第1話 鏡淵に来た理由——家族のために
≪計画始動期 / 個人日記≫
* * *
今日、家族が鏡淵に越してきた。
晴斗は文句を言わなかった。恵子は笑っていた。
夕奈は荷物を持ったまま、新しい家の玄関で少し立ち止まった。夕莉がその横をす り抜けて先に入った。
夕奈が立ち止まった、その一秒を、私は見ていた。
何を感じているのか、何を読んでいるのか——
あの子の立ち止まり方は、いつも少し長い。
私はその理由を知っている。知っていて、何も言わなかった。
夕奈は、場所の「揺らぎ」を感じ取る。
玄関で立ち止まったのは、戸惑いではなかったかもしれない。
鏡淵という土地の、揺らぎの質を——読んでいたのかもしれない。
そう考えることが、できた。
できたが、考えないようにした。
考えれば、この子をここへ連れてきた理由が、変わる。
なぜ鏡淵なのか、と晴斗に聞かれたら何と答えようか、と考えていた。
「仕事だ」では足りない。
「この仕事は大事な仕事だ」では、子どもには伝わらない。
本当のことは——言えない。
ここで成果を出せば、家族を守れると思っていた。
神代重工が「境界技術の完成」に本気を出している。
私が、そのプロジェクトリーダーだ。
成果を出せれば、この家族の未来が安定する。
そういう計算が、頭の中にあった。
計算、と書いた。
それが正確な言葉かどうか、分からない。
計算の中に、罪悪感も入っていた。
* * *
>走り書き(余白)
晴斗が窓から外を見ていた。神代重工の塔が見える窓だ。
何を思っているかは分からなかった。
夕莉が晴斗の隣に来て、同じ方向を見た。
二人が何を見ているのか——私には、聞けなかった。
夕莉が、朔也のいる施設の方向を長く見つめていた。
あの子はなぜ朔也のそばに来ないのか——
本能で分かっているのだと、私は思う。
分かっているから、近づかない。
分かっている理由を、あの子は知らない。
私だけが、知っている。
* * *
◇
* * *
恵子はこの計画に慎重だ。
慎重、というより——根本的な疑問を持っている。
「境界は通過するものじゃない」と言う。
羽鳥家の人たちと話した後、その言い方が強くなった。
私は「でも技術は進む」と言う。
恵子は笑う。笑い方が、少しだけ悲しい。
私はその笑い方の意味を、まだ受け取れていない。
受け取れていない——というより、受け取ることを避けている。
受け取れば、この計画に連れてきたことの意味を、問い直さなければならなくなる。
家族のために働く。
それが今の私の、全てだ。
仕事が家族を守る。
守るために、成果を出す。
——そう思っていた。
今も、そう思おうとしている。




