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#11

 棺(ひつぎ)の中に入ったカホちゃんは、とても穏やかで、まるで眠っているような顔をしていた。少し化粧をされているせいなのか、頬や唇は健康的なピンク色で、死体と知らされなければ、もう一度キスしてあげたいと思うほどだった。

「カホコさんに、何かお供えされるものはありませんか」

 火葬場の係の人がそう尋ねたとき、その場に付き添って来ていたナツキが「はい」と手を挙げ、ようやく完成した千羽鶴を差し出した。

「あの……それと、よかったらこれも」

 と、トートバックの中から、彼女は千羽蝙蝠も取り出した。ぼく以外の人々は初めて目にするもので、一体それはなんだろう、という怪訝な顔でそれを見ていた。取り敢えず、係りの人がそれを受取ろうとしているところで、ぼくはそれを止めた。

「それは、燃やしちゃだめだよ。燃やしたらたぶん、カホちゃんがっかりするから」

 それは、なかなか苦労を重ねて作ったのであろう、立派な千羽蝙蝠だった。勿論、見栄えは、本来の千羽鶴と比べたら何となく奇妙な感じもしたけれど、カホちゃんだったらきっと、そっちの方に愛着を持つ筈だった。そして千羽蝙蝠は、その後、カホちゃんの家の仏壇に飾られることとなった。

 火葬が終わるまでの間の記憶も、ぼくには無い。親戚や、吹奏楽部の連中が、お菓子を食べながら何やかやと話している中から、ぼくは一人抜けて、何処かへ行っていた。

 トイレだったろうか。それとも、火葬施設の中を、ぶらぶらとほっつき歩いていたのだろうか。はたまた、施設の外へ行き、煙突から昇る煙の色を眺めていたのかもしれない。その、紫色の煙を見ながら、あぁ、あれはカホちゃんかな、などと考えていたのだろうか。

 しかしその煙も、本当に紫色だったのか。ただ何かの本で、火葬場から紫色の煙が上る、なんて文章を読んで、勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれない。

 そして、やがて然るべきときが来たとき、ぼくはどうして、骨上げの場所へ向かったのだろうか。ひょっとしたら、ナツキか誰かが呼びにきたのかもしれない。センパイ、骨上げ始まりますよ。しかしただの一部員という立場のナツキが、カホちゃんの骨上げまで手伝ったかどうかの記憶も、定かではない。

 そのとき、ぼくは無だったのだ。泣いてもいなかったし、苦しんでもいなかった。全くの、無という存在だった。

 唯一覚えていることと言えば、骨上げの瞬間くらいだ。現れた骨は、いったいなんの骨なのか、よくわからなかった。カホちゃんの骨であることには違いなかったが、とてもそうは思えなかった。少なくともそれは、ぼくの知っているカホちゃんではなかった。

 骨になってしまうと人間は、何だかよくわからない物体になってしまうんだなぁ、と、そう思った。コーちゃんにね、ちゃんと覚えておいてほしかったの。あのときの、病室でぼくのことをぎゅっと抱きしめてくれたときの、カホちゃんの言葉が思い浮かんだ。あたし、死んで焼かれちゃったら、もうこのおっぱいも、灰になっちゃうから。

 あぁ、あの言葉は、本当だったんだ。当たり前に思うことだったけど、単に理解しているのと、現実目の前に示されるのとでは、こうも隔たりがあるのだな、と、そう感じた。

 カホちゃんの葬儀が終わって、三日後。もう夏休みも残り二、三日となったある日、ぼくは学校を訪れた。運動場のフェンスに、端から端まで広がるくらい、横長の幕が貼られているのをぼくは見かけた。N高校吹奏楽部、吹奏楽コンクール○○支部大会、金賞受賞。赤いゴシック体の字で、太く太く、そう印刷されていた。

 美術室には、先生のいる気配はなかった。なのになぜだか、美術室の扉には鍵がかかっていなかった。ちょっと、外出しているのかな。不用心とも思えなくもなかったが、どうせこんなガラクタ倉庫、盗むようなものは何も無いだろう。それよりも、職員室へ行って鍵を借りてくる手間が省けてよかった。

 教室の奥には、ぼくの蝙蝠の絵が、キャンバス台の上に乗っていた。その前日に、ようやく仕上げられた絵だった。ふと、絵の横に小さな紙切れが置かれてあった。それには赤いペンで、A+、という評点が付けられていた。

 結局この絵を、カホちゃんが死ぬまでに完成させることは出来なかった。コンクールが終わったら、と思っていたぼくがバカだった。

 先生のA+という評価を、どう受け止めたら良いのか。完成したらカホちゃんにあげるという目的を失いつつも、それでも何とか完成させられたことに対する評価なのか。いや、そもそもこんなもの完成と呼べるのか。

 ぼくは無だった。カホちゃんが死んでからぼくは、無の存在だった。この絵はもう、ただ単に、課題として仕上げただけなのだ。もうある程度の方向性が見えている上で、完成までもっていくことは難しくはなかった。いくら心が無だとしても、技術一つだけで、何とか乗り切った。

 しかし、それがいったい何になるというのだ。この絵は一体、何のために存在しているのだ。

 ぼくは、キャンバスを両手で、思いっきり掴んだ。こんなもの。キャンバスを高く振り上げ、そのまま台に向かって、叩きつけようとした。そうすれば、この布でできたキャンバスに、脆くも大きな穴が開くに違いない。

 何週間も、苦心して作り上げた作品。しかし、別にそれで台無しにしたっていいじゃないか。どうせこの作品は、無なのだ。無のものを破壊したって、今更悔やむようなことは、もう何もないのだ。

 しかし、ぼくの手は下におりなかった。振りおろそうかと思うたび、カホちゃんとの思い出が頭の中によぎった。コーちゃん……ぼくを呼んで、微笑むカホちゃんの顔。あぁ、あぁ……。涙が、頬を伝った。まだ、こんなに……ぼくは思った。まだこんなに……カホちゃんはぼくの中で、生きていたのだ。

 あぁ、あぁ……。声に出さず、ぼくは泣いた。やがて、ゆっくりと手を下ろし、キャンバスを、元の台の上に戻した。ぼくの心は、無なんかじゃなかった。まだこんなにも、こんなにもたくさんの思いが、ぼくを満たしていたのだった。

 そのとき、ガラッ、という音がして、教室の扉が開いた。そこに、美術部の先生が立っていた。よぉ、コウヘイ。来てたのか。

「よく、仕上がっているじゃないか。その蝙蝠。お前らしく、立派に描けているよ」

 先生……違うんです。ぼくは言った。

「先生、違うんです。こんなもの、立派でもなんでもない……本当は、もっと早くに完成させるべきだったんです。おれは、この絵を、ある人に見せたかったんです。でも、完成する前にその人は……その人は、死んでしまったんです。だから、こんな絵、立派でもなんでもない。なんでもない、つまらない絵なんです」

「……コウヘイ」と、先生は低い声で言ったあと、ぼくの元へと歩いて来て、その岩のような手を、ぼくの頭に乗せた。そして、こう言ったのだった。

「コウヘイ。作品に目的なんてものは必要ないんだ。例えそれが失われたとしても、それがその作品自体の評価を下げるようなことには、絶対にならない。いや、こんな言い方は違うな。寧ろ、評価自体が、その作品にとっては、何の意味も無い。大切なのは、それを作った人間が、その作品とどう向き合ったかなんだ。どんな思いを込めたのか、どれほど苦労をかけてつくったのか。また、どんな思い出が、そこに刻まれたのか。それこそが、一番重要なんだ。目的や評価というものは、そのあとに付いてくる、ただのおまけみたいなものだ。無いなら無いでも、別に、どうだっていいじゃないか。だから、大切にしなくちゃだめだ。その人を思って、必死に描いた絵を、お前は大切にしなくちゃだめだ」

 ぼくは、また蝙蝠の絵を見た。そこには、沢山の思い出が刻まれているような、そんな気がした。元気に羽ばたくその姿は、吹奏楽コンクール支部大会で、「こうもり」の指揮をしたカホちゃんの姿を思い出させてくれた。

 そのとき、破られる筈だったその絵。今は、ぼくの家の部屋に飾られている。生前のカホちゃんの写真を持っていないぼくにとって、それは唯一、カホちゃんのことを思い出すための、形見のようなものである。

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