こちょこちょ話。
タクシーで十分ほど走ると、大きな総合病院に辿りつく。
その間にお兄ちゃんはくしゃみではなく深く咳き込むようになり、寒さを訴えるようになった。
お姉ちゃんがお兄ちゃんを抱えて先に降りるので、私がお姉ちゃんの財布からお金を払う。
平日の昼間は待合室も混んでいなかったが、それでも順番が回ってくるまで十分以上待つ。
レントゲンの結果、肺炎になりかけていることがわかり、お兄ちゃんはそのまま入院することになった。
諸々の手続きの間に治療してもらっていたお兄ちゃんは、病室で会う頃にはずいぶんと顔色がよくなっていて、私の顔を見て笑顔を作ってくれた。
「ごめ……」
喋ろうとするお兄ちゃんの口元に手を持って行って、それを制する。
「喋らないで。咳出ちゃう」
こくこくと頷きながら、げほげほと深い咳をふたつする。
ごめんねは私の方で、自分の行動を振り返っては頭を抱える。
代われるものなら代わってあげたい。
代わってお兄ちゃんに看病してもらって、くまなく体拭いてもらって、熱を計ってもらって……ダメだ。反省した端から欲望が……。
「じゃあ、こちょこちょ話」
「あ、うん」
囁き程度のその声に私はお兄ちゃんの枕元に屈む。
ちなみにこちょこちょ話とは、よそ様で言うところのひそひそ話のことなのだが、お兄ちゃんが「こちょこちょ話」と発音するのがあまりにあまりなほどにキュートなので我が家ではこちょこちょ話が正解だということになっている。
「セリカちゃん――」
そして声帯を揺らさないように喋る。
九割が甘く切ない吐息で構成されたそれが、私の鼓膜を優しくなぞる。
膝がふにゃふにゃになる。
いやはやこちょこちょ話とはよく言ったものだ。
この行為は恋人同士だけに許される行為なんじゃないだろうか。
そもそも首を九十度ほど捻るだけで、今私の耳のある位置は私の口の位置になる。
お兄ちゃんの唇の位置は変わらないので、口と口がこちょこちょ話をすることになる。
そこに少し誤差が生まれると、こちょこちょ話はちゅーちゅー話になるんじゃないだろうか。 そしてちゅーちゅー話はぺろぺろ話に進化する。
言葉なんていらない。口から口へとゼロ距離で直接気持ちを伝えるという情報伝達手段。
これこそまさに愛と平和。
「ねえ、聞いてる?」
そんなことを考えている間にお兄ちゃんのお話は終わっていたようだ。
もちろん聞いているわけがない。
頭の中はお兄ちゃんとの唾液交換会のことでいっぱいだったのだから。
そして当然ながら、お兄ちゃん顔が近い!
「ごめんもう一回話して」
「もう……」
少し呆れた顔をするものの、再びこちょこちょ話をしてくれるお兄ちゃん。
今度は理性に二文字を噛みしめて何とか耐える。
話の内容は大したものではなく、明日学校に行ったらプリントなどをもらっておいてほしいというものだった。
お兄ちゃんならではの心配だなと思う。
こういうのはだいたい近所に住むクラスメイトが届けてくれるわけだけど、お兄ちゃんに仲の良い女子はいないし、男子なんてもってのほかだ。
そうなってくると花咲が適任だが、お兄ちゃんとしては花咲に迷惑はかけたくはない。
だから隣のクラスである私にしか頼めないのだ。
「お願い……していい?」
うるんだ瞳でそんなこと言われて断れるわけない。
もちろんOKだ。
気持ち的にはお兄ちゃんにずっと付き添っていたかったが、重病でもなく部屋も個室ではないので私とお姉ちゃんは、ベッドの上でやんわり手を振るお兄ちゃんに見送られながら、後ろ髪が千切れる思いで病院を後にした。




