20 クラウスの理由
『そうしたら、きっと研究課を志望するはずだって言っていた、あの彼女にも会えるかもしれないものね』
『その話はするなと言っただろう。俺はやりたいことがあるから研究課を志望したんだ』
『ああ、そうだったわね。ごめんなさいね』
『それはもう過去の話だ。関係ない』
どうやら、エルダが聞いたこの会話には続きがあったらしい。
エルダが去ったあと、ニコラに「その過去の話のためにここまで猛勉強しておいてよく言うわ!」と大層笑われたようだ。
「あれは、エルダしか見えていない俺をただニコラがからかっていただけなんだ。いつもの軽口にすぎない会話だった」
項垂れたクラウスが「まさかエルダに聞かれていたなんて……」とこの世の終わりのように呟いている。
どうやらエルダが受け取った意味とはまったく違う意図の会話だったらしい。
「転校してから、エルダがいなくて、その……寂しかった。だからエルダがしていた魔法陣研究に俺ものめり込んだんだ。やりたい研究もあったし。過去の話というのは、ディモスで過ごしたエルダとのことだ。ニコラと出会ったころ、ずっとその話をしていたらクソ眼鏡とまで呼ばれた。それを揶揄われたにすぎない。ただの売り言葉に買い言葉だ」
「くそめがね」
そういえば先ほどもその呼び名を聞いた気がする。
「なんだ、そうだったんだ……」
腰が抜けるような感覚とともに、全身の力も抜けていった。
つまり、ただエルダが一人で勘違いしていただけだった。
「だがニコラの言った通りだったんだ。俺はエルダと過ごした学生時代が忘れられなくてここまできた。関係ないと言ったのは、俺のくだらないプライドだ。その馬鹿みたいなプライドのせいでエルダを傷つけたし、こんなことになったんだ」
「そんなこと、私だって……」
そこで、ふとクラウスが嬉しそうに顔を上げた。
「そういえば論文、読んでくれてたんだな」
言われて、そもそもあの日記は魔法陣研究のノートだったのだと思い出した。
エルダの顔もパアッと明るさを取り戻す。
「もちろん! 素晴らしかったよ! これまでの論文も今回の転移魔術に繋がってたんだね。落ち着いたら全部読み返したくて今からワクワクしてる」
「そうか、よかった。転移魔術はエルダのために作ったから」
「え――?」
思わぬ言葉に、息を呑んだ。
「そもそも……俺が研究課を志望したのはエルダなら必ず研究課にくるだろうと思ったからと――どうしても、転移魔術を完成させたかったからだ」
「どうして?」
食い入るように見つめるエルダに向かって、クラウスが柔らかな笑みを浮かべた。
「…………っ」
初めて見る表情だった。
呼吸も忘れて見惚れてしまうほどに。
大切なものを差し出すように彼は言葉を紡いだ。
「エルダを、カルビークに連れて行ってやりたかった」
予想だにしなかった台詞に、目を見張った。
「……私を?」
「そうだ。母の母国の話をあんなに嬉しそうに聞いてくれたのは、エルダが初めてだったんだ」
言われて、初めて会ったときのことが鮮やかに思い起こされた。
クラウスの黒褐色の髪と黒い瞳に、カルビークの人だと心が躍ったこと。
でも。
「そんな、たいしたこと――」
たいしたことではなかったのだ。少なくともあのときのエルダにとっては。
けれどクラウスは強く首を横に振った。
「たいしたことなんだ。あの頃の帝国内でエルダがかけてくれた言葉は、人生を左右するに十分なものだった」
「そ、そうなんだ……?」
なんだかとてつもなく重みのある言葉に、改めてあの日記を書いたのはこのクラウスなのだと実感した。
「カルビークでの魔物や厄災の対策、気候や食文化も知りたいと言っていただろう? 今の俺ならすべて説明できる。でも、それよりもエルダなら実際に行ったほうが喜ぶと思った。ガッサムは美味しいぞ。きっと気に入ると思う」
ひとつひとつを嬉しそうに語る姿に、図書館での彼の姿が蘇る。
とあるページを食い入るように見つめていた横顔。
その真剣な姿は見惚れるほどに綺麗であった。
隣でエルダが不埒な気持ちを抱いているなど露知らず、クラウスはそのページに必死に目を走らせていたのだ。
現代では失われてしまった、過去の魔術。
転移魔術に関するページだった。
あの頃から、ずっと思っていてくれたのだろうか。
苦しいほどいっぱいになってしまった胸を押さえたら、その手をギュッと包み込むように握られる。
「エルダ、まだまだ君に話したいことがたくさんあるんだ」
喜色を隠すことなく細められた瞳に、エルダも頷いた。
なんだかとても泣きたくなった。
そうやって手を握り合っていたただ中に、飛び込んできた人物がいた。
「おい、クラウスいるか……って、はああぁっ!?」
驚愕する叫び声に二人揃って入口を向く。
そこには目玉が飛び出さんばかりに大きく目を見開き、あんぐりと口を開けたライナルトが立っていた。
我が帝国の皇子とは思えぬ顔だなぁと、なんだか呑気にそんなことを思う。
「待て待て、お前たちはなに急展開を迎えてるんだ!? いや、それよりエルダは起きたなら報告にこいよ! こんなところでいちゃつくな!」
混乱した様子ながら怒涛の勢いで指摘してくるところは、さすが気苦労隊長。
ずかずかと近づくなりエルダの襟首を掴むとクラウスから引き剥がした。
さすがではあるが、無遠慮もいいところである。
「それにお前、吹っ切ったんじゃなかったのか」
なにを。とは、先日酔っぱらった際に愚痴ったクラウスへの気持ちだろう。
あれだけ飲んだくれてライナルトの金で散々飲み食いして、兵舎まで背負って送ってもらい励まされたというのに、今のエルダはきっと周囲に花を飛ばすほど浮かれているに違いない。
「ご覧の通りになりました」
へへへ、とにやける口元を抑えきれないまま報告すれば「気持ち悪い顔すんな」と一刀両断された。ひどい隊長だ。
念願叶った部下を祝ってくれてもいいじゃないかと、なかなか都合のいい思考で口を尖らせる。
そんなことを言い合っていたら、急に後ろへ腕を引かれて尻餅をついた。とはいえ、痛くはない。
お尻をついた先はクラウスの膝の上であったからだ。
「ライナルト隊長は俺になにか御用ですか?」
耳元から唸るようなクラウスの声がした。
後ろからしっかりと腰に腕を回されているので表情は見えないが、不機嫌を隠そうとしない声色を聞けばどんな鬼眼鏡な顔をしているかなど想像に難くない。
案の定、ライナルトはとんでもないしかめっ面を浮かべた。
だがエルダは耳元で聞こえたとんでもなくいい声に赤面してもじもじした。
それを見てライナルトが余計に顔の皺を濃くする。
「やめろよ、そんなに警戒しなくてもいいだろう。俺は真面目な話をしに来たんだ。あとエルダはもう勝手にしてろ」
放置である。
だが言われてよくよく見てみれば、ライナルトの団服には数多くの戦闘の跡が見て取れた。
浮かれすぎてすっかり頭から抜けていたが、現在厄災の真っただ中である。こんなところでクラウスとときめき合っている場合ではなかった。
慌てて立ち上がろうとすれば、ライナルトには手で制されてクラウスにはがっしりと腰に回った腕に力を込められる。
振り返れば、離れることは許さぬとばかりに険しく眉根を寄せて見据えてくるクラウスがいた。
正直キュンとした。
反対にライナルトの顔が般若になった。
「だからやめろ、そういうのは後でやれ。そのままでいいからせめて普通に会話をさせてくれ」
「……で、真面目な話とは?」
クラウスが促せば、ライナルトがそのクラウスをビシッと指で差す。
「お前、第二実戦部隊の応援に入れ」
「え!」
驚きの声を上げたのはエルダである。
「で、その代わりにエルダはまだしばらく休んでろ」
「そんな、やれます!」
「ダメだ。お前、完全に魔力尽きただろ? もう少し回復しろ。そうしたら回復薬を浴びるように飲んでまた働いてもらうからな。まあ、あとせめて二時間ってとこか」
つまり、とクラウスが眼鏡をくいっと上げた。
「それまでの代打ってことですか?」
「そうだ。今は落ち着いてるが、また大きな波は来るだろうし、クラウスは回復薬飲めば魔力に余裕はあるだろ?」
ライナルトは断定するように言うが、当のクラウスも当然のように頷いた。
「そうですね。俺もだいぶ休ませてもらいましたし」
「本っ当、お前……化け物並だな」
「でもクラウスは研究課です!」
抗議の意を込めて手を上げる。
そもそも彼は『転移魔術の実地検証をかねての同行』だと最初にライナルトが言っていた。
それにエルダの魔力も多少は回復してきている。
言われなくとも今すぐいくらでも回復薬を飲み干してやる所存である。
いくら先ほどの活躍が凄まじかったとて、入団して以降実戦から離れているクラウスに無理はさせられない。
「いいですよ。やります」
なのに、そんなエルダの心情を知ってか知らずかクラウスはあっさりと了承した。
「そうか。助かる」
「ええ!? クラウスいいの!?」
「いいんだ。研究課でやりたいことも別にもうないし」
「……ん?」
「言っただろう? エルダのために転移魔術を完成させたかったんだ。それもほぼ終わったし、第二実戦部隊の連携はいつもエルダを見てたからある程度わかる」
「俺はもうツッこまないぞ……」
ライナルトの言葉は置いておいて。
いや、確かにさっき研究課に入ったのは転移魔術が目的だったとは言っていたけれど。
今の言い方ではまるで、あれだけ素晴らしい論文を数々発表しておいて研究課にはもう未練はないと言っているようではないか。
振り向くと黒色の視線は真っすぐとエルダに注がれている。
今の言葉がすべてあると言わんばかりに。
すると、クラウスの視線はエルダを飛び越えてライナルトに向いた。
まさに鬼眼鏡としか形容しようがない目つきで。
「ところでライナルト隊長はエルダのことをどのよう――」
「ただの部下! それ以上はないぞ!? 絶対にない! だからその目をやめろぉっ!」
ライナルトはなんだか聞き覚えのある台詞を叫んでいた。




