第70章 ―― 夕暮れの静寂 (上)
真っ白な空間の中。
ヴァン・ティエンは、そこに立っていた。
彼は周囲を見回す。
目の前には――
二つに髪を束ねた少女が、野原を走りながら楽しそうに笑っていた。
少女の笑い声が――
とても静かに響く。
だが――
その声が、この何もない空間を不思議なほど暖かくしていた。
ヴァン・ティエンは、その少女を見つめる。
一つの感覚が――
胸の中に湧き上がってくる。
懐かしい。
少女は彼を見ると、微笑んだ。
その笑顔は――
知らないものではなかった。
ヴァン・ティエンが、ぴたりと止まる。
「……結局、君は誰なんだ?」
彼は手を前へ伸ばす。
足が、自然に前へ進んでいく。
まるで――
身体が、彼女を追いかけることに慣れているかのように。
だが――
映像が、徐々にぼやけていく。
野原が歪む。
少女の姿も、少しずつ薄れていく。
「……待って――!」
彼の手が届く、その前に――
すべてが消えた。
……
ヴァン・ティエンは、ゆっくりと目を開く。
優しい声が響いた。
「やっと起きたね。」
ヴァン・ティエンが、ぴくりと反応する。
横を見る。
そこには――
少女がいた。
そして、気づく。
自分は――
少女の膝の上に頭を乗せていた。
場所は――
朝、彼が眠っていた、あの木の下。
ヴァン・ティエンは、ゆっくりと身体を起こす。
そして、額に手を当てる。
「……俺は……」
少女が彼を見る。
その瞳には、涙がきらきらと浮かんでいる。
だが――
彼女は必死に堪えていた。
そして、声を出す。
「さっき、急にお兄ちゃんが倒れたから……」
「もう、心配で死ぬかと思ったよ……」
声が、わずかに震えている。
まるで――
平静を保とうとしているようだった。
ヴァン・ティエンが、ぴたりと止まる。
「……君……泣いたのか?」
少女は、すぐに顔を背ける。
「泣いてない……」
「私、すごく強いんだから。」
「泣いたりなんかしないよ。」
それでも――
ヴァン・ティエンには分かっていた。
彼女が、必死に涙を堪えていることが。
胸の中に――
とても不思議な感覚が生まれる。
優しい。
だが――
はっきりとしている。
そして――
彼の手が、無意識に少女の頭へ伸びた。
なぜ、そうしたのか。
彼自身にも分からない。
だが――
この感覚は……
まるで、何度も何度も繰り返してきたことのようだった。
少女が、わずかに振り返る。
そして、少し頬を膨らませる。
「もう頭を撫でないで。」
「私、もう子供じゃないんだから。」
ヴァン・ティエンが驚き、すぐに手を引っ込める。
「あ……ごめん……」
少女が頬を膨らませる。
「本当に、お兄ちゃんって馬鹿なんだから。」
ヴァン・ティエンは、ただ笑う。
だが――
自分でも分からなかった。
なぜ、その言葉を聞いて笑ったのか。
まるで――
昔から、そう呼ばれることに慣れていたかのように。
優しい風が吹く。
静かで、穏やかな時間。
その時――
ヴァン・ティエンは、先ほどのことを思い出した。
その目が、わずかに沈む。
「そうだ……さっきのこと……」
「……あの『船長』っていう話。」
「俺には、まだよく分からない……」
少女が首を傾け、彼を見る。
一瞬――
その瞳が深くなる。
もう完全な子供の瞳ではない。
少女は静かに立ち上がる。
夕日の光が、彼女の整った顔を照らす。
風が、髪を優しく撫でる。
「そのことは……」
「……そのうち、お兄ちゃんにも分かるよ。」
ヴァン・ティエンは、呆然とする。
何も言えない。
ただ、そこに立ったまま――
前方にいる小さな背中を見つめていた。
胸の中に――
ほんの少しだけ、取り残されたような感覚が残る。
「でも……」
「ティエン――!」
遠くから、母親の声が聞こえた。
ヴァン・ティエンが、驚いて振り返る。
「はーい! 今行く!」
そして――
もう一度、前を見る。
……
少女は――
消えていた。
跡形もなく。
そこに残っているのは――
ただの空白だけ。
「……あの子……」
風が吹く。
まるで――
最初から誰も、そこにいなかったかのように。
「ティエン! どこにいるの?」
再び、母親の声が響く。
「はーい! 今行くよ!」
何が起こったのか分からない。
それでも――
ヴァン・ティエンは振り返り、母親のもとへ走っていった。
「ここだよ。」
「朝からどこ行ってたの?」
「えっと……この辺をちょっと歩いてただけ……」
だが――
遠く。
壊れた船の残骸があった場所。
青い光は、まだ存在していた。
静かに。
弱く。
そして――
消えることなく。
機械的な声が響く。
「かつて存在していた実体の――」
「記憶接続……14%。」
……
――宇宙。
黒い戦艦は、まだ移動していた。
ゆっくり。
だが――
確実に。
少しずつ、地球の軌道へ近づいている。
艦内。
統帥が、そこに立っていた。
目の前には、ホログラムスクリーン。
そこには――
一つの赤い点が表示されている。
その赤い点が――
ゆっくりと移動している。
そこへ――
黒い装甲を纏った大柄な男が歩いてくる。
「閣下、すべての準備が整いました。」
「次の指示を、お待ちしています。」
統帥は、すぐには答えない。
ゆっくりと艦内の窓へ歩いていく。
その視線は――
地球の下に広がる場所へ向けられていた。
青々とした大地。
S字の形をした――
ベトナムの国土。
その目が――
冷たくなる。
「全軍に命令を出せ。」
「……行動準備。」
「了解。」
空間が静まり返る。
何かが――
始まろうとしていた。
――その夜。
ヴァン・ティエンは、どうしても眠れなかった。
ベッドに横になりながら、手を額に当てる。
頭の中に――
夕方の出来事が浮かんでくる。
少女が指を弾いただけで敵を倒した光景。
そして――
少女が慌てた顔で駆け寄ってきて、彼を呼んだ時。
「お兄ちゃん……!」
それから――
今日の夕方。
今にも泣き出しそうに、涙を浮かべていた少女。
それでも――
必死に涙を堪えていた。
「もう頭を撫でないで。」
「私、もう子供じゃないんだから。」
「本当に、お兄ちゃんって馬鹿なんだから。」
ヴァン・ティエンは、ベッドの上で横向きになる。
そして――
窓の外を見る。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
「……結局……あの子は誰なんだ?」
「どうして、俺を『お兄ちゃん』って呼ぶ?」
「それに……あの『船長』っていう名前……」
「……あの子は、俺についてどれだけ知ってるんだ……?」
しばらく考え込んだ後――
ヴァン・ティエンは頭を掻く。
「あいたっ……」
「もう、考えるのはやめだ。」
「明日また会ったら――」
「あの子に、ちゃんと聞いてみよう。」
そして――
翌朝が来た。
朝食を終えると、ヴァン・ティエンはすぐに外へ走り出した。
それを見た母親が呼ぶ。
「ティエン! どこ行くの?」
ヴァン・ティエンは走りながら振り返る。
「はーい! ちょっと外に行ってくるだけ!」
「すぐ戻るから!」
母親は、それほど気にせず答える。
「早く帰ってくるのよ。」
「はーい! 分かってるよ、母さん!」
ヴァン・ティエンは、村の野原を走っていく。
「今日は絶対に――」
「あの子に、昨日のことを全部聞き出してやる。」




