昔
「登司君今どんな生活しているの」
律子は優しい笑顔をその青年に向けた。20代前半くらいか、年よりも幼く感じさせる彼、大人しく落ち着いた、どこか文也に似た雰囲気の青年に向けた。
「それは…」
うつむいて口ごもる登司を見て「変わらないね」と律子は髪をかきあげながら吐息の多く混じった声を発した。
「もうこういうのやめようって。言ったのは先生ですよね…」
登司の言葉を聞いて律子はにっこりと笑った。
繁華街のはずれの細い道から少し広い道に出て、コインパーキングの前で律子は足を止めた。
「はいこれ」
バッグから茶封筒を出し登司にわたす。
登司はそれを受け取り中を見てハッとし、「先生」と困惑の声を出した。
「たまたまね、登司君がいろいろ大変だって聞いて、それで何か力になれないかって思って」
慈愛に満ちた、そんなふうな顔だった。
登司はその封筒を返そうとして、でも返せずにいた。
「こんなに、それにもう…」
「嫌だった?」
律子の言葉に登司はゆっくりと首を横に振った。
「ごめんね、やめようって言ったのは先生なのにね。最近いろいろ昔のこと思い出してたら会いたくなっちゃって」
余裕のある笑みを見せる律子の言葉に登司は困惑と照れを混ぜた瞬きを繰り返した。
「それね、実はお願いがあって」
車に乗り込みながらパチパチとあまりしない目線を登司に向ける。
登司はシートベルトを締めながら両手で握りしめた茶封筒を見た。
声を漏らしながら律子は体を助手席へ大げさに寄せ、グローブボックスを開けた。
中には茶封筒より一回り大きな箱があり、それを登司に茶封筒と一緒に持たせ、その痩せた手をさするようにつつみ込んだ。
寄せた体をそのままに密着させ、顔を近づける。
登司は相変わらず困惑と照れをごちゃ混ぜにしながら、若さとかつての思い出に、順調に判断を鈍らせている。
「ごめんね、これはプレゼントじゃないの」
箱は律子らしくない。白地にピンクの兎のドットがあしらわれた包装がされている。
「終わったら捨てていいから。先生、すごく困ってて…」
眉をひそめ、憂いを見せた。
近づけた顔に登司はなすすべなくまぶたを閉じた。
波打ち際が赤く染まっている。
巨大な体躯。
目は見開き瞳孔が開いている。
巨大な口ばしは己の血をはじくも、はじかれたまま固まり、そこに血をためさらに固まる。
折れた広い翼は赤く、黒く。元の色がどんなだったか、そもそもそういう色だったのか、それもわからない。
胴が途中から無い。切断されたのか、肉か内臓かわからないものの切端がゆらゆらと海中に揺れ、魚やカニが群がりついばもうとしている。
冬の海辺には意外な数のハエも体に張り付き音を立てる。
人々が群がっている。
空がバタバタとうるさい。
たくさんの視線が自分に向いている。
そしてそれより先に、ここにいる以上の人間の目が。
己の最期を、こんなにもみじめなものかと思い目を瞑る。
瞑るその瞬間、最後の力を込めた瞬きの隙間にその姿が写った。
母親の制止を振り切り駆けだす子供。
声が聞こえる。
そうだ、最初に私を見つけた子供の声だ。
自らを取り囲む数人が駆け寄る子供に気づき手を伸ばす。
しかし気づくのが遅れたため子供は彼らに体を引かれながらも私の、この泥のように汚れた私の体にわずかに触れた。
好奇心や勇を示そうとしたわけではないようだった。
可愛い笑顔で私に触れた。
何か言っていたがよくわからなかった。
ただ、可愛い声だなと思った。
聞き取れたのはただ一言だけだった。
言葉の意味も分からないが、大人に取り押さえられながらその小さな口から発せられたその言葉、それだけはしっかりと聞き取れた。
「またね」
私のせいで汚れた可愛い指先を、そして屈託のない笑みを、こんな惨めで汚い私に向けていた。




