#10
【二〇〇三年八月】
「○○県代表、N高校。課題曲、Ⅰ。自由曲、ヨハン・シュトラウス作曲、鈴木英史編曲、喜歌劇「こうもり」セレクション。指揮、コモリカホコ」
支部大会当日。アナウンスと共に、舞台上にぼくらのN高校の吹奏楽団が入場を始めた。
カホちゃんは、また真っ黒くて大人っぽい衣装を着ていた。けれど本人曰く、それはただの仮装に過ぎないらしいのだ。喜歌劇「こうもり」のファルケ博士を真似ているだけなのだと。
「見て見てコーちゃん!面白いでしょ、これ!」
今更のように、カホちゃんが初めて衣装を披露してくれた日のことを思い出す。
「ううん……面白いって言うか……」
「え、ダメ? やっぱりちょっと、変かな……」
いや、そうじゃなくて……凄くセクシーで、どきどきする。
そんな本心は、勿論口にすることはできなかった。自分の体型が、異性に与える印象について、カホちゃんは鈍感すぎたのだ。
だから、学校に勤めている間、色んな男性教師から告白されても、全部軽く受け流してしまって、「お世辞で好きなんてことは良く言われるけど、ぜんぜんモテないんだよね、あたし。おバカだからなのかなぁ」なんて言って、よく笑っていたものだ。
でも、今となって思えば、本当にただ鈍感なわけでもなかったんだな……。
と、そんなぼくの余計でくだらない思考も、次の瞬間、一気に消え去った。カホちゃんが、タクトを振り上げたのだ。
ぼくは、カホちゃんが今日この舞台を無事に乗り切れるのか、気が気じゃなかった。演奏開始のとき、ぼくはカホちゃんのことを、ほぼ祈るような気持ちで見ていた。けれどその不安は、課題曲の最初のファンファーレが鳴り響いた瞬間から、無駄だったとわかった。
課題曲Ⅰ、「ウィナーズ-吹奏楽のための行進曲」は、厳かなトランペット一本の音から始まる。最初から合奏で始まる他の曲に比べ、難易度がかなり高い。その一人の奏者への責任があまりに重く、余所の学校の演奏では、緊張のせいでいきなり音を外してしまうところも多かった。
けれどN高の奏者、部長も務めている女子生徒は、カホちゃんのまっすぐ伸ばした手に、綺麗に音を這わせるように、揺るぎのない一直線の音を奏でた。やがてトロンボーンやオーボエも、それに習うように、徐々に音色を重ねていく。まだ打楽器すら無いそのメロディーを聴いているだけで、ぼくの胸の底から何か温かいものがこみあげてくるような気がした。
そして徐々に近づくように鳴り響くドラムロール。だが、まだそれは導入に過ぎない。一般の行進曲は、打楽器によってカチッとリズムがキープできるのに、その主役はまだまだ出番を抑えられている。管楽器の一人が僅かでも油断すれば、一気に全体が崩れることになりかねない。長い長い緊張の局面が続く。
そんな無茶とも思える曲の構成を理由に、これを課題曲に選ばなかった学校も多い筈なのに。カホちゃんは、どうしてわざわざ難解なこの曲を選んだのか。
「だって、〝ウィナーズ〟って、勝利者って意味でしょ? あたしたち、今年は勝ちにいかなきゃいけないの。だから、この曲を選ぶのよ」
思い出せば確か、そんな風な、呆れるくらい単純な理由だったな。けれど今は、それで正解だったと感じる。演奏の素晴らしさに、ぼくは今、胸を打たれている。
曲はようやく主題に入り、ドラムスの響きが、広大な大地のように広がった。そしてその上を、金管が駆け、木管が踊り出す。この行進曲は、確実にN高を勝利へ導いていると、そう確信した。
これまで他のどんな学校が演奏してきた課題曲とも、まるで違って聴こえた。それはまた、ぼくがこれまで何度も音楽室の下で絵を描きながら耳にしてきた演奏とも異なっていた。こんなに豊かで命に溢れた曲を、ぼくはこれまで耳にしたことがあっただろうか。
クライマックス。また打楽器の音が止み、しばし管楽器だけの静かな場面に変わるが、それを打ち消すようなバスドラムの音が響くと、再び力強い金管のファンファーレが鳴る。そして最後はすべての楽器が重なり、一音、大きな音を響かせた。その瞬間、楽団がまるで、とてつもなく大きな一つの玉になったような気がした。
そうして、課題曲は終了した。観客の拍手は、ここでは起こらない。自由曲が始まるまでは、僅かな沈黙が続く。楽団が譜面をめくる音だけが会場に響いた。
その沈黙の間にも、ぼくの鼓動は張り裂けそうなほど高鳴っていた。周りに聞こえるんじゃないかというくらい。明らかに興奮していた。これが、カホちゃんの命の輝きなのかと思った。
癌に侵されていながら、まだこれほどのものを作り出すことができるのか。ぼくは数週間前、病室でカホちゃんに抱きしめられたときのことを思い出していた。あのときぼくは、いっそこのまま、カホちゃんと一緒に死んでしまいたいと思った。今のぼくには、そのことが恥ずかしく思えた。
限りある命を、カホちゃんはすべて、今日のこの日に出し切るような、そんな演奏をしていた。健康な体を持ちながら、まだこの先に長い将来を抱えていながら、中途半端なままで命を捨てたいと願ったぼくのような人間が、カホちゃんを受け止めることができるのだろうかと思った。カホちゃんの方が、ぼくを奮い立たせてくれているようだった。
これじゃあ、まるで立場が逆じゃないか。ぼくは自分が、酷く情けなかった。情けなさと、感動と、そして興奮で、涙が出そうになっていた。
しかし、まだ演奏は終わっていなかった。これから、自由曲が始まるのだ。カホちゃんが好きな、「こうもり」の曲が。
ひょっとしたらカホちゃんは、自分のためにこの曲を選んだのだろうかと思った。カホちゃんは、空を羽ばたけるような翼が欲しかった。しかしそれは、鳥のような、大きくて美しいものである必要はなかった。蝙蝠みたいな翼さえあれば、それで充分だったのだ。
大空を羽ばたけなくても、楽しく踊って、歌い舞われるような、そんな翼があればよかったのだ。
カホちゃんがタクトを上げる。序盤の木管から、トランペット。続くクラリネットやフルートたちが、むじゃきで愛らしい音を奏でる。そして低音楽器が一定のテンポで音を刻んだあと、徐々に演奏は、力強さを増してくる。金管のメロディー、木管のきらめくような旋律、それが交互に二度繰り返された後に、木管と金管は交わり、演奏は豊かな広がりを見せる。
そのあとも、木管と金管の掛け合いは続くが、それはまるで、互いにダンスを見せ合っているかのようだった。穏やかで、優しい表現の木管。一方で、力強く、躍動感に溢れる金管。カホちゃんは、その両者を巧く繋いでいた。とても元気いっぱいで、楽しんでいるように。指揮台の上で跳ねるカホちゃんの姿が、そこにはあった。
その直後のドラムロールと、金管のファンファーレから、物語は一変する。何だか少し切ない、短調の音楽。一度前の主題が繰り返される部分もあるが、曲はクレシェンドしながら、悲しげな装いとなる。それはひょっとすると、ある人に恋い焦がれるような、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
やがて、オーボエのソロがはじまったころには、いっそう悲壮感の漂うような起伏を見せ始める。だが、またそのあとの、雄大で、優しげなムードに変化する感じは、どのように例えたらよいのであろうか。
そう、だんだんと回復するカホちゃん。癌と診断されながらも、力を振り絞って生きていこうとするカホちゃん。曲はまたしばらく、穏やかに続く。そのあとで、再び僅かばかり不安な陰りもみせるが、確実に力強さの方がそれを凌ぎ、着実に、着実に音楽を、明るさに向かって盛り上げてゆく。
そして終盤。曲は一気に、元気よく、弾むようなテンポを取り戻す。子どものように手を叩いて踊ったり、少しおすまし顔で、淑やかに踊ったり。いつもの、いつもの元気なカホちゃんの姿が見えた気がした。
やがて、楽団の全員が、皆手を繋いで、踊り始めているような気がした。金管も、木管も、パーカッションもコントラバスも。男子も女子も分け隔てなく、皆仲良く、踊り合っていたのだった。
ぼくも、その輪の中に混ざりたいと思った。カホちゃんは、とても、とても楽しげな様子だった。重い病を患って、ぎりぎりの状態で生きているのではなかった。人生そのものを謳歌するように、夢中で、楽しく生きていたのだ。
音楽が、終りに近づく。まだ、終わってほしくなかった。もっともっと、カホちゃんの喜んでいる姿が見ていたかった。ぼくの視界が、突然ぼやけた。ぼくには、目から溢れ出たそれを、拭くことさえままならなかった。最後のドラムロールが終わるまで、ぼくは体がマヒしたみたいに、じっとステージに目を向けていた。
そして。
演奏が終わった。周りから一斉に、拍手が巻き起こった。でもぼくは、手を動かせず、そのままでいた。カホちゃんが、客席を振り向いたのが見えた。一瞬、笑った表情が見えたような気がした。
けれど、次の瞬間だった。
カホちゃんが、その場に崩れ落ちたのが見えた。会場の拍手は、一気にどよめきに変わった。演奏を終え、楽器を持ってまっすぐ起立していた部員たちも、慌ててカホちゃんの元へ駆け寄った。特に、小さい楽器の者は、それを椅子の上や、床の上に置くことも忘れて。
そのときぼくは、一体何をしていたのだろう。どうしても、それだけが思い出せない。大勢の観客が喚いている中で、ぼくは、今全てが終わってしまったのだということを感じていた。これからぼくがどこにいくのか、これから世界がどこへ向かうのか、何もわからなかった。まるで、全てが闇に包まれてしまったかのような、そんな感覚だった。
ひょっとするとぼくは、何かを叫んだのかもしれない。カホちゃん――。しかしその叫び声は、もう本人には届かないだろうということは、わかっていた。舞台から崩れ落ちたカホちゃんの体は、既に無だった。いつものカホちゃんは、もうそこにはいなかった。
ざわめきの中でぼくは、何かが空に飛び上っていったのを、見た気がした。それは、よくよく考えてみれば、ただの幻に違いない。けれど、何となく、見えた気がしたのだ。小さくて可愛い蝙蝠が、ホールの天井を突き抜けて、高い高い空へ、飛んで行ってしまったのが。




