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悪女の台本  作者: 秋月 もみじ


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第10話 素顔の朝


 手袋を、嵌めなかった。


 朝の光が窓から差し込んでいる。銀木犀の匂いは薄れ、代わりに春告げ草の青い香りが風に乗ってくる。季節が変わっていた。あの夜、台本を書き始めた時は秋だった。今は、春の入り口。


 箪笥の引き出しを開けた。白い手袋が二組、畳んで並んでいる。掌の部分が少し変色している。爪痕と汗が革に染み込んだ跡。


 今日は、嵌めない。


 素の掌を見つめた。爪痕が薄く残っている。三日月形の小さな傷。でも新しい傷はない。最後に爪を立てたのは、いつだったか。交渉の場で台本を燃やした日。あれから二週間。


 傷は、治りかけている。


◇◇◇


 和平交渉は成立した。


 ルクセイアとの通商条約が結ばれ、国境問題は共同管理区の設置で合意。戦争の影は遠のいた。前の人生では燃えたはずの王都が、穏やかな春の陽射しの中に建っている。


 リリアーナが朝食を運んできた。白パンと蜂蜜と、温めた山羊の乳。


 「お嬢様、今日はお手袋を……」


 「今日はいいの」


 リリアーナが少しだけ目を見開いて、それから柔らかく笑った。何も聞かなかった。この人はいつもそうだ。聞かずに見守る。


 「リリアーナ」


 「はい」


 「ありがとう。ずっと」


 リリアーナの目が潤んだ。「お嬢様、何を突然」と言いかけて、口を閉じた。代わりに深く頭を下げた。


 白パンを千切った。蜂蜜をつけて食べた。甘い。前の人生でも、この味は同じだったはずだ。でも今日は、味がよくわかる。舌の上で蜂蜜が溶ける感触。パンの皮が歯に当たる音。


 生きている味がする。


◇◇◇


 午後、宮廷に呼ばれた。


 マリアンヌの処遇が決まったという報せ。王妃候補からは外された。社交界での影響力も大幅に制限される。だが。


 マリアンヌの家族への支援は、私が裏で手を回した。公爵家の名義で、没落しかけたヴァイス家の事業に出資する。表向きは「クロイス公爵家の慈善事業」。実態は、台本の最後のページに書いた約束の履行。


 台本は灰になった。でも、書いた言葉は覚えている。


 中庭で、マリアンヌと会った。偶然だったのか、待っていたのか。


 マリアンヌは憔悴していた。頬がこけ、目の下に隈がある。完璧だった微笑みは消え、ただの疲れた若い女性がそこにいた。


 「クロイス嬢」


 「ヴァイス嬢」


 しばらく、沈黙があった。薔薇園の噴水の音だけが聞こえている。


 「なぜ、家族を助けたの」


 マリアンヌの声は、初めて聞く素の声だった。計算のない、剥き出しの問い。


 「台本に書いてあったから」


 マリアンヌが眉をひそめた。意味がわからないという顔。当然だ。


 「……もういいわ。理由なんて」


 マリアンヌが踵を返しかけた。


 「ヴァイス嬢」


 呼び止めた。


 「あなたが家族を守ろうとしたこと自体は、間違っていなかった。手段が間違っていただけ」


 マリアンヌが振り返った。目が赤い。


 「慰めのつもり?」


 「いいえ。事実です」


 マリアンヌは何か言おうとして、やめた。唇を噛んで、小さく頷いて、去っていった。


 赦しではなかった。和解でもなかった。ただ、「もう終わり」という確認。それで十分だった。


◇◇◇


 夕方、アルベルト殿下が私を呼び止めた。


 「セレスティア。少し話がしたい」


 庭のベンチに並んで座った。殿下の横顔を見た。あの頃と変わらない金髪。青い瞳。でも、目の奥の光が違う。何かが揺らいでいる。


 「俺は、お前を知らなかった」


 殿下が静かに言った。


 「婚約者だったのに。お前が何をしていたのか、何ができたのか、何を考えていたのか。何も知らないまま、別の人間の言葉を信じて、お前を……」


 殿下の言葉が途切れた。前の人生のことは、殿下は知らない。でも、今回の件で「正義の断罪」がいかに危ういものかを知ったのだろう。


 「殿下。あなたは正義感の強い方です。それは変わらないでほしい。ただ」


 「ただ?」


 「正しいと信じる前に、一度だけ疑ってください。それだけで、たくさんの人が救われます」


 殿下が長い間黙って、それから頷いた。


 「肝に銘じる」


 立ち上がった。殿下に背を向ける。今度は、悲しくない。胃が重くもない。肩の筋が一本ずつ解けていくような感覚がある。


 これでいい。


◇◇◇


 庭園の出口で、レナードが待っていた。


 灰色のマントではなく、きちんとした外交官の正装。ルクセイアの紋章が襟元にある。もう密偵ではない。正規の外交官として、両国の橋渡しをする任務。


 「手袋をしていないな」


 「今日はいらないから」


 レナードが私の手を見た。手袋のない、素の手。爪痕がまだ薄く残っている掌。


 「台本のない日は、何をする?」


 「まだ、わからない。暗号解読の仕事はあるけれど、台本を書く必要はなくなったから。時間が余って、少し困っている」


 「困っているのか」


 「ええ。台本を書く以外の過ごし方を、あまり知らないの」


 レナードが笑った。口元だけでなく、目まで笑う笑い方。最初に出会った夜会の夜と同じ。


 「なら、一つ提案がある」


 「何」


 「ルクセイアの料理を教えてやる。俺が作る。お前は食べて感想を言え」


 「……それは外交任務の一環?」


 「いや。個人的な、なんというか」


 レナードの右手の指が動いた。ペンを回す仕草。手にペンはない。


 「……好意だ」


 「好意」


 「確信が持てない。こういうことに慣れていない」


 密偵が、恋愛に慣れていないと認めている。笑いそうになった。唇の端が持ち上がる。呼吸がいつもより深い。手のひらが乾いている。いつの間にか、汗をかいていなかった。


 「では、お願いします。ただし、味の保証は」


 「保証はしない。ルクセイアの料理は繊細だから、塩の加減を間違えると」


 「塩が足りないかも?」


 「なぜわかる」


 干し肉のスープを思い出した。三年分の記憶と、三日分の台本と、百十二回の修正。全部が灰になって、残ったのが、この人と、素の手と、塩が足りないスープの記憶。


 レナードの手が伸びてきた。左手。利き手。


 私の手を取った。手袋のない、素の手。初めて、素の手が触れ合った。


 レナードの手は温かかった。指先にペンだこがある。インクの染みが爪の際に残っている。密偵の手。暗号を書く手。台本を一緒に書いた手。


 手を握り返した。


 春告げ草の匂いが風に乗ってくる。冬薔薇の季節は終わった。処刑台の記憶は消えない。でも、その記憶の上に、新しい景色が重なっている。


 手袋のない掌で握る、誰かの手の温度。


 台本のない一日が、始まる。

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