高瀬くんの目指すもの
(ふああ、ねむ……)
高瀬くんが現れてから一ヶ月が経った。彼の練習に深夜まで付き合ったり、土日は社会人野球に参加したりと、ここ最近夢乃はほとんど休みなく過ごしていた。
なんだか調子悪いなあと思いつつ、カフェインとエナジードリンクで誤魔化すも空き缶の数だけが増えて、夢乃は眉間を揉む。
(なんか視界がぼやけるなあ)
そう思って発注書を送信した数日後、上司から怒気を孕んだ声で名を呼ばれた。
「コピー用紙十箱ってどういうことだ!? 頼んだのは十冊のはずだぞ!」
まだまだ予備があるけど念の為注文しておいて、と言われたコピー用紙。夢乃は慌てて渡された書類の欄に目を通す。そこはたしかに課長の言われた桁になっていた。一冊五百枚なので、十箱となるとかなりの枚数だ。
「申し訳ございません! 私の確認不足です!」
「困るよ松崎くん。新人じゃないんだから。分かってる? 最近色づいてるし、うつつ抜かしてたんじゃないの?」
この上司は怒り出すと止まらない人で、もう同じことで一時間は怒られ続けているが、夢乃が悪いのだから仕方がない。夢乃はひたすら頭を下げ続ける。
そこで隣のデスクの井上さんが助け舟を出してくれた。
「まあまあ課長ー、コピー用紙なんていくらあっても困りませんよォ」
「とはいえ十箱は多すぎるだろう! どこに置くんだ、予備はまだまだあるんだぞ」
「これから他部署に配ってきます。松崎さん、普段は真面目だし仕事も早いんですよォ」
井上さんがニコリと微笑む。その笑みに毒気が抜かれたのか上司ははぁ、と腰を下ろした。
「井上くんの顔を立てて今回は不問とするが、次はないからな」
「はい……申し訳ございませんでした……」
「井上さん、ありがとうございます!」
腰を直角に曲げて井上さんに礼を言う。
「やだァ。頭上げてください」
と言われても、上げられる頭などない。それくらい助けられた。井上さんのフォローがなければ、あと何時間続いていたか分からない。
「ミスしたときはお互い様ですよォ」
夢乃の肩に手を掛けて笑う井上さんは天使のようだ。
仕事では彼女の方が先輩とはいえ、年下の井上さんにフォローしてもらうなんて情けない。しかも新卒がやるようなミスで。
『仕事でミスして遅くなる』
と高瀬くん宛に急いでメッセージだけ送信し、他部署へコピー用紙のおすそ分けに向かう。
自分があまりにも情けなくなって、共に着いてきてくれた井上さんと比べてしまう。
みんな井上さんが言えば、「分かった、もらっておくよー」と好意的だ。
「ありがとうございます」と微笑む井上さんは同性の夢乃から見ても花のように可愛い。
(なんでこんなにかわいくて、素敵な旦那さんもいて、仕事までできるんだろう)
彼女の努力ゆえに決まっているのに、まるで生まれたときからの備え付けのように思えて羨ましくなる。
助けてくれた井上さんに対して、そんな嫉妬を抱いてしまう自分が何よりも嫌だった。
◇
「それじゃ、お疲れ様ですゥ」
「はい、本当にありがとうございました」
夢乃は再び頭を下げる。
先に会社を出た井上さんがきゃあッッと悲鳴を上げたので夢乃は何事かとパンプスを走らせた。
(もし暴漢とかだったら、このヒールで殴って……! 井上さん、無事でいて!)
そんな考えを張り巡らせながら、スマホで110番する準備までして階段を駆け下りると、そこにはTシャツにハーフパンツ姿の高瀬くんがいた。
(そういや出会った頃、名刺を渡したんだっけ……)
拍子抜けして、夢乃は二人を見やる。一体何事だ、と思う前に井上さんが高瀬くんにハートの目を向けた。
「漫画みたいなイケメン!」
「間違ってはないっすけど」
と高瀬くんが返すのを見て、夢乃は慌てて走って止める。
「高……野くん!」
井上さんが少年漫画を読むタイプには見えないが、闘魂は夢乃のような疎い人もハマるほど人気ジャンルである。用心するに越したことはない。
「松崎さんの知り合いですかァ?」
「あー、うん。まあ」
夢乃の歯切れの悪さを逆さに取ったのか、井上さんがぱあっと顔を明るくする。
「なァんだ松崎さんッ! やっぱり春が来てたんじゃないですかーッ! しかも超イケメンッッ!」
「いや違うの、この子は……」
「そういうのいいですってェ。松崎さん最近変わったなァって思ってたんですよォ」
「変わった?」
「松崎さんてェ、下がり眉じゃないですか。だから笑ってても困ってるように見えるっていうか……」
同じことを祐介にも言われたことがある。夢乃は社会人に必要なスキルとして微笑しているつもりなのだが、クールな草食動物のようだ、とからかわれた。
「それが最近、ニコォって笑うようになったんですよねェ。前よりずーっと、可愛いです。高野さんのおかげですね」
夢乃は思わず高瀬くんと顔を見合わせた。井上さんはそんな二人を気にもとめず、矢継ぎ早に話す。
「それじゃ、お幸せに♡
あッ、今日のことはあまり気にしないで下さいねェ」
もう一度、お幸せにー! と井上さんが手を振り去ってゆく。台風一過とはまさにこのことだ。
(いい子なんだよなあ……)
先ほどまでやっかみを抱えてた自分を恥じながら、夢乃は手を振り返した。
井上さんが見えなくなってから、高瀬くんの方に向き直る。
「迎えに来てくれたの?」
「ごめん。ミスしたって聞いて、俺も松崎さんの力になりたくて……逆に迷惑かけた」
「ううん、嬉しい。ありがとう。……正直今、滅入ってる」
昼夜の気温差でやられそうな四月の夜でも、カーディガンを羽織る気力さえない。高瀬くんはごく自然と夢乃の鞄を持ってくれる。
「仕事のことはよくわかんねーけど、そんなどデカいミス?」
「大きさというか、新人がやるようなミスしちゃったの。それを自分より年下の子にフォローされて」
「なるほど……」
「それがさっきの子。すごく可愛くて。若いのに仕事もできて、性格も……ちょっと距離が近いところはあるけど、すごくいい子なんだ」
高瀬くんが黙って聞いている。そしてまばたきで続きを促した。
「それに対して私はなんの取り柄もないし、なんの夢もない。どこにいってもダメなんだ。最初の会社ももしかしたらパワハラじゃなくて、私がダメだっただけかも……」
「パワハラ?」
「そう、週七日朝から朝まで働いて、上司に脅されてた。怖くて言う通りにしかできなかった。
けど、勇気出して意見したときに言われたの。お前なんかどこに行ってもやってけないって」
「ひでぇ……」
高瀬くんが驚くように口を開いたあと、眉をひそめる。夢乃は苦笑した。
「そんなときに高瀬くんに出会ったんだよね。高瀬くんがいなきゃ、あのまま死んでたんじゃないかなぁ」
「そうだったんだ……」
重い内容に目線を下げる高瀬くんに、夢乃は思い出すように続けた。
「準決勝のホームランと怪我の回を見て感動してさ。こんなに光り輝いている人がいるんだーって。自分よりも高瀬くんを応援したいって思ったの」
「そんないいもんじゃねえよ」
自信過剰な高瀬くんが珍しく否定した。夢乃への優しさだったのかもしれない。
夢乃は宙を見上げる。今晩は星が見えない曇り空だった。
「だから今日こんな初歩的なミスしたときに、あのときの上司の言葉、あながち間違ってなかったのかもなあーなんて思っちゃって」
「そんなことねえよ」
「どこいってもやってけないよね、こんなんじゃ。あーあ、また無職かもなぁ」
「そんなことねえって!」
高瀬くんが怒鳴った。ここに来てから初めて聞いた声だった。夢乃はびっくりして隣にいる彼を見る。
「俺の知る松崎さんは、毎日働いて稼いだ金を突然現れた俺のために使って、寝る間も惜しんで練習に付き合ってくれて、それに嫌な顔すらしたことない」
「それは、高瀬くんが推しだから……」
「推しとかよく分かんねえけど、少なくとも俺はそんなこと誰かにできねえよ。俺のことが好きなら帰る方法なんか探さずに傍におけばいいのに、松崎さんは一度だってそんなこと言わなかった」
「高瀬くん……」
ありがとう、と呟いたあとに、夢乃は自嘲気味に笑む。
「私は高瀬くんみたいに夢もないし、特技もないし、ただ流されて生きているだけだよ」
「それで生きられることがすげえんじゃねえの?」
「え?」
「俺、野球しかねえからさ。好きなもんとか、目指したいものがないと、何していいかわからねえ。
こっちに来てから俺本当に野球だけなんだなーって痛感した」
「高瀬くんはそれでいいんだよ。それが格好いいんだよ」
サンキュ、と目を細めてから高瀬くんが続ける。
「こっちに来てわかったのは、なにするにも金ってかかるんだなとか。野球どころか、食うのも、寝るのも、金がいる。
それをさ、全部一人でやっている松崎さんは、それだけですごいと思う」
その発想はなかった。生きているだけでえらいとはよく聞くが、夢乃は普通を意識するあまり、いまいちピンときていなかったのだ。
(推しに……高瀬くんに、そんなことを言われるなんて)
「なんか今ので救われた気がする。ありがとう、高瀬くん」
「社会に出たことないから、言えた義理じゃねえけど」
「そんなことないよ」
夢乃は首を横に振ってから、「高瀬くんに救われるの、これで何度目だろうなあ」と呟く。
「ねえ高瀬くん」
「ん?」
信号がちょうど赤になる。ここの信号は一度引っかかると長い。それにかまけて、夢乃は話を切り出した。
「今まで誰にも言えなかったこと、打ち明けてもいい?」
「いいよ」
間髪入れずに頷いてくれた彼に、夢乃は礼代わりに微笑んだ。
「ホントはね、夢を見たい自分もいるの。高校の頃からずっと憧れてたゲーム業界に未練もある。ただ、夢を追って今の生活を失うのが怖いの」
夢乃がこの話を誰かにするのは初めてだった。
前の仕事を辞めてから、いつだって意識的に普通を愛し、平穏であることを望んできた。それが自分の幸せだと、言い聞かせるように。
そうじゃないと、退職したことを後悔してしまうかもしれなかったから。それほどまで、夢乃にとって憧れの業界だったから。
「高瀬くんはどうして野球やってるの? 苦しいと思うときだってあるでしょう」
信号はまだ赤のままだ。車一つ通らないのに、二人は律儀に信号を守ったまま話続ける。夢乃の問いに、高瀬くんはんー、と悩んでから、言葉を返した。
「苦しいよ、負けたらどれだけ泣いても足りないほど悔しいし、打率が上がらないときは頭がおかしくなりそうだ。どれだけ練習してもまだ足りない」
「ならどうして、頑張れるの?」
初めて高瀬くんを見たときから、ずっと聞きたいと思っていたことだった。
こちらの問いには間なんてなかった。なんの疑問もなく、高瀬くんがまっすぐ答える。
「野球が好きだから」
彼は切れ長の目がなくなるくらいまで目を細めて笑った。原作で見せる、心から笑うときの高瀬くんの顔だった。
「好きだから、やらずにはいられねえんだ。
グラウンドで土を踏むとき、足から伝わる独特な感覚。
それを誰より長く味わいたい。甲子園の土を誰より長く踏んでいたい」
高瀬くんが現代文の朗読のごとくすらすらと紡ぐ。そして力強い声で締めた。
「好きなもので、日本一になりてえ。そのためなら、何だってできる」
信号が青になる。高瀬くんはまっすぐ前を見据えて歩き出した。夜なのに、汗がきらきらと反射する。
彼の背中を追いかけながら、これが夢のある人なのだ、と夢乃は思った。
まっすぐで、曲がることを想定もしていない。潰れたとしてもきっと何とかして這い上がって、また突き進むのだろう。
それが心配で、羨ましくて、かっこいい。
『そのためなら何だってできる』
先ほどの高瀬くんの言葉を反芻する。
(高瀬くん。私もきっと、あなたの夢を叶えるためなら、何だってできるよ)
高瀬くんほど純粋な夢じゃない。けれど、夢乃の一番の願いだった。
彼の居場所は、ここじゃない。
夜に飲み込まれた街道の中で、夢乃は固く決意した。




