イタチの主の出遅れ
真夜中だった。
斉藤が渡辺家に到着したとき、愛子は玄関で30代くらいの男と一緒に座っていた。
男はスラックスにジャージ姿で、愛子の背をさするような姿勢で、しかしさすることなく、一通り声をかけ終えたあとのようで、何も言葉を発することなく体を硬直させていた。
立てた膝にきれいな腕を渡し、そこに顔を伏せた愛子。
斉藤の古い車のうるさい排気音が止み、バタンとドアの開く音が聞こえると伏せた顔をゆっくりと上げた。
斉藤と深江のシルエットに気づき、そして駆け寄ってくる深江に愛子はにっこりと笑った。アイアのシルエットは車に隠れて気づかない。
深江は愛子の頬、目の横に触れるかのように触れなかった。
腫れている。
玄関の明かりでは分かりづらいが、おそらく赤くなっているだろう。
それに遅れてゆっくりと近づく斉藤に、傍らの男は頭を下げた。
男は清潔感のある短髪に伸びた背筋で若々しく、30代に見えるが、実は案外斉藤に近い年かもしれない。
「御親戚の方ですか」
神妙な顔で斉藤の顔を覗き込み、その顔の作りに一瞬顔が固まり、しかしすぐに元の凛とした、誠実そうな顔に戻る。
斉藤が男の言葉にキョトンとすると
「いえ、先程お父様に連絡したものです。単身赴任をされていて、親戚を寄越すとおっしゃったもので」
と、言葉を付け足す。
詳しいことは分からないまま。ただ、ここで何かトラブルがあり、その処理をこの人がしてくれているのだと、斉藤は男に親近感を持った。
「いえ、でしたらそれとは別で参りました。御親戚の方はまたこのあと来られるかと。まあ、知人と思っていただければ」
なんとなく似た喋り方をしてしまう。
厳ついその見た目からの思わぬ柔らかい物腰に、男も斉藤との会話に安堵を感じる。
斉藤らの到着までどれくらいの時間こうしていたのだろうか、一人ではなくなった事実だけで心に余裕が生まれることもあるだろう。
ふと目線を落とした斉藤の足元からにゅっと奇妙な姿のアイアが現れ、男は声を上げた。つかの間の安息もあっさり途絶えた。
「愛子ちゃんこんばんは。お母さん中だよね。ちょっとおじさん中にはいるから。深江ちゃんちょっと任せた。アイアもここにいるかい?」
そう言って玄関のドアを開けると、中の明かりも加わり、それに照らされた愛子の左頬がはっきりと腫れていることがわかった。
深江は愛子の前に屈み、普段あまり見せない動揺した、同情した、眉をひそめた不安の目を愛子に向けた。
アイアは愛子の怪我を気にしていないのか、表情に出さないだけか「愛子、お久しぶりでございます」などと言いながら愛子の肩をよじ登った。
愛子もあまり頬の腫れを気にしていないのか、大人びた、余裕のある笑みを二人に向けた。
男は二人の美少女と不気味な物体、人?が身を寄せ合う状況に困惑した。
斉藤が家の中に入ると、前に来たときと同じようにひんやりとした印象を受けた。清潔で無機質な印象。
靴を脱ぎ玄関を上がると、廊下のすみに何か動くもの、細長いネズミのようなものに気づいた。
イタチだ、御使い3号だ。
家の中、律子か、あるいは文也はどこかにいるのだろうか。人の気配がない。
それでもどこからかこちらを見ているかもしれない。
斉藤はそろそろと音を立てぬよう御使い3号に近づき、ズボンをつかみ裾をくいっと上げると、そこに入りちょこちょこと斉藤の足を登ってそのなかに潜んだ。
よし、と一息。
さあ、誰かいませんかと声を出そうかと振り返ったとき、台所、斉藤のすぐそばに人間がいたことに気づき思わず別の声が出た。
人間は2人。椅子に腰掛けテーブルに突っ伏して目だけをこちらに向ける律子と、その近くに直立でうつむいて、そして視線だけを斉藤に向ける文也だった。
2人は斉藤がそこにいることに気づいていた。
声を上げたからではなく玄関を空けた音がしたときから誰かが入ってきたことには気づいていたし、何か変にそろそろ動いていることにも気づいていた。
幸いに御使い3号には気付いていない。
要は盗聴器だからね。
「あ、ええと、こんば」
こんばんわ。と言いかけたとき、ブルブルとスマートホンが揺れ、演歌のような、寿司屋の有線のような曲が流れた。
ズボンに隠れる御使い3号が驚き、警戒した。
着信を止め、親子と何か話さねばと思っていたが、そこに表示された名前を見るなり玄関へ移り電話をとり小声で話した。
表示された名前は渡辺文昭。この家族の父親、斉藤の元上司。
この一件の依頼者だった。




