エピローグ1 だから嫌だと連呼した
――ようやくクラウスと帝都に戻ってきたエルダであるが、さっそく後悔していた。
「…………」
「…………」
現在エルダの部屋でテーブルを挟み、向かい合う形でお互いソファに座っている。
なぜこうなったのか。そもそもはエルダの部屋に迎え入れたことが一番の失敗であった。
スラハル大森林から撤収後、戻ってからも後処理に手間取られて慌ただしく、まともに顔を合わせる暇も無かった。
だがとにかく二人は一刻も早く会いたかった。二人になりたかった。二人っきりになりたかったのだ。
(だからって、どうして何も考えず「私の部屋でいいよね」なんて口走ったの!? うっかり昔のノリでなんてことを言ってしまったのこの口め!)
「あー……、エルダは相変わらずなんだな」
自分のほっぺをつねりながら百面相するエルダの前で、部屋を見回したクラウスがそんなことを呟く。
二人の間に、ヒラリと汚い字でなにかを書き殴ったメモが一枚舞い落ちた。
と、同時に横に積み重なった本の山が崩れそうになり、咄嗟に立ち上がって腕で抑える。反対側では同じく後ろから倒れそうになった山を背中で抑えるクラウスがいた。
その振動で、本の上に積み重なっていた――または置きっぱなしになっていたメモや紙切れがいくつも宙に舞った。
「なんか……ごめん」
エルダの部屋は、汚部屋であった。
走り書きのメモや、魔法陣を書き殴ったような紙と紙屑が部屋中に散らばり、至る所で乱雑に積み重なった荷物の上には今にも崩れそうな本の山がそびえている。
机なんてそれらに埋もれて、かろうじて物を書けるスペースが空いているだけだ。
エルダは何かにのめり込むと圧倒的に日常生活がおざなりになる。
学生時代にも、本を返しにだかでこの部屋の惨状を目にしたクラウスから散々小言を言われたのだが……数度繰り返したあたりでなにも言われなくなったのでエルダも気にしなくなった。
なので、今さら汚部屋を見られることになんの抵抗もないわけだが、今このときばかりは時と場合を考えろとさすがのエルダも冷や汗を流した。
「クラウスだからって、うっかりしてた」
帝都に戻ってきて、やっと後処理を済ませようやくできた二人の時間。
そのとき近くて手頃な場所がエルダの自室だった。
学生時代は何度も訪れていたクラウスだからと、なにも考えず手を引いて勢いよく駆け込んだ末、冒頭に戻るわけだ。
足の踏み場もない汚部屋などなんの雰囲気もない。
ただただクラウスに申し訳ない。
これまでの思い違いにようやく気が付いた男女がともに過ごすには、これ以上ないほど場違いな部屋であった。
おまけに、お互いの気持ちを知って感情が高ぶっていたあのときならいざ知らず、こうして帝都に戻って改めて顔を突き合わせるとなんだか猛烈に恥ずかしい。
などと、脳内フル回転で猛省していると。
「この部屋、ライナルト隊長も入ったのか?」
唐突にそんなことを言ってきた。
「隊長!? まさか! こんなところ見せられるわけないじゃない!」
飛び出した声は悲鳴にも似ていた。
常時このような状態であるから、以前ライナルトに部屋まで送ると言われた際は断固固辞した。だってどう考えてもあり得ないだろう。
心を開いていないだとかああだこうだと言われたが、そのようなことはない。
ただ単に、こんな汚部屋、人に見せられるものではない。
常識的に考えて皇子の目に入れていい光景ではないではないか!
しかも、きっとそれはライナルトの動向を監視しているという人たちによって報告書という形で書面にされるのだろう。それはいったいなんという羞恥プレイだ!
「……ふっ」
顔を青くするエルダをどう思ったのか、いまだに背中で積み重なった本の山を抑えるクラウスから、噴き出すような小さな吐息が聞こえた。
「そうか」
どこか満足そうな呟きを不思議に思い顔を上げれば、鬼眼鏡なんて呼び名が木端微塵に吹き飛ぶようなあの柔らかな笑みがあった。
「昔に戻ったみたいだ。この部屋は、エルダが変わっていないのだと肌で感じられて、いいな」
やめて。肌で感じないで。しかもその言い回しは嬉しくもない。
より一層身を縮こまらせるエルダの思いも知らずに、周囲を見回してクラウスは目を細めた。その顔を見て、気付く。やはりクラウスも同じだったのだと。
自分の未熟だった振る舞いに後悔して、変わってしまった相手との距離感がつかめない不安定さに手詰まりを感じてしまう苦しさ。
痛いほど覚えのあるものだった。
とはいえ。
「この汚部屋で感傷に浸らないでほしいのだけど」
「どうして。学生時代のときのようで俺は嬉しい」
「……実際、私はあの頃からなにも成長できていないよ」
今にも崩れそうな本たちをなんとか整えて、エルダは改めてソファに腰を下ろした。それを見てクラウスも倣うように腰かける。
「なにも変わっていないんだ」
エルダの時間は入舎日に聞いてしまったクラウスの言葉で止まっている。あの瞬間からなにひとつ進んでいない。
「エルダ、ならやっぱり研究課に行くといい」
顔を上げたら、当然のような顔をしてクラウスは言った。
「今からでもエルダならやれるし、俺よりもずっと素晴らしい研究者になれる。日記に記してあった魔法陣についての見解はとても素晴らしかった。あれほどの考察ができるのに配属が実戦部隊では、もったいないと心から思った」
「……本当?」
「ああ。でもそれは、全部俺のせいだな。すまなかった」
表情を暗くしたクラウスに、慌てて否定するように手を振ってみせた。
「違う、それは私の勘違いだし、もう気にしないで。……あの、そっちに行ってもいい?」
「え?」
呆気にとられたようなクラウスの返事を待たずに、エルダはサッと立ち上がるとクラウスの横に腰かけた。
ギシッとソファが沈む。
チラリと横を窺ったら、顔を真っ赤にしたクラウスがこちらを見たまま固まっていた。けれど、今のエルダの顔も同じだけ真っ赤なことだろう。
「やめろよ、俺の日記を読んだだろう? 天使が真横にいるのは心臓に悪い」
「クラウスだって私の日記を読んだでしょう? タイプど真ん中の顔が真横にいて心臓が飛び出しそう」
「……ふっ」
「……ふふっ」
どちらともなく笑いがこぼれたかと思えば、クラウスの大きな手がそっと頬に添えられる。
エルダは満たされた気持ちで瞼を閉じた。




