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第10話「誰の分ですか」


朝。


レジの前に、紙が三十一枚並んでいた。


同じ大きさ。


同じ白。


右上に、小さな番号だけが振られている。


無常ちゃんは一枚取った。


選択権:1/31


その下。


使用者:未登録


「……」


指で触れる。


文字が変わった。


使用者:無常


残り三十枚が、一斉に店内へ飛んだ。


厨房。


倉庫。


休憩室。


廊下。


扉の向こう。


それぞれ別の方向へ消えていく。


最後の一枚だけ、


カウンターの端に落ちた。


裏面。


選択の影響範囲を自動判定します。


無常ちゃんはそれを読んで、


紙を伏せた。



---


昼。


最初は、うまくいった。


無常ちゃんがコーヒーを選ぶ。


他の飲み物は消えない。


自分のカップにだけ、


コーヒーが入る。


「……直りましたね」


レジは反応しない。


客がオレンジジュースを頼む。


出てくる。


別の客はコーラ。


問題ない。


窓際を選ぶ者。


奥を選ぶ者。


どちらの席も残っている。


世界はもう、


一つの選択を全員へ押しつけなかった。


午後には、


無常ちゃんも少し気が緩んでいた。


「袋はお付けしますか?」


「いらないです」


「かしこまりました」


商品を渡す。


その客の袋だけ、


出ない。


当たり前だった。


昨日までは、


当たり前ではなかった。



---


異変は、


トレー一枚から始まった。


男性客が立ち上がる。


食べ終えたトレーを返却口へ運ぶ途中、


小さな女の子とぶつかりそうになった。


男が右へ避ける。


女の子も右。


左。


女の子も左。


「あっ」


男の手からトレーが傾く。


無常ちゃんは見ていた。


床に落ちる。


その前に。


「右へ」


口から出た。


男の身体が右へ動いた。


女の子は左へ抜ける。


トレーも落ちない。


「おっと」


男が笑った。


「助かった」


無常ちゃんも笑いかけ、


止まった。


男の右足が、


床から離れない。


「……ん?」


一歩。


動かない。


左足は動く。


右だけが、


右方向へ進もうとし続けている。


「何だこれ」


レジが点いた。


選択を適用中


「解除してください」


選択者:無常


「もう終わりました」


終了条件が指定されていません。


男が壁へ寄っていく。


右へ。


右へ。


身体を左へ向けても、


右足だけが逆らう。


無常ちゃんはカウンターから出た。


「止まってください」


男が止まる。


右足も止まった。


だが今度は、


完全に動かない。


「……これ、俺が止まれって言われたから?」


無常ちゃんは答えなかった。


レジを見る。


新しい選択を適用中


止まってください。


そのまま。


「……」


無常ちゃんは、


唇を閉じた。



---


数分後。


男は自分で言った。


「歩く」


右足が動いた。


一歩。


二歩。


普通に。


レジ。


選択者を更新しました。


対象本人


男は何も知らず、


「直った」


と笑った。


無常ちゃんだけが、


その表示を見ていた。



---


夕方。


店内で小さな音がした。


ガラス。


女性客が、


水の入ったコップを倒していた。


「あーあ」


床へ水が広がる。


無常ちゃんが布巾を取ろうとする。


女性は先に立った。


「自分で拭くよ」


「いえ、私が」


二人の手が、


同じ布巾に触れた。


止まった。


布巾が、


真ん中から裂ける。


半分は女性へ。


半分は無常ちゃんへ。


「……器用だね、この店」


女性が言った。


無常ちゃんは少しだけ笑った。


二人で床を拭く。


中央。


互いの布巾が触れたところだけ、


水が残った。


女性が見る。


「そこ、無常ちゃん側じゃない?」


「そちらでは?」


「じゃあ半分ずつ?」


二人で拭く。


消えた。


何も起こらない。



---


その直後。


入口から声がした。


「すみません!」


若い母親。


その横で、


男の子が泣いている。


手には、


紙袋。


中身が違ったらしい。


「この子、チーズ食べられなくて」


無常ちゃんの目が変わる。


包みを開く。


チーズが入っている。


まだ食べてはいない。


「申し訳ありません。すぐ交換します」


バーガーを取ろうとする。


母親が首を振った。


「いいです、別の店に行きます」


無常ちゃんの手が止まる。


昨日までなら。


選ばせる。


本人たちの選択。


世界はそれを尊重する。


母親は子どもの手を引いた。


出口へ向かう。


そのとき。


男の子が、


メニューの写真を見た。


「これ食べたい」


「今日はやめよう」


「食べたい!」


母親は困っている。


男の子は泣く。


二つの選択。


どちらも本人のもの。


レジが点灯する。


競合を検出


無常ちゃんは画面を見た。


優先選択者を指定してください。


入力欄。


空白。


母親。


子ども。


どちらか。


無常ちゃんの指は動かなかった。


代わりに、


厨房へ入った。


新しいバンズ。


パティ。


チーズには触れない。


器具を替える。


包装も替える。


一つずつ確認する。


母親が見ている。


男の子も、


泣きながら見ている。


無常ちゃんは完成したバーガーを、


カウンターに置いた。


「こちらなら、お渡しできます」


母親は黙っていた。


「持ち帰るかどうかは、お決めください」


レジが点滅する。


優先選択者を指定してください。


無常ちゃんは、


電源を切った。


母親がバーガーを見る。


子どもを見る。


しばらくして、


「食べる?」


男の子が頷く。


「うん」


母親が受け取った。


世界は、


何も変えなかった。



---


閉店後。


「空白」の部屋には、


三十一枚の紙が浮かんでいた。


無常ちゃんの紙だけ、


少し下にある。


表。


選択権:1/31


裏返す。


昨日とは違う文字。


影響範囲:選択者が所有するもの


その下。


細い線が引かれている。


さらに一文。


所有権を判定できない場合、介入を保留します。


無常ちゃんは見ていた。


床に、


昼間裂けた布巾が落ちる。


二つに分かれたまま。


拾い上げる。


合わせる。


裂け目は消えない。


けれど、


一枚として持つことはできた。


無常ちゃんはそれを畳んだ。


紙の表示が変わる。


影響範囲を更新しました。


一拍。


選択には、他者が含まれる場合があります。


三十一枚の紙が、


一斉に裏返った。


そのうち一枚だけ、


番号が消えていた。

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