「第5章」〜日光初日〜 其の一
「ねえ、パパ早く起きてください。時間ですよ〜」
僕は、娘が僕の身体を揺らしながら話しかけてる声を、夢の中で聴いている気分で目を覚ました。未だ眠い目を擦りながら身体を起こすと、目の前には娘の優香里が立っていた。
「うーん…優香里か?おはよう」
「もう、パパったらお寝坊さんなんだから」
「わかった、今起きるよ」
僕はそう言ってから布団をめくり、ベッドから出た。娘より遅くまで寝ていて、起こされる事など初めての出来事だった。時計を見ると、5時半を指していた。そうだ、日光へ出掛けるのに明日は5時半に起きようと僕が皆んなに言ったんだっけ、と思い出して我に返った。
「もう全く!ママと優香里は、とっくに起きてましたのよ。パパだけよ、だらしないのは。」なんて言葉使いだ。口振りが段々とママに似てきたなと、溜息をついた。
「とりあえず、シャワー浴びたら?」
遠くから、そのママの声が聞こえてきた。僕はその言葉に促されシャワールームに急いだ。洗面台の鏡で自分の顔を良く見ると、たった1日で結構無精髭が伸びている。20代迄はすべすべ肌がちょっぴり自慢だったのだが、こんな顔をユウイチにはとても見せれない。明日の朝はどうしたものかと、一抹の不安を感じながら、まず丁寧に顔を剃り、その後シャワーを浴びる。思い返せば、この日が来ることをどれ位待ち焦がれていたのだろう。その為に2日間の有休を取った。何せこの数年一切取らずに来ていて、以前取ったのは親戚の不幸で1日だけ休んだ時だ。〈2日間会社を休む〉という事がこれほど重大だとは思ってなかった。休みで穴を開ける分、それを埋める為にこの数日間を慌しい時間で過ごしたので身体はヘトヘトだった。今朝のちょっとした寝坊はその疲れからだったのだろう。それでも忙しい時間は気持ちに張りもあり歓びにも満ちて充実していた。昨夜も疲れているはずなのに興奮して寝付けずにいた。睡眠は短かかったがその分熟睡出来たようで、身体は軽く感じていた。
シャワーを浴び終わり、タオルで身体を拭きながら再び洗面台の鏡の前に立った。両サイドの棚には僕が手がけた数多くの化粧品が並んでいる。あらゆるスキンケアヘアケア製品に溢れていて、お手入れにこと欠いた事はない。中には未発売で終わったものも有るが、全てに愛着がある。自分の「作品」に囲まれる生活に幸せも感じた。肌からはお気に入りのボディーソープの残香が漂う。タオルで身体をよく拭いたあと、僕はまず制汗剤を取った。アルミニウムの入ったこの試作品は、結局世に出なかったが、僕は気に入っている。腋にそれを丁寧に塗ったあと、全身にボディーミルクを塗り、いつものコロンを胸元に少し付けた。
「そうだ!エミーにも会社の製品プレゼントしなくちゃな」と、急に思い立った。そして、ユウイチにもメンズ製品だなと思いながら、ユウイチが化粧品を使っているイメージが浮かばず、一人おかしく思いながらシャワールームを出た。
妻が用意してくれた服を着た後、3人分の荷物を玄関まで運んだ。
「あなた。コーヒーだけでも飲んで下さい。」
妻に呼ばれて僕はキッチンへと戻った。
「今日の朝食はエミーさんの為に駅弁を電車の中で食べますから、うちでは飲み物だけね。」
そう言いながらコーヒーをマグカップに注いでくれた。娘の優香里は、ココアをすすっていた。僕はキッチンの椅子に腰掛けてため息を一つ付き、コーヒーをゴクリと飲んだ。妻も急ぎ椅子に座ってコーヒーを飲みながら
「電車に乗ってお弁当食べるなんて、何年振りの事かしら?」
「そうだなあ。結婚前に2人で山梨県の小海線に乗って清里に出掛けた時以来だな」
「あら、覚えていてくれたのね。始発の小淵沢駅で、高原レタスがたっぷり入ったお弁当買ったわね。あれは本当に美味しかったわ。だって生野菜があんなに入った弁当なんて珍しかったもの。」
「そうそう。それにメインのチキンカツも美味しかったな」
「私は電車の中でお弁当食べるの初めて」と、横から優香里がはしゃいで言った。
「そういえば、エミーさんてアメリカ人よね。ご飯とか、割り箸とか大丈夫かしら。」
「そうだなあ。確か練習したとは聞いたけど、使える様になったかは確認し無かったな。」
「一応、万が一の為にキャンプ用のフォークとか用意しましたよ。」
「そうか、ありがとう。」そう言いながら、由美子は流石に気が効くなあと感心していた。
コーヒーを下げて、いよいよ出掛ける時間が来た。玄関に並んだお揃いの3足のトレッキングシューズを見て、しみじみ幸せな気分を味わった。その靴を3人で仲良く並んで履き玄関を出た。
「カギ、窓の戸締りは、大丈夫かな?」
「OKよ。ちゃんと確認しましたから。」
僕は皆んなの荷物を持ち、最後に玄関の鍵を閉めた。由美子はその間に真向いの早起きの奥さんに留守中のお願いの挨拶をしていた。
「あらー、家族揃っての御旅行だなんて羨ましいわー良い旅にして来て下さいね。」と、明るく声を掛けてくれた。
住宅街の人達は案外早起きが多い。庭の植木に水を撒いたり、ジョギングしたり。そして犬を散歩させてる人とすれ違った。我が家にはペットは居ない。それは、優香里がペットアレルギーなので飼えないので有るが、本人は大の犬好きでなので部屋には代わりにトイプードルのぬいぐるみが置いてはある。それでも目の前を通り過ぎる子犬を見るたびに羨ましそうな顔を見せる。振り返った娘の頭を撫でて、駅へと向かう。
駅までのだらだらの下り坂の道は、早朝とあって余り車も通らないので、道の真ん中を揃いのウエアを着た3人が並んで歩いて行く。娘を真ん中にして手を繋いで進む。行き交う人々が、笑顔で会釈しながらすれ違う。周りからは、幸せ一杯の家族に見えるのだろうな。妻も娘も陽気にはしゃいでいる。こうやって、家族3人揃って出掛けられるのは、この先有るのだろうか?優香里も来年は中学に進級する。塾やら受験やら、あるいはクラブ活動といってきっと忙しくなるんだろうな。その内、高校大学へと進み、いつかは結婚してしまう。そう考えながら歩いていると、由美子が、
「あなた。今日は思い切って会社を休んで旅行を計画してくれてありがとう。あなたも仕事益々忙しくなりそうだし、優香里が中学に上がったら益々家族3人一緒の時間なんて少なくなっていく気がしていたの。この旅行は我が家にとって貴重な思い出になるわ。私も凄く嬉しい。」
と言うので、妻も同じ思いなんだなと気がついた。すると、優香里も
「私ね、学校初めてズル休みしたの。最初は凄く悪い事に思えたんだけど、友達が、みんなで『1人だけ休みでいいなあ〜』って、羨ましがられちゃった。だからね、写真いっぱい撮って皆んなに日光の素敵なところ見せてあげるんだ。」といって、ポケットから、買ったばかりのデジタルカメラを取り出して僕に見せた。
「この二日間は、きっといい天気だよ。写真もいっぱい撮れるね。パパも楽しみだよ。」僕はそう言いながら娘の喜んでいる姿を微笑ましく思った。由美子も楽しそうだ。僕は嬉しくなった。旅行を計画出来て良かった。これもユウイチがきっかけをくれた。そして何よりも…再びユウイチと過ごせる時間が楽しみだった。
駅に着くと僕は切符を2枚買った。僕の分はユウイチの宿泊しているホテルまではいつも通勤で使う定期で行けるので要らなかった。乗る電車は通勤と同じではあるが、時間帯が違うためか空いていて乗客の雰囲気も違っていた。現場仕事に向かうのか、作業着の人も数多く見られる。
僕たちは、3人並んでシートに座った。僕はいつもの様に経済新聞を読み、妻と娘は、久し振りに乗る何の変哲もない電車の時間も楽しんで会話を弾ませていた。
小一時間程で最寄り駅に着き、電車を降り、地上へと出ると、娘はビルの建ち並ぶ景色が珍しいらしく周りをキョロキョロと見回していた。妻も、
「この景色が懐かしいわ。働いていた頃を思い出す。」と言いながらビル群を見上げていた。
ホテルまでは駅からすぐに到着した。玄関から入り、ロビーへと進むと2人は直ぐに見つけられた。「ユウイチ!」「サトル、おはよう」
5人はロビーの隅で挨拶を交わした。エミーは妻と娘をハグしていた。優香里はアメリカ式の挨拶に驚いて戸惑いを見せたが、エミーの明るさと親しみを感じる笑顔に馴染んで直ぐに仲良くなっていた。
ユウイチに妻の由美子を紹介するとユウイチは、握手をしながら「初めましてユミコ、ユウイチです。ハワイでサトルと初めて会ってから、いつかサトルの奥様に逢える事を楽しみにしていました。それが今叶いましたね。また、二日間の日本観光ご一緒していただきありがとう。」と挨拶した。すると由美子も、
「初めまして。妻の由美子です。何時ぞやはハワイで夫が大変お世話になりました。それ以来、折あるごとに夫の口からユウイチさんの話が出ていました。今日お会いできて光栄です。二日間の旅、ご一緒宜しくお願い致します。」と言いながらユウイチを見上げた。握手をした掌の大きさやゴツゴツとした職人の様な感触に驚き、また、吸い込まれる様な魅力ある大きな瞳に、少し顔を赤らめた。それからエミーの隣に行き、耳元で小声で話しかけた。
「社長さんて凄くカッコイイんですね。男の魅力が溢れると言うか…」
「ユミコ、それは今夜でもじっくりお話しましょう。若い時からそれはそれは女性にモテて、私の知ってるだけでも武勇伝尽きない位有るのよ。女同士の内緒話でね!」そう応えると由美子は笑いながら頷いた。
「ところで、ユウイチ。東武浅草までどう行きましょうか?」
「ホテルに頼んで、5人乗れるタクシーを手配してある。もう直ぐ来るよ。」
ユウイチがそう言うと、間も無くして我々の所へホテルマンが呼びに来た。
ホテルの玄関を出ると、目の前にワゴン型のタクシーが来ていた。トランクに荷物を入れ、僕たちが乗り込むと直ぐにタクシーは東武浅草へと向かった。エミーは時折姿を見せる東京タワーに歓声をあげ、浅草寺の雷門の前では「ジャパニーズテンプル」と大声をあげ、人力車を見ると大いに喜んでいた。そのはしゃぎっぷりに惹かれたのか、つられて優香里も大きな声で合わせるので、タクシーの中は賑やかなものだった。