第八話 走れ、モービル!
逃走中のジャックを捕まえられるかもしれない――。
そう言い残すと、シャルロッテはアストロラーベを握りしめて、すぐさま部屋を後にしようとした。
紅い髪が振り乱され、丈の短いインバネスコートが膨らむ。
クルリと反転した彼女の肩を、私は再び大慌てでつかんだ。
「待って、一人で行くの?」
「ええ! もし戦いになったら危険だからね、一般人のシェリーは巻き込めないわ」
「こう見えても、戦場帰りの元軍人よ? 護身術は一通り学んでいるし、星錬術もほんの少しだけど使えるわ。それに――」
窓の外を見やれば、街には霧が立ち込めてきていた。
ガラスの表面が結露して、水が滴り落ちている。
いつもならばはっきり見える向かいの紳士服店の看板が、馬鹿に霞んで見えた。
リンデンは霧の都とも称される土地だが、これほどの濃霧は久しぶりだ。
雨は一旦収まっているようだが、湿度が凄まじく、立っているだけで肌が濡れるようだ。
「この霧で水曜日よ? いつ雨が降り出してもおかしくないし、今のあなたはほとんど戦えないんじゃないの?」
星錬術師はそれぞれ惑星属性と呼ばれるものを持っている。
これは術者の生まれ星座によって左右される、ある種の天性のようなものだ。
日・月・火・水・木・金・土の七つが存在し、曜日とも対応している。
日が獅子宮。
月が巨蟹宮。
火が天蝎宮と白羊宮。
水が双児宮と処女宮。
木が人馬宮と双魚宮。
金が金牛宮と天秤宮。
土が磨蝎宮と宝瓶宮と言った具合だ。
例えば、獅子宮生まれの術師は日の属性に分類され、日曜日に最大限の能力を発揮できる。
が、逆に相性の悪い月曜日になると極端に能力が下がってしまう。
なので星錬術師にとっては、曜日は己の力を発揮するための極めて重要な要素の一つだ。
依然聞いた話だと、シャルロッテは炎の扱いに優れた火星の星錬術師だ。
水曜日、ましてや霧が立ち込める様な状態では、実力のほとんどを発揮できない。
水と火の相性は最悪で、並の術師ならば仕事できないほど。
いくら彼女が凄腕の星錬術師とはいえ、たった一人でジャックに挑むのは無謀すぎる。
「……そうね、確かに今日はきついわ。私はガチガチの火星だからね、普段の三分の一ってとこかしら」
「だったら、私もついていくわ! 私は木星の星錬術師だから、水への相性は結構いいわよ」
「へえ、シェリーって木星だったんだ! てっきり金星だと思ってたわ。可愛くて女らしいし」
興味深げな顔をすると、ほうほうと何度も頷くシャルロッテ。
私が金星でなかったのが、よっぽど予想外だったらしい。
金星と言えば女性と色恋沙汰の象徴。
美しいというイメージももちろんあるが、同時にやや尻軽で恋多き女といった印象も受ける。
……自分では堅い女だと思っていただけに、なんだか、複雑な気分だ。
「……悪かったわね、木星で。それより、急がないと逃げられちゃうわよ!」
「おっとッ!! シェリー、走るわよ! エリカがモービルに乗って待ってる!」
「わかったわ!」
雨天用のロングコートを引っ掴むと、カバンを手に、走り出したシャルロッテの後に続く。
玄関のドアを開けると、たちまちモービルに乗ったエリカがクラクションを鳴らした。
思いっきり吹かされたエンジンが、機関砲にも似た乾いた爆音を響かせる。
深い緑色をした車体が、水に濡れてもなお静かな光を放っていた。
エリカはなかなかいいモービルに乗っている――と、シャルロッテは言っていたが、予想以上だ。
疾走する猛獣を思わせる、躍動感あふれるフォルムをした紅い車体。
後部から飛び出す太い排気筒が、大馬力のエンジンを積んでいることをうかがわせる。
箱馬車の延長線上のような野暮ったいデザインの大衆車とは明らかに異なる、未来志向のデザイン。
最新鋭のスポーツモービルだ、それもかなり改造が加えられている。
「二人とも、はよ乗った乗った!」
「はいはいッ!」
「よいしょっと!」
窓を開けて叫ぶエリカの声に導かれ、素早く車内へと身を滑り込ませる。
高級感のある革張りのシートが、しっとりとした質感で体を包んだ。
私たちの乗車を振り返って確認したエリカは、すぐさま前に向き直ると、ハンドルを強く握りしめる。
「エリカ、場所は分かってるわよね?」
「もちろん、ハイス街の裏路地やろ?」
「ええ! でも出発する前に、もう一度、詳しい場所を確認するわ」
後ろのボンネットの上に置かれていた、鉱石ラジオの親玉のような機械。
シャルロッテはそれを下におろすと、すぐさまいくつも取り付けられているダイヤルの調整を始めた。
何をしているのかさっぱりわからないが、砂利を鳴らしているような耳障りな音がスピーカーから響いてくる。
「何をしてるの?」
「騎士庁の電信を傍受してるのよ。ちょっと待ってて!」
「へえ、そんなことできるのね……」
「ほんとはやっちゃダメなんだけどね、特別よ」
ペロッと舌を出して笑うシャルロッテ。
それで許してくれたら騎士はいらないと思うが、そこはまあご愛嬌か。
「……よし、調整完了。うんうん、西ね。スラムの方向か……」
しばらくして、通信機の調整を完了したシャルロッテは、符牒を記した手帳を片手に耳を澄ませた。
ツーツートンっと、テンポのいい電子音が聞こえてくる。
オペレータでも通信兵でもない私には、何がなんだかさっぱりだった。
だが、シャルロッテは軽く聞き流しただけでその内容が理解できたようだ。
彼女は口元をニイッと歪め、笑う。
「西だわ! ハイスの西にあるスラムへ向かって! まだジャックはそこにいるッ!!」
「よっしゃ、一気に行くで!」
威勢のいい声と共に、エリカの脚が一気にアクセルペダルを踏み込む。
タイヤがにわかに軋みを上げ、上から巨大な手で押さえつけられるかのような、加速度がにわかに全身を襲ってきた。
体が座席にめり込むような感覚を覚える。
窓を打ち付ける雨粒。
後ろにすっ飛んで行く街並み。
雨のせいか通行量の少ない通りを、信じられないような勢いでモービルが走り抜けていく。
未体験の速さに、思わず、変な声が漏れてしまった。
「エ、エリカ!? スピード出し過ぎじゃない!?」
「平気平気! V型六気筒エンジンやで! 雨じゃなければ、もっと出せるわ!」
「エンジンの問題じゃなくて――わッ!!」
エリカの乱暴すぎる運転に抗議していると、脇道から、馬車がひょっこりと顔をのぞかせた。
驚きのあまり、石化してしまう私。
周囲の景色が一瞬、何もかも止まって見えた。
血管がのたうつような、不快極まりない寒気が背中を襲う。
刹那、全身が強烈な浮遊感に包まれた。
エリカが上半身を傾けて急ハンドルを切ると同時に、タイヤがキュラキュラッと激しい摩擦音を響かせ、モービルの車体が半分ほど浮き上がる。
曲芸でもなかなか見ない、片輪走行。
斜めになった車体は、馬と街灯の間を見事にすり抜けていった。
「いィッ!?」
――ひっくり返る!
恐怖で顔を真っ青にした私は、口を半開きにして素っ頓狂な声を上げた。
すぐ後ろから、驚いた馬のいななきも聞こえる。
だが、どうにかタイヤは無事に地面へと戻ってくれた。
トランポリンよろしく弾んだサスペンションの感触が、何とも気持ち悪い。
まったく、生きた心地がしなかった。
「はあ、はあ……!」
「すっごい!」
げっそりと荒い息をする私の隣で、シャルロッテが嬌声を上げた。
にわかには信じがたいが、先ほどの騒ぎを楽しいと感じたらしい。
深い青の瞳は、いつになくキラキラと輝いている。
その興奮した声に応えるように、エリカが軽くこちらへ振り返った。
「せやろ! 私のドライビングテクニックはリンデン一やで!」
「さすが! この調子なら、現場まであと五分もあればつけそうね!」
「任せとき! 三分で着いたる!」
力強い返答と共に、再びエンジンが唸りを上げる。
排気筒から、白い煙が猛然と吐き出された。
「え、ええッ!?」
――これ以上スピードを出すなんて、正気なの!?
私は身を小さくすると、前屈みになって座席の下を見る。
怖くて、外を見ていられなかった。
視線の先で膝がふるふると情けなく震える。
「か、神様……!」
私は信じてもいない神に、久方ぶりに祈りをささげた――。
エリカの宣言から、約三分後。
車体が小刻みに揺れて、エンジン音が唐突に小さくなった。
恐る恐る視線を上げてみれば、モービルは道の端に寄せてしっかりと停車していた。
ビルの壁に描かれた極彩色の落書きが、疲れた目にも鮮やかに映りこんでくる。
前方に座り込んでいる酔っぱらいの浮浪者が、見慣れない形をしたこのモービルに、少し驚いたような顔をしていた。
ハイス街の西に広がるスラム。
ジャックが逃亡中だというそこに、無事、到着できたようだ。
私はやれやれと胸をなでおろすと、大きく安堵の息を漏らす。
さながら、嵐の海を小舟で渡って来たような気分だった。
「助かったわ……」
「なに言ってんのよ、これからが大変じゃない」
「……それもそうね」
ごもっともな意見。
頷きを返すと、上半身を起こして、軽く背筋を伸ばす。
大きく息を吸い込み、吐き出す。
気持ちが少し落ち着いた。
時が経つにつれて霧で白くなっていく街は、気味が悪いほどの静寂に満ちていた。
この中に幾人もの血を啜ってきた悪魔が潜んでいると考えると、身の縮むような思いがする。
口の中が渇き、脳の底に鉛が溜まっていくかのような、重苦しい緊張が身体を満たす。
「さてと、降りるわよ。準備はいい?」
「ええ、大丈夫よ」
「気を付けてな。ちゃんと帰ってくるんやで? 待ってるから」
「わかったわ! 絶対に捕まえてやるんだから!」
エリカの言葉に、シャルロッテは親指を挙げてウィンクをした。
重い気配を振り払うかのように、彼女は高らかな宣言を響かせる。
青い瞳には、強い覚悟を感じさせる澄み切った光が宿っていた。
私は顔をほぐすようにして表情を和らげると、彼女に続いて、親指を挙げる。
細い指先に、いつになく力がこもった。
それを見たエリカは安堵したように笑うと、そのまま座席に深く腰を埋めた。
ブレーキのモービルのエンジンが止まる。
安全を確認した私は、布に包んだメスを数本、ポケットへと滑り込ませて車外へと出た。
たちまち、コートの表面が小さな水滴で覆われる。
粒は細かいが、霧に混じって雨が降っているようだ。
街灯の明かりが乱反射して、光の輪が出来ているかのように見えた。
「意外と降ってるわね」
「視界が悪いわ。警戒して」
「大丈夫、砂嵐でこういうのは慣れてる」
二人で肩を寄せ合いながら、ビルの谷間へと歩を進めていく。
私はポケットに入れたメスを固く握ると、反対側のポケットから黒い手帳を取り出した。
星錬術を発動するための星光陣を、あらかじめ紙に書いて古の魔道書よろしく用意していたのだ。
もっとも、術式を書いたメモは一回につき一枚の使い捨てで、アストロラーベを使ったものに比べると術のバリエーションや威力も相当に限られる。
あくまで、補助的なものだ。
だが、シャルロッテが本調子ではない今はこれとメスだけが頼りだった。
路地へと歩を進めると、すえた臭いが鼻を突いた。
倒れて中身がぶっ散らかったゴミ箱。
どこかの酔っ払いが吐いたのであろう、見ているだけで気持ちの悪くなる吐瀉物。
残飯を漁っていた猫が、私たちに気づいてさっと飛びのいていった。
陰気でうらぶれた雰囲気が、あちこちからにじみ出ている。
「サウスブリングもひどかったけど、ここはそれ以上かも知れないわね」
「そうね。少なくとも、落書きはなかったわ」
さらに歩いていくと、やがて小さな運河の畔へと出た。
テーズ川から、工業用水と資材の搬入用に水を引き込んだものらしい。
対岸にはいくつかの工場が林立していて、その下の岸辺はちょっとした港のようになっている。
今は動いていなかったが、船から荷物を引き上げるためのクレーンまで備えられていた。
岸壁には船が何隻か停泊していて、それらを盗み出すことはジャックならばかなり容易に見える。
「ここから船に乗ったなら、今頃はテーズ川の上ね……。西に逃げてきたのはこのためだったのかしら」
「待って。そう思わせるための罠かもしれないわ。このあたりをもう少し捜索してみましょ」
「わかったわ」
専門家であるシャルロッテの意見に従い、周囲の捜索を開始する。
ひとまず、対岸の工場群をのぞいてみることにした私たちは、少し先に行ったところにある橋を渡った。
そうして林立する建屋の前をゆっくりと歩いていくと、シャルロッテがふいに足を止める。
彼女は顔をゆっくりと上げると、眼前の建物を食い入るような眼で入念に観察し始める。
「この建物がどうかしたの?」
「少し、変だなと思って」
「そうね。周りの工場に比べて、やたらと小さいわね」
他の工場が労働者を数十人単位で使っているようなところばかりなのに、目の前の工場は随分と小規模だった。
一般的な一軒家より、一回り大きい程度でしかない。
工場と言うよりも、工房と言うのが相応しいぐらいだ。
煙突が異様に大きいことから工場とわかるが、このどこか垢抜けない民家風の建物は、周囲と比べてかなり場違いで違和感がある。
高級住宅地に、ぽつんとあばら家が建っているような状態だ。
しかし、そんな私の指摘にシャルロッテは首を横に振る。
「違うわ、このドアよ」
「ドア?」
「そう。鍵穴がないでしょ? なのに動かないわ」
「内側から鍵がかかっているんじゃないの?」
木製のドアの取っ手を握り、うんうんと唸って見せるシャルロッテ。
単に内側から鍵をかけているとしか思えなかった私は、彼女の行動に呆れて手を上げた。
しかし、シャルロッテは分かってないなとばかりに、鼻を鳴らす。
「よく見て。脇に、輪っかみたいのが飛び出してるでしょ?」
「そうね、出てるわ」
よく見れば、ドアの脇の壁にPのような形をした金具が埋め込まれていた。
シャルロッテはそれを得意げに指さすと、自らの推理を披露し始める。
「おそらくこの扉は、鎖と南京錠を使って外側から鍵をかけるタイプのものなのよ。脇の輪っかは、鎖を通すための留め具。それが何故か動かないわ。どういうことかわかる?」
「ドアが内側から固定されてる? 中の人によって?」
「そう! だけど、この家の中からはほとんど音がしないし、ランプもついていない。普通に人がいるにしては、静かすぎるわ。こんなことをするのは、いま誰かに発見されたら困る――ジャックぐらいしかいないのよッ!!!!」
高らかに叫ぶや否や、シャルロッテはドアに向かって強烈な飛び蹴りをかました。
格闘技でも習っていたのかと言いたくなるぐらい、見事なフォームだ。
古びた木製の扉は、その強烈な勢いに耐え切れることができず、枠が折れて内側へと倒れた。
埃が舞い上がり、ドスンッと鈍い音が響き渡る。
やがて目の前に現れたのは――闇に浮かぶ白い仮面だった。
部屋の暗がりの中に、黒いマントに身を包んだ何者かがいる。
髪形を分からなくするためのシルクハットに、顔を隠すための白々とした仮面。
それぞれ着用している意味は分かるが、まったくもって異様だった。
まさか、奇術師でも気取っているのだろうか。
人を楽しませることなどない、ただひたすらに悍ましいだけの存在なのに――。
「あんたがジャックね?」
「いかにも」
重々しい、この世のものとは思えない声が聞こえた。
昏い洞窟か何かに風が吹き込み、唸りを上げているようである。
気持ち悪い。
脈拍が早く大きくなり、さながら全身が心臓になってしまったかのようだ。
何だか心細くなった手が、自然とポケットの中のメスを握る。
戦場においては心強い味方だったそれが、この得体の知れない化け物を前にしては、少々心もとなく思えた。
――まさか、これほどとは。
どうにか口に出すことは避けたが、心がそう叫んだ。
すると、そんな私の怯えを感じ取ったのだろう。
シャルロッテは私の肩に手を置き、大丈夫だとばかりに笑って見せる。
彼女の瞳に恐怖はなく、逆にどこか愉しげですらあった。
冒険譚に描かれる英雄のようだ。
その日差しのように煌めく顔を見た私は、力強い頼もしさと安心感を覚えた。
「あんなのただのハッタリよ。ビビることないわ。だって、どうせ特殊なガスでも吸ってるんでしょ?」
返事はなかった。
代わりに、ジャックは黒マントを翻すと、猛然と私たち二人の間をすり抜ける。
バサリ――かすかな音と風圧だけが、その場に残された。
あまりの速さに、瞬きするほどの間であるが、二人とも動きが止まってしまう。
「行くわよ、シェリー!! 逃さないでッ!」
すぐさま再起動を果たしたシャルロッテ。
叫ぶと同時に、彼女は胸元からアストロラーベを取り出した。
素早く上蓋が開かれ、竜頭を指先がテンポよく叩き始める。
「了解ッ!!」
私もまたメスを取り出すと、手帳を開いて星錬術を使う体制を整えた。
布から解き放たれた刃が、かすかな明かりの元で閃く。
こうして、いよいよジャックとの直接対決の幕が切って落とされた――!




