#9
「どう?体の具合は」
カホちゃんが運ばれてから、また三日ほどが経過しようとしていた。
「ダメだね、あたし。折角、支部大会への出場が決まったのに。また、生徒たちに迷惑かけちゃって」
患者衣姿のカホちゃんは、ちょっと困ったような表情でそう溜め息をついた。倒れた直後よりは、また少し回復してそうで、ぼくは安心した。
「何言ってるんだよ。もう、ここまできたら充分だって。あとはゆっくり休んだらいいさ」
「ダメよ、コーちゃん。甘やかさないで。もう代表には選ばれちゃったんだもの。支部大会でもちゃんと、金賞取ってこなきゃ」
学校では、既に臨時の先生が採用されていた。勿論、臨時というのは名目で、カホちゃんがいなくなったあとの後任としても、その先生が務めるということが決まっていた。昨日チラリと音楽室に寄って見たところ、眼鏡をかけた、優しそうな男性教師だった。
けれど、カホちゃんはどうやら、支部大会までは自分が指揮棒を振っていたいようだ。
「まだ、もう一つの夢は掴めてないもの。最後の最後まで、絶対に諦めるつもりはないんだから」
ベッドの上でそう言い張るカホちゃんが、ぼくには頼もしくも見え、また同時に、痛ましくも思えた。
「ねぇ、ところでコーちゃん。美術部の方は順調?」
突然そう言われて、ぼくはハッとした。結局あれから三週間近く経つけど、あの蝙蝠の絵は一向に進んでいなかった。
部活自体をサボっているわけではない。一度先生に怒られたこともあり、部室には一応通って、絵の制作を進めようとしてはいる。けれど、キャンバスを前にした瞬間、どうしても自信が湧かなくなるのだ。
だから、いっそこの作品は保留にしようと思って、新しく静物のクロッキー画や水彩画等を描いているのだけれど、どれもあまり大した仕上がりにならなかった。
それは、何だか長く暗いトンネルの中に閉じ込められたような気分だった。蝙蝠が飛び交う、古く使われなくなったトンネルだ。ぼくはその中でいくつもの懐中電灯を使い、何とか暗がりを取り除こうとするのだけれど、あまりに闇が深すぎて、光は途中で遮断されてしまう。
どんなに新しい絵を描こうとしてもうまくいかないのは、それと同じ状況だった。最初に捕らわれている闇が巨大すぎて、それを振りほどかない限りは一向に前へと進めないのだ。
「今、蝙蝠の絵を描いてるんだ。美術部の先生から、課題として出されてさ……でも、どんな風に仕上げれば良いのかわからなくて、途中で筆が止まってるんだよね」
カホちゃんは、夏の海岸に沈む夕日のような優しい顔で微笑み、「まぁ、コウモリ。あたしの好きな、コウモリ」そう言って、ぼくの手を握った。
「完成したらその絵、あたしにプレゼントしてくれる?コーちゃんの元気いっぱいの絵、あたし、楽しみにしてるから」
言われてぼくは、不安な顔を慌てて消し去った。「も、もちろんだよ。カホちゃん、楽しみにしてて」無理矢理作った笑顔で、そう言った。
「じゃあ、おれ、学校に戻って絵の続きをやるね。カホちゃんも、退院許可出るまで、あまり無理しないで」
カホちゃんの手を離すと、ぼくはそう言って、病室から出ていこうとした。くるりと後ろを向いた、その時だった。待って、カホちゃんのその声が、ぼくの足を止めた。
「待って。あとちょっとだけ、傍にいて」
その声は、先ほどの元気な声とはうって変って、何だか少し、震えているような気がした。そして振り向くと、案の定、カホちゃんは泣いていた。
「カホちゃん……大丈夫? カホちゃん……」
もう一度、カホちゃんの傍に寄った。するとカホちゃんは、突然ぼくの体の後ろに手を回し、ぎゅっと抱きついた。驚いて、一瞬言葉に詰まった。
小さいとき、カホちゃんはよくぼくのことを抱きしめてくれたが、小学校の高学年に上がったぐらいから、ぼくは何だか恥ずかしくなって、カホちゃんから抱きしめられることを拒むようになった。だからそれは、もう七、八年ぶりくらいのことだった。
「ちょっと……カホちゃん、恥ずかしいよ。よしてよ」
しかし何とか搾り出すようにしてそう言うと、カホちゃんは逆に、もっと強く抱いてくるのだ。そして、ぼくの耳元で、
「お願い、コーちゃん、ちょっとの間だけ、このままでいさせて」
涙声で、そう言った。それにぼくは、何も返すことができなかった。
暫くぼくが黙っていると、カホちゃんは涙声のままで、喋り始めた。
「コーちゃん、こうやって、いつもいっしょにいてくれて、ありがとう」
それにぼくは、ただ、うんと答えた。
「コーちゃんがまだちっちゃいころから、あたしたち、たくさんたくさん、遊んだり、お話したりしたよね」うん。
「そして、こうやって抱きしめあったよね」うん。
「でも、あたしに抱きしめられて、コーちゃん、いつも嫌そうにしてたよね」
「そ、そんなことないよ」
慌てて、否定に切り替えた。抱きしめられることを拒み始めたのは、それが恥ずかしくなったからだ。
「じゃあ、コーちゃん。あたしに抱きしめられて、どんな気分だった?」
「ど、どんなって……」ぼくは、返答に困った。普通なら、安らぐ、とか、落ち着く、といった答えが妥当なところだったかもしれない。しかしそのときのぼくの気分と言ったら、そんなものからは著しくかけ離れていた。
そしてカホちゃんは、そんなぼくの気持ちなんか、直ぐに悟ってしまうのだ。ふと、カホちゃんはぼくを抱きしめていた手を緩めると、右手だけを前の方に持ってきて、それでそっと、ぼくの心臓に触れた。
「コーちゃん。何だかコーちゃんの胸、凄くどきどきいってるよ?」
ぼくは、何も言い返せなかった。するとカホちゃんは、クスリと笑って、こう言うのだ。
「やっぱり、コーちゃんも男の子なんだね……あたしみたいのが相手でも、男の子としてコーフンしちゃうんだね」
正直な話、ぼくはその時きっと、顔が茹でダコのように真っ赤になっていたことだろう。カホちゃんの美人の顔が、ぼくの目の前にあった。そしてそのふくよかな胸も、つい先ほどまで、ぼくの胸に押し付けられていたのだ。
と、急にカホちゃんは、ぼくの両手をとり、それぞれ、自分の両方の胸の上に当てた。ぼくはびっくりして、まずその手を見、それからカホちゃんの顔を見た。カホちゃんは、泣いたあとの少しはにかんだような笑顔をしていた。ぼくの手に、カホちゃんの胸の柔らかい感じが、患者衣越しに伝わってきた。
「……どう? 触って気持ちいいかな、あたしのおっぱい……」
「うっ、うん……」ぼくは答えた。カホちゃんの、というより、女性の胸を手で触ったのは、それが初めてだった。カホちゃんはぎゅっと、ぼくの手を胸に押し付けていった。
「コーちゃんにね、ちゃんと覚えておいてほしかったの。あたし、死んで焼かれちゃったら、もうこのおっぱいも、灰になっちゃうから……だから、しっかりと感じて、覚えておいてほしかったの」
カホちゃんはそう言うと、今度は顔を近づけてきた。
ぼくはカホちゃんのキスを、割とすんなりと受け入れたように思う。カホちゃんの柔らかい唇を、ぼくは直接自分の唇で感じることができた。夢ではなく、現実のキスだ。それはとても気持ちがよくて、泣けてきそうなくらい嬉しいことのように感じた。
いや、実際そのときに、ぼくの目からは涙がこぼれたのだった。それは頬を伝い、顎のあたりまで達した。また一方で、ぼくの心は張り裂けそうなくらい不安にもなっていった。
カホちゃんのこの柔らかい唇や、胸……体そのもの。そして、その中にあるこの心。それら全てが、近いうちに無くなってしまうのだ。死ぬということは、何も残らないということなのだった。その事実を、ぼくはこのとき、ようやく理解したような気がしたのだった。
唇を離した後、ぼくはまだ何も言うことができないでいた。ただ何も言えないままで、カホちゃんの胸の上にあったぼくの手を、まず腋のほうにずらし、それからカホちゃんの背中に回した。そして今度はぼくの方から、カホちゃんの体を強く抱きしめたのだった。
恥ずかしいとか、もうそんな感情はどこかへ追いやられてしまった。できることなら、まだそんなものにも残っていてもらいたかった。この、心にヒビが入って、少しずつ崩れていってしまうような、そんな感覚が、少しでも和らぐのなら。
ぼくらは、互いの頬と頬をくっつけ合わせた。カホちゃんの息が、ぼくの耳にかかる。そして髪からは、優しい匂いが漂ってきていた。入院中で、普段使ってるシャンプーの匂いが薄れている分だけ、余計に。ずっとずっと嗅いでいたくなる、カホちゃんの匂い。
カホちゃんをこんなに近く感じたのは、そのときが初めてだった。「コーちゃん」ぼくの耳元で、カホちゃんが囁く。
「コーちゃん。あたしね、コーちゃんが生まれてきたとき、一目でコーちゃんのこと好きになっちゃったんだよ」
ぼくは暫く相槌を返すこともなく、静かに話を聞いていた。
「赤ちゃんのこと好きになっちゃうなんて、おかしいと思うかもしれないけれど、そのときのコーちゃん、ほんとうに可愛かったんだから。ぎゅって、抱きしめたくなるくらいに。そしてコーちゃん、あたしが抱くと、本当に嬉しそうにするんだもの。お母さんに抱かれても泣いていたのに、あたしが抱くと、急に楽しそうに笑って……。そんなことがあったからか、あたし、何となく気づいたの。あたしにとってこの子は、きっと将来、とてもたいせつで、かけがえのない存在になるんだろうって」
それはひょっとして、他人が聞いたら、酷く愚かしく、馬鹿みたいな話に聞えたかもしれない。けれどぼくらは実際に、こうしてお互いのことをかけがえのない存在として、認めるような仲になっていたのだ。
ぼくは胸の奥から溢れ出て来るような感情を抑えきれず、またカホちゃんを抱く手に、ぎゅっと力を込めてしまった。
「だから、あたし、自分がまだ大人じゃなくて、コーちゃんと同い年の女の子だったらどんなにいいだろうって、そう思ったの。一緒に大きくなって、同じ学校に通えて、同じように遊んで。そうやって、一緒に成長できるような仲だったら、どんなにいいだろうって、そう思ったの」
ぼくは、自分より二〇歳も離れたカホちゃんを、おばさんだとも、お姉さんだとも思っていなかった。でもその理由は、カホちゃんが、他の大人とは全然違っていたからだった。幼い女の子みたいな顔、幼い女の子みたいな声、幼い女の子みたいな性格……いや、違う。それだけじゃない。
カホちゃんは、ぼくとずっと、同じ目線で生きてくれていたのだ。純粋にぼくのことを、一人の人間として認め、愛してくれていたのだ。
「あたし、凄く変なおばさんだったでしょ? まるで子どもみたいに振舞って、ずっとコーちゃんのこと追いかけて。嫌だったよね、気味悪かったよね。愚かだったでしょ、まるで、自分がヴァンパイアみたいに、不老不死だとでも思い込んでいるみたいで。本当は、コーちゃんの倍以上、年寄りのクセにね」
「カホちゃん……やめてよ。カホちゃん。カホちゃんはおばさんなんかじゃないって。カホちゃんは、女の子だよ。俺にとって、ずっとずっと、可愛い女の子だよ」
嫌だった。カホちゃんがだんだんと、歳をとっていくようなのが。でも、それは抗えない運命だった。季節が移ろいゆくように。太陽が沈んで、また昇るように。潮が引いて、また満ちていくように。カホちゃんの死を、もう誰の手にも止めることはできないのだ。
「でもね、コーちゃん」
カホちゃんは、ぼくの腕を掴み、ゆっくり自分の体から離してから、そう言った。そのときぼくと向き合ったその目には、星のようにきらきらした涙が、たくさん、たくさん溢れていた。ぼくは、それを全部すくい取ってあげて、宝石箱入れの中に、ずっとずっと仕舞い込んであげていたいと思った。
「あたし、ヴァンパイアじゃなくてよかった。だってヴァンパイアだったら、ずっとずっと、死ぬことができないでしょう? コーちゃんよりも長生きなんて、あたし、嫌だから。それにきっと、コーちゃんだってこれから、あたしなんかよりもっと、もっと好きになる人が出来る筈なの。もっと若くて、可愛い子が。そうなったらあたし、嫉妬することでしか、生きていけなくなっちゃうから」
カホちゃんは泣きながら、笑顔を作って、ぺろりと舌を出してみせた。涙ながらに笑っているカホちゃんの顔は、もうぼくの感情を抑える弁が、どこかへ吹き飛んで粉々になってしまうくらい、いじらしくて、愛しくて、切なかった。
カホちゃんは、もう一度ぼくのことを、きつく抱きしめてくれた。できることなら、ぼくももう、この場で殺して欲しかった。カホちゃんと一緒に、このまま死んでしまいたかった。そうでなきゃ、もうぼくの人生はこの後、残る全てが闇のような気がしてならなかった。
けれど、ぼくには自殺以外に、死ねる方法がなかったのだ。そして自殺という選択肢は、これから癌で死ぬカホちゃんの運命に対する、冒涜以外の何ものでもなかった。
これはきっと、罰なのだ。今までずっと、カホちゃんと一緒にいれて、幸せの中に浸りっきりになっていたぼくに対する、天の罰なのだった。神は恐らく、罪ということに関しては、誰にでも平等に与えるものなのだ。
この世はきっと、幸せを破壊する神しか存在しないのだろう。幸せを守る神などというものは、どこにもいないのだ。もしそのようなものが存在するとしたら、きっとヴァンパイアだって、実在してしまうということになるのだから。
◇
病室を出たとき、きっとぼくの目は、泣き腫らして真っ赤になっていた筈だった。そんなところ、看護婦さんやお医者さんたちにも見られたくなかった。なるべく下を向いて、そそくさと病院から立ち去ってしまいたかった。
そんなときタイミング悪く、また吹奏楽部一年生の、ナツキに会った。彼女は手に、きらきら輝く、金や銀やラメ入りの折り紙で折られた鶴が、幾重にも連なったものを手に携えていた。それがいつぞや言っていた、千羽鶴に違いなかった。
「イチノセセンパイ?」
と、ぼくを見るなり彼女は、疑問形で声をかけてきた。
「よ、よぅ」
ぼくは、少し気分が悪いようなフリをして、右手で眉毛のあたりを押さえながら、ナツキに声をかけた。バカみたいかもしれないが、涙を隠すための苦肉の策だった。
そんなぼくのささやかな努力に気付いたのか気付かないのか、ナツキはぼくの前に、折り鶴を差し出した。
「見てください! 遂にできました!」
「もう……千羽いったの?」
訊くと、彼女はぶんぶん、首を横に振った。
「まだ、五〇〇羽です。あと、半分作らないと!」
……なんだ、そうなのか。はぁ、とぼくは、思わず溜め息をついてしまった。よくよく考えれば、五〇〇羽折っただけでも賞賛に値するだろうに。彼女の期待の裏切り方が、それを上回ってしまっていたのである。やっぱりこの子、おかしいんじゃないか。そう思い、できるだけ早く、彼女のそばから離れたかった。
「それよりセンパイ! センパイに見せたいものがあるんです!」
と、彼女は、「ハイ」と一旦ぼくの左手に千羽鶴ならぬ五〇〇羽鶴を預けると、肩に下げていた大きめのトートバックの中から、見覚えのある、黒くて薄っぺらな作品を取り出した。なんだ、また結局蝙蝠作ったのか?そう思ったのだが。
次の瞬間、ぼくはぎょっとしてしまうことになったのだった。彼女が一枚の蝙蝠をトートバックの中から引っ張り出すと、その下から芋蔓式に、同じ形の折り紙が、ずらずらっと連なって出てきたのだ。こ、これは、千羽蝙蝠!?
「見てください! センパイからは鶴にしなよって言われたけれど、一応、コウモリバージョンも作ってみたんです。そしたらこれが、結構チャーミングで……」
確かにそれは、なかなかに面白い作品に仕上がっていた。それというのも、蝙蝠が黒一色ではなくて、赤や黄や青や、色んな色の折り紙で折られていたからだった。
「別に、黒に統一しちゃうことなんて、なかったんですよね。こうやって色んな色をつなげれば、可愛く作れるってこと、簡単なことなのに私、全然気づきませんでした」
ふっ、ぼくは笑ってしまった。ぼくだって、全然気づかなかった。千羽蝙蝠と聞いて、真っ黒い蝙蝠が沢山連なっているようなものしか想像できないでいた。カホちゃんが好きな蝙蝠は、全然そんなのじゃないのに。もっと可愛らしく、愉快で、楽しいものなのに。
「なぁ、N高のコンクールの自由曲、あれ、どんな曲か、知ってる?」
と、病院の廊下の壁に寄り掛かり、相変わらず右手で目頭を押さえた体勢のままで、ぼくはナツキに語りかけた。何とか、声の調子は普通だった。ここで声が震えていたら、何もかも台無しだ。
「はい、『「こうもり」セレクション』ですよね。何だか、とっても元気な曲の」
「原曲は、聴いたことあるか?」
「げんきょく?」
ポカンとして、彼女は尋ねる。どうやら、一から説明する必要があるみたいだった。
「あれはね、ヨハン・シュトラウスの、喜歌劇「こうもり」序曲っていうオーケストラの曲を、吹奏楽用に編曲してあるものなんだ」
ぼくは、左手に五〇〇羽鶴を下げたまま、喋り始めた。
「キカゲキ、わかるかな、〝喜びの歌劇〟と書いて、喜歌劇。つまり、愉快なオペラの曲なんだ」
「愉快な、コウモリたちが出てくるオペラなんですか?」
ふふっ、僅かに笑って、ぼくは答える。
「違うよ。劇中に登場する、ファルケ博士っていうキャラクターのアダ名なんだ。その由来も、蝙蝠みたいに不気味だからってんじゃなくてね。仮装舞踏会に蝙蝠の格好をして行ったら、酔っぱらって帰り道の森の中で爆睡しちゃって。翌日の昼間に目が覚めて、慌てて家に帰る姿を近所の子どもたちに見られてしまって、「こうもりだ! こうもり博士だ!」って」
ナツキはクスリと笑って、「面白そう、一度観てみたいですね」そう言った。
「でも私、あの曲に原曲があるだなんて、知りませんでした」
ナツキの台詞に、ぼくはちょっと苦笑した。原曲は、聞けばきっと誰もが知っている筈の曲なのだが、流石に『「こうもり」セレクション』の場合は、少しアレンジが効きすぎているのかもしれない。
けれどもナツキの発想は、それを飛びぬけていた。
「あたし、『「こうもり」セレクション』ってタイトルだけに、コウモリ先生が作曲した曲だって思ってたんですよ」
ぼくはまたもや吹き出しそうになった。とんでもない勘違いだ。けれどぼくも、そうだったらいいな、と思えた。もしもカホちゃんが自分でシュトラウスの「こうもり」をアレンジするなら、きっとこれと同じように、元気でワクワクするような曲にしていたに違いない。
カホちゃんは、コウモリ先生というアダ名を本当に愛していた。何となく不気味なイメージのある蝙蝠を、可愛らしく、愉快なものととらえていたからだった。カホちゃんが愛し、憧れていた蝙蝠は、そんな蝙蝠なのだ。
だとすれば、ぼくが描くべき蝙蝠も、どんなものか、わかるような気がした。
「センパイ」
と、ナツキはまた、ぼくに何かを差し出した。千羽蝙蝠……いや、実際には、二〇羽ぐらいの短いものだ。
「センパイ、これ、あげます」
「えっ……これ、先生へのお見舞いに持ってきたものじゃないの?」
「まだ、試作品ですから。また、作り直します」
あ、試作品、ね……。ぼくは、左手に持っていた五〇〇羽鶴と交換で、その試作品の二〇羽蝙蝠を受け取った。この子、本当にカホちゃんが言うように、優しい子なんだろうか。何だか少し、調子が狂わされてしまうような気もする。
と、交換が済んだあと、ナツキは右手に五〇〇羽鶴をぶら下げ、余った左手でぼくの右手を取った。ぼくが涙を隠すために、目の上に添えていた手である。ナツキはそれを、ぼくの顔から離し、ぎゅっと強く握った。
「センパイ、もう泣かないで。元気、出してくださいね」
バレていた。ぼくが泣いていたことなんて、ナツキにはもう最初から、バレていたのだった。
◇
病院から出た後で、ぼくはまたその日、学校の美術室に足を運んだ。すっかり夏休みも中盤頃のことで、美術部の先生も、休暇を取ったり、取らなかったり、そんな日々が続いていた。
そしてその日は、先生は来ていなかった。なのでぼくは、職員室から美術部の鍵を借りてから、あの蝙蝠の絵の続きに取り掛かった。不気味な蝙蝠じゃない、カホちゃんが好きな、もっと元気で明るい蝙蝠を描かなくちゃ。そう思った。
ぼくは蝙蝠の黒い翼に、赤や、黄や、白や、もっと明るい色を混ぜた。ナツキが折り紙で作ってくれたみたいに、チャーミングな蝙蝠が、ぼくにも絵として描ける筈だった。
そしてその折り紙の蝙蝠は、ぼくが作業している隣の机の上に、ぼくの鞄の傍らに置かれていた。平べったくて、スタンプみたいに机の上にぺたりと貼りついたような蝙蝠。それは微かなウエーブを作って、連帯で飛行している家族のようにも見えた。
その一番下の、赤い蝙蝠は、丁度糸が終わる位置にあって、少しばかり、外れそうにもなっていた。しかしよくよく見ると、それは直ぐ上の方にある青い蝙蝠と、端の部分が糊づけされていて、補強してあった。なるほど、試作品であるわけだ。
しかしぼくにはそれが、ただの補強なんかじゃなくて、上の青い男の子の蝙蝠が、下の赤い女の子の蝙蝠を、引っ張ってあげているようにも見えたのだった。
がんばれ、がんばれって。一生懸命、支えてあげているみたいに。




