第77章 ―― 残された希望の光 (上)
広大な花畑の中で、ヴァン・ティエンは座っていた。
その目の前では――
黒い長髪を左右で二つに結んだ、目の澄んだ少女が、花畑の中を走っている。
ヴァン・ティエンはそこに座りながら、静かに微笑んだ。
「そんなに走らないで、転ぶぞ」
ヴァン・ティエンの声が響く。
遠くで走っていた少女も、ふと足を止める。
そして、ゆっくりとヴァン・ティエンの方へ振り返った。
顔はぼんやりと霞んでいて、はっきりとは見えない。
ただ――
その少女の無邪気で明るい笑顔だけは、はっきりと見えた。
少女は笑いながら、ヴァン・ティエンに向かって手を振る。
「分かったー」
ヴァン・ティエンも手を振り返す。
「ずいぶん楽しそうね」
背後から、優しい女性の声が響いた。
ヴァン・ティエンは、ただ軽く頷く。
「うん……まあ、こんなに穏やかな時間なんて、久しぶりだからな」
背後から――
背の高い女性が歩いてくる。
星のような小さな模様が描かれた、灰色の高い襟のロングコート。
彼女はヴァン・ティエンの隣まで来ると、そこへ腰を下ろした。
「本当に……こんなにゆっくりできるのも、久しぶりね」
彼女は、花畑を走る少女を見上げる。
「……あの子、とても楽しそう」
ヴァン・ティエンは彼女の方を向かず、ただ少女の方へ目を向けた。
「そうだな。今のあの子は、思い切り楽しんでる」
「だって……あの子も、俺たちと一緒に何度も生死を懸けた戦いを経験してきたからな」
彼女は静かに目を伏せる。
顔を向けてはいない。
それでも――
ヴァン・ティエンには、彼女の目が沈んでいるのが分かった。
「私は……あの子を、あんな戦いに参加させてしまったことを……少し後悔してる」
「だって……あの子は、ただの女の子なのに」
ヴァン・ティエンはそう聞くと、彼女の背中を軽く叩いて慰める。
「自分を責めるなよ」
「だって、あの子自身が俺たちと一緒に戦いたいって言ったんだ」
「だから……俺たちが嫌だと思っても、止めることなんてできなかっただろ」
「それに――」
「君も同じだろ」
女性は顔を向ける。
その表情は見えない。
だが、ヴァン・ティエンには彼女が困ったような顔をしているのが分かった。
「あなたもいつも無茶するじゃない」
「止めようとしても、どうしようもないくらい危険な場所へ飛び込んでいく」
「あなたって、本当にいつも人を心配させるんだから」
「俺はそんなことしてないぞ」
「してるわよ」
二人は顔を見合わせる。
そして――
二人とも、思わず大きく笑った。
ヴァン・ティエンは笑いながら言う。
「なんだか……俺たち三人、みんな似てるな」
「本当ね」
女性もそう答える。
二人は心から笑っていた。
まるで――
これまで背負っていたすべての重圧が、消えてしまったかのように。
その時。
少女がヴァン・ティエンのところまで走ってきて、そのまま彼に抱きついた。
少女はヴァン・ティエンを見上げる。
「二人とも、何の話をしてそんなに楽しそうに笑ってるの?」
「私も混ぜてよ」
ヴァン・ティエンは少女の頭を優しく撫でる。
「何でもないよ」
「俺と姉ちゃんで、ただの世間話をしてただけだ」
「私も聞きたい」
「ただの世間話だって。聞いても面白くないぞ」
少女はそう言われると、駄々をこねるようにヴァン・ティエンへ顔を押しつける。
「あーっ、二人ともずるい!」
「私も聞きたいのにー!」
ヴァン・ティエンは少女が甘えてくるのを見て、また優しく頭を撫でた。
「分かった、分かった」
「今度、二人で世間話をするときは、お前も呼んでやるよ」
少女はそう聞くと、澄んだ無邪気な目を上げて、ヴァン・ティエンを見る。
「ほんと?」
「本当だよ」
「俺がお前に嘘をついたことなんて、あるか?」
「じゃあ……約束して」
少女は指を一本立てる。
「分かった。約束する」
ヴァン・ティエンも手を差し出し、小指を少女の小指に絡める。
「約束したからね」
少女はヴァン・ティエンを見つめ――
最高の笑顔を浮かべた。
その瞬間。
ヴァン・ティエンの目の前から――
すべてが消えた。
残ったのは――
真っ白な世界だけ。
ヴァン・ティエンはゆっくりと目を開く。
目の前には――
ぼんやりとした黒い影があった。
それが何なのか、分からない。
ヴァン・ティエンはゆっくりと手を伸ばし、その黒いものへ触れる。
しばらくすると――
目の前の景色が、少しずつはっきりしていく。
そして――
目の前にある黒いものが何なのか、ようやく分かった。
髪だった。
ヴァン・ティエンは目を凝らす。
そして――
目の前にいる人物に気づいた。
彼は静かに名前を呼ぶ。
「ヒュエン……ゴック」
少女はその声を聞くと、身体を小さく震わせた。
そして、顔を上げる。
ヴァン・ティエンには、はっきりと見えた。
少女の頬を――
涙が流れている。
それは、まだ止まる気配がない。
ヒュエン・ゴックはヴァン・ティエンを見つめる。
涙を流しながらも――
その口元には、幸せそうな笑顔が浮かんでいた。
「ひっ……やっと……」
「やっと起きてくれた……」
「うわぁ……うわぁぁ……」
「お兄ちゃん、もう起きないのかと思った……」
ヴァン・ティエンは、まだ何が起きたのか分からない。
そして尋ねる。
「俺……どうしたんだ?」
「覚えてないの?」
「ベリオスとの戦いの後、お兄ちゃんは……あいつに殴られて気を失ったの」
「たまたま私があいつの注意を逸らせたから……お兄ちゃんを助け出せた」
「あの時のお兄ちゃん……息がすごく弱かった」
「何度呼んでも……起きてくれなかった」
「私……お兄ちゃんが、もう……」
ヒュエン・ゴックの言葉を聞き――
ヴァン・ティエンは必死に記憶を辿る。
すると。
頭の中に――
ベリオスと戦っている自分。
そして――
ベリオスに地面へ押さえつけられた光景が、少しずつ蘇ってくる。
「……思い出した」
ヴァン・ティエンは腹の傷へ手を当てる。
すると――
驚いたことに、血がもう流れていなかった。
彼はゆっくりと視線を落とす。
腹の傷は――
ほとんど治っていた。
血も、もう出ていない。
「傷が……治ってる」
なぜ傷が治っているのか、ヴァン・ティエンには分からなかった。
彼はヒュエン・ゴックを見る。
だが――
すぐに小さく首を振る。
(そんなはずない)
(あの子はただの女の子だ)
(こんな傷を……治せるはずがない)
しかし――
これまでのことを一つずつ思い返していく。
初めて少女と出会った時。
そして――
少女が突然、謎のように消えたこと。
すべてが、あまりにも不自然だった。
疑問と考えが頭の中を巡る。
そしてヴァン・ティエンは、静かに少女へ尋ねた。
「なあ、ヒュエン・ゴック」
少女は顔を上げる。
「もしかして……」
「俺の腹の傷を治したのは……お前なのか?」
二人の間に――
夕方の優しい風が静かに吹き抜ける。
熟した稲穂が、さらさらと音を立てる。
風に揺れるその音は、とても穏やかだった。




