「第3章」
10月に入ってから自分もそして家族も、何かそわそわして足が地に着かない状態が続いていた。こんな気持ちは小学生の遠足以来だわと、由美子はこぼしたが、僕も同様だった。ユウイチとの再開の日が、早く来てほしいようなでも、ずっと先であって欲しいような複雑な心境の日々のなか、皆でアウトドアショップへと出掛けお揃いの軽登山靴を買ったりと、今までにはなかった家族関係が新鮮でもあった。買い物帰りには気取りの無い老舗のトンカツ屋で食事をしたりと、娘も妻もささやかな出来事に喜んでもくれていた。時おり見せてくれる笑顔が、僕の気持ちを幸せで充たしてくれていた。
10月中旬、日本訪問まであと数日となって、ユウイチ達も浮き足立っていた。準備に怠りはないかとか忘れている事はないかとか堂々巡りをしているようで、傍目から見ても落ち着きが無い。スタッフ達は、まるで二人共新婚旅行にでも出掛ける様だと、傍で観て噂した。もちろん、二人は旧知の仲でありお互いに恋愛感情など持っていない事は周りも良く解ってはいたが、「瓢箪から駒」ということもあり得なくはないと良からぬ心配をしていた。
そして…いよいよユウイチとエミーが、日本へと旅発つ日がやって来た。二人はホノルル空港 へと向かうタクシーの車中にいた。
「本当に待ち遠しかったわ。日本に行く夢が叶うだなんて、まだ、現実だとは思えないわ。この一ヶ月、心が騒いで落ちつかなくて!」
「俺も10数年振りの帰国になるなあ。日本は大分変わってしまったんだろうな。」
「これも、皆んな社長のおかげだわ。だって、日本の旅行会社から当初話があった時は、日本から担当の営業マンがハワイへ来るって事だったじゃない。それを自分の方から日本へと出向きますって言ってくれたお陰で私も日本へ行ける事になったのだから。最初は私も驚いたわ。少しは日頃言ってた私の夢物語を覚えていてくれたのかしらと思って、凄く嬉しかった。」
「俺も自分で言ったものの、あの時自分から日本へ行くという言葉が出たのは不思議だったよ。何かがそう言わせたんだろう?俺も、日本への帰国をずっと避けてた何かが吹っ切れたんだな。俺もトラウマから解放されそうだ。」
「理由はどうあれ、今回の事は全てユウイチいや、社長のおかげよ。大体、飛行機乗るのだって久し振りだし、成田から電車に乗るのよね。電車なんて初めてよ。それに、紅葉だなんて…感激で涙が出そうよ。あとね、観光ガイドブックで「日光」調べて見たけど、本当に素敵そうな所なの。湖や滝もあって、お寺や神社も豪華絢爛な造りで。仕事が重要な案件だって事、充分解ってはいるけれど、もうウキウキだわ。正座とお箸の使い方も大分練習したし、御座敷で和食を堪能する事も、もう楽しみで!」
「『豪華絢爛』なんて、随分難しい日本語知ってるなあ。日光は、俺も小学生の修学旅行以来だな。懐かしい場所だよ。それに、秋の季節では無かったしな。」
「ユウイチも、変な拘り捨てて、もっと早く日本に行くべきだったわよね。」
そう…俺はハワイへ来た時に二度と日本へ戻るつもりはないと決めて来たんだったなあ。とは言っても、当初はビザの関係で、仕方なく定期的には帰っていた。グリーンカードを手にしてからはその必要も無くなっていた。昔の出来事が日本へと帰ることを拒ませていたが、サトルと会った時にその気持ちは薄らいでいた。その後はきっかけを逃してしまい、そのうち仕事に夢中になり数年が過ぎてしまった。今となれば、もっと早く日本へと来れば良かったとも思える 。しかし、数年前にあった、あの忌々しい「出来事」が、サトルを俺から遠ざけた。何とか会いたい。自分から日本へ行けば!。でも…会えない。どんな面下げて会えば良いのか。そんな気持ちと仕事の忙しさでずっと心に蓋をして来た。それがサトルからメールが来た時に、一気に吹き飛んだ。無性に懐かしく逢いたいと思ったし、それは、心の奥底でサトルとは何とか再会したいという執着心がずっとあったからだ。
この一ヶ月、逢える事が楽しみでもあったが気持ちもどこか重たかった。自分でもどう扱って良いのか解らないドロドロな感情に支配されていてこの場になっても、その不安は消えていないままだ。
ホノルルを発った飛行機は、数時間のフライトを経て成田空港へと降り立った。日本の時間は、翌日の昼になっていて不思議な感覚だ。20数年前、この空港から旅立った筈だが、同じ空港とは思えなかった。そう言えば、その頃、第2ターミナルなんて無かったなあと思い返していた。
エミーと伴に通関の手続きを終えて、入国ゲートをくぐった。一応、ツアーに便乗しての入国であり、多少団体行動の拘束を受ける。都心へと向かう電車に乗り込む前に急いでサトルにメールを打った。
《無事、成田空港到着です。ユウイチ。》
僕はメールを受け取ると、仕事中に関わらずデスクを離れて直ぐにユウイチに電話をかけた。
「ユウイチさん、サトルです。ようこそ日本へ!」
「サトルか!今、成田の到着ロビーにいるよ。久し振りだなあ。」
少しかすれてはいるが、懐かしいユウイチの声に違い無かった。
「本当に久し振りです。おかえりなさい、と言った方が良いのかな?」そう言うと、電話の向こう側のユウイチから笑い声が聞こえて来た。
「ちょっと待って!今エミーと代わる。」
「サトルさん。覚えていますか?エミーです。こんな形で、また、会える事になるなんて、なんて素敵なことなのかしら?今回は、社長の監視役として付いてきました。社長一人じゃ危なっかしくて何をしでかすか解らないので!」
今度は僕が大笑いした。確かにそう言えなくもないな。
「サトルさんの家族に会えるのも楽しみにして来ました。短い間だけど、お世話になります。会話は日本語で全く問題無いので遠慮なく。」
確かに流暢な日本語だ。トーンも快活で陽気で聞き取りやすい。これなら日本での交渉事は上手くまとまるに違いない。電話は再びユウイチへと代わった。
「サトル。日本滞在が短くて慌ただしいけど宜しく頼む。今日も、到着早々ツアー会社に挨拶しに行く。明後日は朝からフリーにしてるから、日本の案内頼むな。」
「オッケーです。ユウイチさん。準備手配に抜かりは有りません。それに日光の紅葉は今、丁度見頃らしいです。そして天気予報も上々、晴れの見込みですしね。少しだけ急ぎの観光にはなるけど、ハワイのオプショナルツアーよりは多少マシかもしれません。短期間ですが日本の秋を満喫してくれればと思っています。あと、今朝奥日光は初霜が降りたそうなので、思ったより寒いかもしれません。防寒の用意だけはしっかりお願いしますね。一応、現地のタクシーでは上に羽織るジャケットは用意してくれるそうです。」
「わかった。色々準備してくれてありがとう。夜に又、連絡入れるよ。」
そう言って、ユウイチは電話を切った。
僕は、笑顔の余韻を残しながら電話を切ると直ぐに仕事のデスクへと戻った。明日は埼玉にある工場へと出向く。医薬品の研究チームの技術者達との定例会に臨む為だが、その資料作りを進める為パソコンへと向かった。
ユウイチは、エミーを連れ成田エクスプレスの乗車を急いだ。成田に着いたこの足でそのまま都内有楽町近くにある大手旅行代理店へと出向く為であった。
今回の来日はその旅行代理店とのツアー企画の商談の為である。その企画とは、ハワイ旅行のヘビーユーザー顧客を対象としたオリジナルツアープランのことで、その内容は、ハワイに有る高級貸別荘に宿泊し、滞在中にダイビング、クルージングなどのマリンスポーツ三昧を組み合わせたツアーである。その別荘は、ビーチに面していて、敷地の専用デッキにボートが横付け出来る。その立地を利用し、目玉企画として別荘から直接、今人気のカネオヘの洋上にあるサンドビーチへと案内し、海に浮かぶ砂洲で「アフラ、オカ」と呼ばれるサンドバーでワンランク上のバーベキューパーティーをするなど、グレードの高い内容となっている。
カネオヘのサンドビーチは、引き潮時にカネオヘ湾沖に現れる砂洲で元々は神聖な場所であり、そこに上陸し遊ぶ事が出来るのはハイソサエティな金持ちだけに許された特権的なレジャーだった。それを、ハワイ政府と交渉して平日だけ観光用に開放して貰える事になったが、ごく限られたガイドにだけ人数制限での許可が下りた。それにユウイチが選ばれたので、その特別プランを普通のハワイに飽き始めた日本のハワイ通エグゼクティブ達に紹介する企画を立てたユウマリンリゾートがほぼ独占的に扱う事になり、日本の旅行代理店との交渉に臨む事になったのだ。ユウイチの意気は上がっていた。この企画をどうしても成功させたかった。
ユウイチ達は、大きな荷物を抱えて東京駅の八重洲口に降りた。旅行代理店の車が迎えに来てくれていた。ユウイチとエミーは迎えの者に丁寧に挨拶をした後、後部のハッチを開け、荷物を収納した後、その車に乗り込んだ。代理店本社ビルには直ぐに着いて、必要最小限な手荷物を持って、建物の中へと入って行った。
ユウイチ達は上階の応接間に通され、代理店の担当者達の歓迎を受けた。ユウイチは、短くとも丁寧な挨拶をした。相手は少し上の年代ではあったが、ユウイチの放つ雰囲気に圧倒されていた。この日は顔合わせであり、正式な商談では無かったが、ユウイチがリードする形で早速交渉の本題に入った。日本での滞在時間は限られている。事前に大まかな資料のやり取りを済ませたかった。下話として、資料、写真を提示しながら、他の会社では殆どがカネオヘの港まで来てもらい、ボートでビーチまでの送迎だけなのだが、自分のプランは、リッチなエグゼクティブな顧客限定で滞在している別荘の専用デッキまで直接迎えに行き、「アフラオカ」でグレードの高い食事をして戴くハイエンドなプランであり、更にVIP待遇をするのには、どういった付加価値を盛り込んだ方が良いのか、価格設定などの提言を求めたいと言った話をした。そして、明日の正式な交渉会議をスムースにする為に、資料の入ったメモリースティックを渡した。実際の交渉会談を濃密で有意義な時間にしたいユウイチの意気込みは、相手には充分伝わった様だった。また、エミーは契約交渉の駆け引きはお手の物である。エミーは、丁寧に優しく、笑顔を振りまきながらもポイントでは押しも迫力もあり上手に威圧感を剥ぐらして交渉の下話を進めた。アメリカ人らしく、物怖じせず、曖昧な表現や妥協などはしない。柔和にハッキリと物を言う事が上手である。今の会社があるのも、彼女の功績は大きく、自分にとっては10年来のベストビジネスパートナーである。簡単な顔合せのつもりが彼女の話で既に商談の90%が済んでいる状況である。こちらの希望が全面的に通る見込となり思わずホッとした。後は、明日の午前中、重役を交えての交渉に臨む。会食の誘いもあったが、それは商談が成立した後にとお願いした。
時間は夜の7時を過ぎて、オフィスからお暇した。宿泊のホテルは、代理店の方で用意して頂いたので送って行くと申し出でが有ったのだが、立ち寄りたい所が有ると丁重に断り、大きな荷物だけをホテルに届けて貰う事にして、2人はオフィスを出て歩き始めた。
発進間も無く
「エミー、夕食位ご馳走になっても良かったのに。」
「いいえ、社長。最初からそういう馴れ合いの関係は足元を見られますよ。あくまでもそういう事は、契約が成立してから。それまではご馳走などになるものじゃ無いものよ。その代わり、明日無事に契約に結び付けられたならその後は、蜜月の関係で。思い切りご馳走になりましょう。そして、その御返しの席も設けるのが礼儀だわね。帰国の前夜あたり、会食出来る良い店を、社長は思い付きます?」
「いやあ、日本の店とかは、全く判らないなあ。
「そうね…。それならサトルさんに聞いてみてくれないかしら?」
「そうだなあ。あいつならいくらでも知っているだろうな。聞いておこう。」
「それではそうして下さい。ところで、今夜は何を食べようかしらね⁉︎。とにかくお腹ペコペコよ。」
「 ここは、銀座が近いな。それなら確か、並木通りに有ったかな?昔、行った事のある老舗の洋食屋、あーそのつまりは洋風な美味しい食事を出してくれるレストランが有るんだ。そんなに豪華な所じゃ無いけどな。」
「そこで良いじゃない。早速行きましょう」
エミーは、ルンルンだった。俺にとっては、本当に懐かしい。あいつとデートした場所だったな。少しだけ足取り重くエミーを先導する形で向かった。
その店は、今でもチャンとその場所に建っていた。昔の面影が蘇る。店頭で、
「ここは、確か、ハンバーグと、オムライス、カツレツが美味しかった筈だ」そう言うと、エミーは、
「小さいけれど良い感じの店ねえ。」そう言ってそそくさと入って行ってしまった。テーブルには空きがあり、2人は直ぐに通され着席した。エミーは、珍しいからと、オムライスを、俺はハンバーグ定食を注文した。ユウイチは、ドリンクが運ばれる前にテーブルを中座してサトルに電話を入れた。