大変だったな。それで赤堂さんは、何処まで知っていたんだ?」
「お、尾緒神?どうしたんだ、急に」
「分かってる。赤堂さんは嘘を付いていない。本当にこのイベントを楽しみにしていたし、本当に3周年記念グッズ、地元コラボグッズを欲しがっていた。でも、それだけじゃなかったんだろ?」
「何を、言って」
「ひっかかった言葉があるんだ。赤堂さん、俺に電話した時にこう噛んだだろ?『尾緒神?今お前どこにいるんだよ。今ちょっとこっちでおもしっ、こほん。大変なことが始まっ、こほん。とにかく、早くこっちに戻って来て手伝ってくれ』てな」
「それが、どうしたんだよ」
「赤堂さんは俺に『面白いことが始まるぞ。早くお前も来い』て言いたかったんじゃないのか?」
「まあ、そうだったかもしれないけど、それがどうしたんだよ」
そう紛らわそうとしているところが既に怪しい。
「その面白いことってさ『一緒に遊んでいた中坊がな、ここは俺の断頭台なんだ。とか言い出して』って言っていたことだよな」
「あ、ああ。そうだけど」
「なんで赤堂さんは、そんな厨二病発言とも取れる言葉から、どんな面白いことが始まると思ったんだ」
「え?そ、それは、なんか面白いことだよ」
「そうか?赤堂さんはその時、殺し屋が彼を殺しに来るって、思ったんじゃないか?」
赤堂さんは軽く目を見開いた。俺はそれを見て、微笑した。
「どうして、そう思ったんだよ」
「それは、あれだよ。動物的な勘」
赤堂さんが身震いをしていた。
「尾緒神、お前、なんか怖いぞ」
俺は赤堂さんから視線を外す。
「そうか?まあ、きっと俺も緊張してるんだ。怖いのに、行動しないといけないこの状況に」
「怖い?」
嘘だ。とでも言いたそうな顔をしている。どうしてだろうか。
「俺だって、殺人犯は怖いさ。怖いけど、パニックになったらいけないと思って頑張っているんだよ」
「尾緒神」
赤堂さんが静かに聞く。
「私を、揶揄っているんだよな。前みたいに、私の言葉を引用したりして」
狐のように目を閉じて、べっとお茶目に舌を出して見る。
「尾緒神、私はお前の敵じゃないぞ」
「……。分かっているよ」
赤堂さんのする、その目には覚えがあった。
丁度、中学の部活仲間の中に、そんな目をする奴がいたのだ。
広いコートの上で、関東出身の超新星エリート達に負けた日のことを思い出す。数多くの部活動をしていたが、あれはバスケ部の試合だったと思う。
「お前は確かに怪物だ。だが、1人だ。1人じゃ、俺達には勝てない。仲間を信じず、バスケも愛していないお前は、負けるべきして負けたんだよ」
敗北したコートの上で、上から見下ろされながらそんなことを言われた。
ズキンと頭が痛んだ。仲間、か。あの時の仲間は、全員敵だった。
俺に、仲間などいなかった。仲間など、信じられる訳がなかった。
今の仲間は、どうだろうか。
ぐっと伸びをして気を紛らわせる。
「分かってる。だから、協力させて欲しくてこうしている」
「協力?」
「教えたくないならそれで構わない。今赤堂さんが背負おうとしていることを、ちゃんと知りたかっただけなんだ」
「……。尾緒神。お前、どんなけ不器用なんだよ」
びびったじゃねぇか。と呟きながら、赤堂さんはどこか安心したように緊張していた肩を下ろした。
「隠すことでもない。私はただ、そこの池地に助けを求められただけだ」
そう言って、赤堂さんはあの中坊を指差した。断頭台云々言ったという少年だ。
「弟が特典を集めるために、どうしてもこのヒーローショーに参加しないといけない。でもそれは、昔色々あった奴のイベントで、殺されるかもしれないから助けて欲しいって頼まれたんだ」
「なるほど、そういうことがあったのか」
それは、赤堂さんのセンサーが反応する訳だ。
「でもまさか、銃を使う奴だなんて、思いもしなかった」
「そうだな。それで、犯人のめどはついているのか?」
「え?それは、これからだけど?」
「……。」
「なんだよその顔。私は、これ以上のことは知らないぞ」
赤堂さんのその顔に、嘘は無さそうである。
「そうか。じゃあ、俺の方の情報共有もしておきたい」
「俺の方の情報?何かあったのか?ってか!お前も何か知っててここに来たんじゃないだろうな」
そうして俺は、ここまで起きたことを簡潔に赤堂さんに伝えた。
話しが終わると、赤堂さんはムスッとしていた。
「ずるい」
「ん?」
「尾緒神だけ、そんなことに巻き込まれててずるい」
「なんだよ、急に」
「いや、なんか、ノコギリクワガタを捕まえて喜んでた私が馬鹿みたいに思えて来て」
なんでだよ。幸せそうで羨ましかったよ。俺も、そういう休日が良かったのに。
「まあ落ち着け。だからこうして、共有しに来た」
「ぐ。絶妙にありがとうとも言い難い」
「なんでだよ」
「だって、たしかに面白そうだけど、やっぱり怖いんだよ」
赤堂さんは、体を少し震わせていた。
「お前が俺をここに連れ出して来たのに?」
しかも、そんな重要なことも伝えないで。
「それは、悪ぅござんしたね」
反省したような、でも気に食わないことがあるような、赤堂さんは頬を膨らませながら不服そうにしていた。私だって、ここまで大事だとは思っていなかったんだ。とでも言いたいようにしている。
「まあ、いい。こうなった以上、もうやるしかないしな」
「おお!なんかそれいいな。かっこいい感じだ」
そうか?
「よし!じゃあ始めようじゃないか。私達の、共同戦線って奴を!どんな奴でも相手にしてみせるぞ!銃でもなんでも持って来いってもんだ」
「なら、銃の相手は赤堂さんに任せる」
「……。出来るだけ、銃は使わせない方向でいこう」
赤堂さんが少しだけ縮こまった。
「あ。そういえば、尾緒神の方は、犯人について何かめどが付いているのか?」
「正直に言えば、まだ全く分かっていない。だが、気になることはある」
「気になっていること?」
これは、もしかすると考える必要のないことかもしれない。考え過ぎなだけかもしれない。そう前置いた上で言葉にしようとした。
だが、俺がそれを口にする前に、悲鳴が上がった。俺も赤堂さんも、その時には駆け出していた。お互いに視線だけを合わせて、それぞれの役割を確認した。
銃を持っている人間以外に、この場には人間に危害を与える可能性のある人物がいる。そいつが来たのだ。
走る先に、中坊男子、池地が腰を抜かして倒れていた。彼の弟は、その隣で震えながらお兄ちゃんにしがみ付いている。彼らが怯えている対象は、こくりこくりと首を、長い髪の毛を動かしながら近づいていっていた。
「見つけた。見つけた。タダサナキャ。タダサナキャ。光太、悪魔、タダサナキャ。私が、わつぁしが、光太。こうたぁ!!」
「俺じゃない!俺じゃないんだ!俺がやったんじゃない!太値がやった。圧部がやった。俺はただ、見てただけなんだ!周りにいただけなんだよ!」
声を震わせ、涙を浮かべて懇願する彼は、後ずさるばかりで逃げられていない。
女の手には、ナイフ。
こうなることは分かっていた。寧ろ俺は、彼女が今回の件の犯人になると思っていた。
だから俺は、読みを外した。
橘が言っていた死人とは、目の前の池地くんのことだと思っていた。だから赤堂さんと合流して、未然に事件を防ごうと考えていた。しかし、そうではなかった。
殺されたのはこのお母さんだ。この事件は単純ではなかった。その死は安全装置の破壊を意味していて、それは本件を起こす為の引き金であった。つまり、事件はまだ始まったばかりなのである。
考えてみれば当たり前のことだ。あの刑事はこう言っていた。
彼女には、医師から精神疾患の診断が出ている。光太くんが亡くなってから様子がおかしくなったんだ。彼女の中では、まだ光太くんは生きているんだよ
アリバイがあるんだ。彼女は今、夫とも離れて実家で療養している。だから彼女のお母さんがいつも、そばに
狂わないでいられることが、彼女の母親がいる時だけのことだったとしたら。あの女は、俺と対面した時には明らかに殺意を持って池地くんを探していた。赤堂さんと一緒にいることを知っていたから、俺にその居場所を聞いて来た。
圭子さんの母親が、実際にはどんな風に歯止めになっていたのかは知らない。どんな心の支えになっていたのかは知らない。どちらにしろ、もう彼女を止めてくれる者はいなくなったと思っていいだろう。
圭子さんはまだ、夢を見ている。子どもを連れ去った悪魔と退治する夢を。圭太くんが帰って来る、可能性の希望がある夢を。
今回の銃殺において、この女は逮捕されない。彼女は銃を撃った人物でなければ、まだ罪を犯していなのだから、逮捕なんてされない。だからこそ、警察が来たとしても、この女は危険なのである。
寧ろ、警察が来て身動きが取り難くなるのは俺達の方だ。
後は大人に任せてと言われて、関われなくなる。
心が現実にない圭子さんには、警察の持つ抑止力など関係がない。例え彼らが目の前にいたとしても、躊躇無く池地くんを殺せるだろう。
彼女は既に、自制が効いていない。自分が逮捕されるなんて思考がない。
ただ、自分の子どもを返して貰うために動いているだけのナニかに過ぎないのだ。
それだけの殺意を持っている。実際、今目の前でその殺意を発揮している。
であれば、こちらの動けるタイミングで行動を起こさせた方がいい。警察が、俺達の言葉を橘さんのものと同じ妄言だと捉えてしまう前に。油断した隙に殺されてしまわないように。
それが、今回赤堂さんが受けた依頼だ。
警察は、事件が起これば対処してくれる。しかし、起きていない事件に対してそれほど前のめりではない。
そういう未来が来るような気がしていたのに、何も知らない素振りをして警察に後を任せて家に帰り、翌朝の朝刊で事件を知る。そうして、俺なら止められていたかもしれなかったのに。なんて後悔するのはもう嫌だ。
俺が関わったところでどうすることも出来なかった。だから落ち込む必要はないと、周りに励まされるままに自分を洗脳しようとするのは、もう嫌だ。死人にまとわりつかれるのは、もう嫌だ。
だから、あの銃殺の後、先に接触してしまう前に、いなくなった圭子さんを見つけた。彼女に俺が赤堂さんの方へと向かっていることを認識させて、近くまで誘導した。途中で彼女に後を追われていることに気づいたフリをして、直ぐには鉢合わせない絶妙な位置で撒いた。こうして、少ししたら見つけてくれると信じて。俺は彼女を、ある程度こっちのタイミングで暴発させられるように調整したのだ。
俺の身勝手でそうした。そうしてしまった以上、俺はここにいる人間の命を保証出来なければならない。さもないと、ただの阿呆である。
だからこそ、俺は圭子さんの前に立ちはだかる。俺は彼女を1人で抑えてみせなければならない。それが、彼女をここに連れて来てしまった俺の責任だ。
赤堂さんと子ども達がいれば、現行犯逮捕の正当性もある程度は弁解出来るだろう。
赤堂さんに事情を説明したのは、保険である。もし俺が失敗してしまった場合でも、俺が死ぬ前までには彼女が子ども達を連れて逃げてくれるだろうと信じてのことだった。
赤堂さんと子ども達が逃げるまでは死んでも足止めをしてみせる。
女は俺達のことは眼中にないようで、ゆったりと少年に近づいた女がナイフを振り上げる。赤堂さんは、少年を庇うように飛び付いた。俺は、少年と女の間に割り込んで、振りかぶったナイフを受け止めた。
刃が刺さらないように、女の腕に俺の腕を打つけたのである。ナイフが眼前で静止している。無理矢理ねじ込もうとする彼女の腕を、難なく押しとどめる。
「三智長くん!立てる?逃げるよ!秋庭くんも」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
後ろで、赤堂さんが彼らを逃がすために声を掛けてくれていた。
「間違っている。みんな、みんな、タダサナキャ」
目の前の女は目を見開いて顔を近づけてくる。
「赤堂さん!引き摺ってでも逃がして」
女はナイフを振り回す。俺はそれを手で捌きながら赤堂さんに向けて叫んだ。
いける。この女、素人だ。恐らく喧嘩慣れもしていない。雑に振り回されるナイフの軌道が単純で読みやすい。これなら隙を見て掴んで投げて、拘束出来る。空手も柔道も合気道も、中学時代に習った数多くの運動部での経験が、地獄の経験が活きる。
ナイフには女の指紋がべったりと付いている。
とにかくこれで、あの子の命は守られる。そしてこの件は終わる。俺が危惧していることの1つは、これで安全に―――。
タンッと、軽い音がなった。
体が押された。何度目かの刃を捌こうとしていた俺の腕は所定の位置から外れ、その勢いを流せず、相殺出来たはずの女の手が滑り込んだ。ナイフが、肩口に刺さる。それなのに、俺の意識はその痛みには寄せられなかった。
驚愕は感覚を遅らせる。耳に残る発砲音、左の助骨辺りを後ろから襲った衝撃が、痛みが。ナイフの痛みを掻き消した。
尾緒神も――きっと、気に入ると思うよ。
心臓がどくんと跳ねたような、そんな気がした。
俺の身勝手で企てた計画が、狂い始める。
自分の名前を呼ぶ、悲鳴にも似た叫びが耳をつんざいた。その声で俺は正気を取り戻す。
前を見る。衝撃に押されて近づいて来ていた圭子さんの胸ぐらを掴む。俺と同じくらいの大きさ体の中に、自身の肢体を潜り込ませながら振り返る。背後には、木々の奥には、ガゲン仮面のお面を被った長髪の女が立っていた。手には拳銃。銃口からは硝煙。俺にはその景色がひどくスローモーションに見えた。
2発目の発砲。俺は、先程撃たれたのだと自覚する。2発目の銃弾は、俺に背負い投げられている最中の女に着弾した。後ろにいた赤堂さんは少年を引き摺って多少距離を開けていて、銃の衝撃を受けながらも、俺はその反動すら打ち消す勢いで女を地面に叩き付けた。
女は吐血する。銃弾に抉られた箇所から溢れ出した血は衣服に、地面に染みこんでいく。
それでも尚、女は変わらぬ狂気を表情に浮かべていた。
こいつはまだ動く気だ。しかし、俺にはそれに対処している時間はない。
ごめん。と、俺は確かにそう呟いた。結局俺は自分で課した責任すらまともに請け負えない。だが、それを悔やむ時間などない。目標を切り替えなければいけない。さもないと、俺が死ぬ。俺は、なりふり構わず駆け出していた。目先にいる仮面の女は、まだ銃口を向けている。他人の心配をしている場合ではない。しかし
「悪い!赤堂さん!そっちは任せた!!」
自分でも驚くほど大きな声が出る。余裕がないことを自覚する。他人頼りのどうしようもない悪足掻きを自覚していた。
「そっちって、おま」
その時、赤堂さんは見た。ゆらゆらと立ち上がる、子を失った女の讐念を。化け物だと思った。どうしてと思った。心が萎縮する。しかし、この場にはそんな恩讐と共に、銃で撃たれながらも疾走する友の姿が存在していた。
私は任されたのだ。拳銃を持った殺人犯に突っ込んでいった彼に比べると、負傷した手ぶらの殺人未遂犯など、と。赤堂さんは己を奮い立たせてしまう。
彼女とて、刃物を振り回された経験があった。
この場の異質さが、迫り来る死の気配が、本来なら必要のない勇気を奮い立たせてしまう。彼女の頭から、「逃走」の2文字を消してしまう。そうして彼女は、拳を握った。いつか憧れた、テレビで見るヒーローのように。何度も、そうして来たように。
後ろで震える、逃げられない子ども達を守る為に。
尾緒神は既に、赤堂さんの方へ意識を回すことは出来なくなっていた。
彼の思考は掠れ始めている。背中に負った傷が、想像より酷く、思考を蝕み始めていた。彼の頭にはもう、ただ目の前の敵を排除するという命令しか残されていない。せめて、一番危険な奴を引き受けるくらいのことはしろと、意地が訴えて来る。
あの女のことについては、赤堂さんを信じるしかない。あの女も同じく大きな負傷を負った、弱体化はしている筈である。
自分は目の前の銃撃犯に集中を、と思うも意識は既に遠くに行きつつあった。
熱い。痛い。苦しい。喉の奥で、血の味がする。
それらの混乱の奥で、遠い記憶が引き出される。
野球、夏の猛特訓。改造されたピッチングマシーンから飛び出る時速200キロを優に超える剛速球。俺はそれを何度も打たされた。何度も、体に打ち込まれた。お遊びだった。帰りたくても、帰らせてくれなかった。縛られて、抵抗出来ないこともあった。涙の味が簡単に思い出せた。沢山の痣が出来た。死ぬかと思う日もあった。むかつく連中の顔が浮かぶ。死ぬほど走らされたし、意図的なレッドボールも何回も味わった。
まるで走馬灯のように流れる記憶。普段は封印している、中学時代の部活動への嫌悪。
分かっている。比べることじゃない。銃弾の方が圧倒的に早い。でもどうしてか、今の俺ならその弾道を見切ることが出来るような気がした。あの日々のピッチングマシーンの発射口と、銃口とが重なって見えた。
殺したい。殺したい。殺したい。この投球を避けて、あの奥で笑っている奴らの顔を、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
3発目の爆発。発砲。 銃弾は、俺のおでこを掠めた。
やはり銃弾。そう簡単には避けきれない。
目に血がなだれ込んで来て、視界が真っ赤に染まる。
おかしくなった、赤い世界。僕、俺、いば、いばしょ。
掠めたとはいえ、銃弾を避けた。仮面の奥の表情が歪むのが分かった。愉悦を感じた。しかし、次の動きを見てその躊躇いの無さに屈服した。女は俺が避けられない位置に、避けたら失速せざるを得ない場所へと銃口を向ける。
そこに撃たれたら、俺は最速でお前を殺せない。
仮面の女と、俺の距離はもう近い。この弾さえ避けられれば、確実に接敵出来る。
4発目。相手が拳銃を持っている以上、距離を取れば負けるのは俺だ。俺は、何の躊躇いもなく左腕を捨てた。あの日飛んで来た拳を払うように、条件反射で手が動く。手刀に着弾。弾丸が皮膚にめり込んでいくのが分かる。瞬間的に重心をずらす。貫通は不味い。左腕損失は不味い。俺は弾丸が腕の側面を流れるように体制を変化させる。
失速は出来ない。銃弾に押され、左腕は後方へと吹き飛ぶ。骨は無事。目論見通りに側面だけを抉りとっていった。しかし上半身は、その弾道に引っぱられる。
右足を地面に突き刺し、左足を浮かせて体を回す。銃弾の勢いを、加速に利用する。勢いは殺さず、遠心力に変換する。銃弾の勢いを、回転に移して前方へとその進行方向を誘導する。筋肉が軋む。弾丸が過ぎだった手は、流れるように前方へと回っていく。後ろ向きの勢いは、大きく振られながら前方へと到達し、右足を置き去りにして体を引っ張ってくれる。そうして俺は、撃ち抜かれた衝撃を利用して左足から仮面の女へと突っ込んだ。
女の腹に俺の蹴りが刺さり、その体は吹き飛んだ。俺は倒れないようにして体制を立て直す。左手はもう使えなかった。感覚が殆どなくなっていた。撃たれた背中は嫌に思う程熱いが、不思議と痛さはない。恐らく、背中の痛覚がいかれている。貫通はしていない。初弾はまだ体内の中。体の違和感は詰め物だと思って割り切り、それがあることを前提にして体が駆動するように修正する。
俺はフラつきながら、肩に突き刺さったナイフを抜いて、その辺に投げ捨てた。
そうして再び走り出す。まだ、相手は死んでいない。一瞬で詰められる程度ではあるが、距離が出来た。相手は迷わず銃を使う。銃弾はそう何度も避けられない。生半可な位置では俺がそれを避けることなどもう織り込み済みだろう。それを見越した上で撃たれるとどうしようもない。
左腕のような犠牲を伴った進軍も、そう何度も繰り返せない。こちらの体が保たない。
女は木に背を預けながら立ち上がり、予想通りに拳銃を向けた。仮面の下部からは赤い血が滴り落ちている。
しかし、女が引き金を引くよりも先に、俺の蹴りが届いた。
俺が拳銃を持った手を蹴り飛ばすと、銃は簡単に彼女の手を離れていった。
どうやら、こちらの想定以上に腹への蹴りが効いてくれているらしい。
が、それは相手の想定していることだった。飛んで行く銃を視線で追う、危険物の行き先を気にした俺の死角に彼女は潜り込む。
下から何十発、いや、何百発かの蹴りを入れられて、俺の体は暫くの間宙に浮いた。連撃が終わり、体が地面に落ちると思ったところで頬に強烈な蹴りを叩き込まれる。
地面を転がる。血が巻き散る。意識が飛びかける。直ぐに立ち上がったが、フラつきながら後退する痴態を晒してしまう。が、なんとか踏み留まった。高速で蹴られ続けたせいで、腹が痛い。頬を蹴られた時に噛んだのか、唇からは流血が。
人間離れをした蹴り技。
実際に受けたのは初めてのはずだが、どうしてか俺は、その蹴りを知っているような気がした。
人を数分浮かせられるほど蹴りを叩き込める奴なんてそういない。
そうだ。どこかで、聞いた事がある筈だ。
「思い、出した」
血玉を呑み込みながら、相手の顔を睨む。世界が赤い。
1年前。クソみたいな部活動の中で、クソみたいな先輩が話していた噂。かつて瓦山の方で、とんでもなく強く、美しい少女がいたのだと。舎弟は1人、小学生男児を連れて、2人で世直しをしているヒーロー気取りのクソ女がいるのだと。
そいつを屈服させて従えたかった男共が、何人も散っていったのだという噂話しを。
その女の必殺技が、人を宙に浮かせ続けられるほどの素早い蹴りの連撃だった筈だ。その蹴りは、大型バイクですら耐空させてみせるらしい。そんなものは人間業じゃない、盛りすぎだとあいつらは笑っていた。
それは、そいつが1年生の時に当時の3年の先輩から聞いた話しだと言っていた。
それを加味すれば、それ自体は恐らく、3年前の噂。
そういえばあの時、その女の今を見つけたとか言っていたな。どっかの高校で静かに暮らしていて、かつての面影も見えなくなった彼女を、先輩と一緒に襲いに行くのだとか。そんな話をしていたっけ。
そういえばあいつ、その後骨折して帰ってきて試合に出られなくなっていたな。
3年生最後の夏を、美女へのナンパで棒に振った馬鹿な奴だった。
はは。ざまあみろ。今でも笑えてくる。
でも、そうか。
「お前が、レディガゲンか」
仮面の女が揺れる。
「そうか。その呼び名を知っているということは、お前もどこかのチンピラか。よかったよ。それなら、何の躊躇いもなく殺せる」
思い出した記憶に、整合する話がある。
木並 光太。当時まだ12歳だった男の子だ
この企画の根幹には、弔いがあるんだよ
河原山高校の生徒会長の幼馴染みがな。3年前に亡くなっているんだ
あの人の子どもは、3年前に亡くなっている
小学校の高学年になってもまだテレビのヒーローに憧れていることは、変なことだったんだ。ヒーローごっこは卒業するべきことで、だからこそ彼は浮いていた
小学生男児を連れて、2人で世直しをしているヒーロー気取りのクソ女がいるのだという3年前の噂
天国へといってしまった幼馴染みへの花向けとして、どうしても今回の企画をやりたかった
今日どうしてここでヒーローショーが開催されたのか。
それはつまり、どうして河原山高校の生徒会長がこのイベントを行ったかとも言い換えられる。
そしてそこに、彼を殺したいじめっ子がいればどうなるか。
それらが全て、計画の内のことであったとするのなら。
もし、意図して年齢制限を掛けた特典を二種用意したとするのなら。
兄弟がいなければコンプ出来ない仕様にした理由が、彼が来る可能性を押し上げるためだったとするのなら。
彼の弟が駄々を捏ね、母親はそれを面倒がってお兄ちゃんに協力を求める形で強制した。そんなどこの家庭でもありそうな形が、池地くんの家で当てはまっていたとするのなら。
最初から、光太くんへ向けた場所で、光太くんへ向けた手向けを用意するつもりだったのなら。
幾つかの『もしも』が浮かんでいく。
もしも、目の前の女が河原山高校の生徒会長だとするのなら。
「どうして貴方が、河原山高校の生徒会長が、こんなことを」
「知らないとは言わせない。お前達が殺した、光太の仇を取る為だ。お前も、ここで死ね」
やはり、この人は河原山高校の生徒会長だった。
学校生徒の模範生であるのが生徒会長だということ、狩谷会長と親しい仲だということで、俺は勝手に彼女をその対象から外してしまっていた。
狩谷会長と同じく、何かに巻き込まれている側の人間だと思い込んでいた。
でもそうか、そういう筋書きだったのか。
それに、生徒会側のことは何か起きても会長が抑えてくれていると思っていた。会長も、ここで起こる何かには気が付いていたみたいだったし、何かをしようとしていた。だがそうか、國火下か。
あの時、生徒会長は俺に明確な敵意を見せた國火下の去った後を見続けていた。そもそも彼は生徒会役員でもなく、自分から進んでこのイベントの手伝いに参加して来た人間だ。
それが善意ではないことは分かっていた。彼の真意は赤堂さんだろう。赤堂さんならこのイベントに飛び付くと、こんなヒーローショーを見逃す筈がないと、彼は分かっていた。
しかし、それを知らない狩谷会長からすれば彼は怪しい人物に他ならない。このイベントを使って実際に何か企んでいる人物ではあったのだ。
おそらく会長は今、國火下と一緒にいる。
目の前の女は、そうなることを分かって彼をこのイベントに参加させたのか。
傷が痛む。頭がぼんやりしている。もう、何が何だか分からない。どこからが仕組まれたことなのか。いつから、誰が、どんな目的を持ってこの件に参画しているのか。どこからが、偶然なのか。そんなこと、知る由もないというのに。
女は迫る。レディガゲンとの攻防の中で、驚くほど冷静に考える自分がいた。
それももう、保たない。




