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紙上史  作者: こーりょ
1 元の世界へ帰る為の、紙の上に記される短い歴史
9/100

1-08 保証

「……くそ。暑い」

 空は悪態をつきつつ、首にかけたタオルで汗を拭う。夏真っ盛り。この世界では暖期と呼ばれる季節だが、その気温は暖などという文字で現せるほど生ぬるいものではない。何度目かわからない拭う動作も虚しく、額から流れ落ちた汗が遠慮なく空の目に入る。

背中全体が汗で濡れていることに気がつき、顔をしかめた。限りがいいところで作業を中断し背中同様びちゃびちゃになった手を軍手から引き出しながら、垂れてくる汗を目に入れぬよう天を見上げる。今日の天も申し分なく、ムラのない青で輝いている。


 津島和音が宓浦空の同居人になってから、六日目の昼にさしかかろうとしていた。昨日いただいた奥さんの誘いをありがたく受け取った津島は、今もどこかブロックで空と同じように汗を拭っている。わからないと不便だからと始めた文字の勉強も、三日目にしてはやくもコツをつかみ始めていた。


 天が一番明るくなる時間を少し過ぎる頃合いに、担当分の仕事を終わらせるのがここ最近の空たちのペースだ。主人の家から漂う香ばしい昼食の香りに腹を押さえつつ、作業用の長靴から普段の靴へ履き替える。

「なんでこんな暑いんだ、太陽もないくせに」

 手を洗うため畑の端にある水汲み場へ歩きながら小さく溜め息。暑さのあまり喋ることが億劫になりつつある彼だったが、水汲み場には先客が居た。


「お、ソラだ。今日は暑いね!」


 赤茶色の髪の毛の、ここのお家の一人娘ジェリクス。空はぱちりと頭の中のスイッチを切り替え、やかましい笑顔で挨拶を返した。


「おー!! ジェス、おつかれ!! もう学舎は終わったのか、早いな!!」

「終わったっていうか……うん、まあね! ちょっと畑の方が気になって急いで帰って来たんだ。こんなに暑いのに元気だなー、ソラは」

「まさか講義をさぼって???」

 空の言葉にジェスは拳を振り上げる。

「違うよ馬鹿! そこまで悪い生徒じゃないぞ、あたしは!」

「痛っ!!! お前そんなことで殴るなよ! ちょっとふざけただけじゃないか!! まったくもう」

「あたし結構まじめなんだからね?」

「わかった! わかったから!! ほらそうやって人を殴るんじゃありません!! な? 痛い痛い」


 これ以上殴られたらたまらない。空は振り下ろされるジェスの手首を掴み、やめろと顔を覗き込もうとする。しかしジェスはすばしっこく顔を反らせ、なかなか顔を合わせようとはしなかった。

 そんな攻防の間に、控えめな声がそっと割り入る。


「な、なにをしてるの?」


 声の主——軍手を片手に持った津島は、二人の視界の真ん中で眉を寄せ、苦笑いを浮かべていた。


「で、あ——……できればそういうのは、人目につかないところでやったほうがいいとおもうんだけどな……」

「そうか。確かに人が居るところじゃ話しにくいかもしれないしな!!」

「えっ、いやいや、カズ。別にあたしたちはそんな変な話をしていたわけじゃなくって!! ソラもそういう誤解招きそうな言い方するのやめてくれない!?」

「誤解ってなんの??」

 首をかしげた空にジェスはパッと顔を赤らめわなわなと口を震わせたかと思えば、最後には大きな声を出した。


「っもう!! あたし仕事残ってるから!!!!」


 空の手を強く振り払い大股で畑の方へ戻ってゆく背中に取り残された二人は、互いに顔を見合わせる。先に口をひらいたのは、津島。


「こんな明るいうちからあんなに迫るなんて。ちょっと可哀想な気がするん、だけど」

「は、迫るってなんだよ!! そんなことしてないよ!?」

「えっ、いや……外野から見たらすごく迫ってたよ。仲いいのはいいことだけど、ここは、あの。皆が使う場所だから……さ」


 言いながら水汲み場へ目線を投げる津島に、空は首を大きく横に振った。


「だから違うって! もう、カズってば勘違いしすぎ! ジェスまた俺のこと殴って……!」

「そ、それはジェスの性格じゃないかな? だって空が煽るようなこと言うから」

「だからってあの力はやりすぎじゃん!! 日々農具振り回しては土を運ぶ自分の力がどれだけ強いか、自覚してほしいよ」


 大きな声でそうわめきながら、ぶんと拳を振ってみせる空。確かにジェスの力は細い腕の割りに非常に強い。大量の肥料を軽々と運ぶ彼女を初めて見たときは津島も度肝を抜かれたものだ。


————津島がジェスと初めて会った日から今日で四日目になる。

 ジェスは感情がわかりやすく外に出るその性質のためか、津島にとっては非常に接しやすい人だった。

 それと同じような感情をジェスも抱いてくれている。わかりやすいが故、津島はすぐにそれを確信した。確信したその日のうちにそれとなく理由を訪ねてみれば、返ってきたのは質素な答え。

「なんでてって言われてもなぁ……なんか似てんじゃん? 年齢とかさ」

 自分の意識が見透かされたことに驚きもしないジェスの態度に津島は正直なところ動揺したが、それでも慣れない土地に来たばかりの津島にとって、お姉さん風を吹かせながら街の様々なことを教えてくれる彼女は、面白く、ありがたい存在となっていたのだ。


 そんな優しい彼女と接する中で、津島には意外だと思うことがいくつかあった。そのうちの一つが会話の中で滲み出る、空への好意だ。

なにがきっかけだったのだろうか、それはいくら想像してもさっぱりわからなかったが、とにかく空を追うジェスの目線は、ほかの人に向けるものとは質が違っていた。いつかの機会にそれとなく聞いてみたら、ジェスなら教えてくれるだろうか。

 察してからジェスのことを観察するとその好意はあまりにもわかりやすく真っ直ぐで、気がつかない空の鈍感さに津島は驚かされるばかりだった。可哀想に、と再び津島は思う。好意なく、好意を持っている相手から両手を掴まれ迫られるのは一体どういう気持ちなのだろうか、とも。

「やぁ〜っ、少女漫画みたいだなあ」

「なんか言った??」

「あっ、ううん。なにも」


 仕事を終えた二人は、港町へ続く砂利道を引き返しながら普段通りたわいもない話に盛り上がる。せっかくの港街だから海を見に行ってみたいという津島のつぶやきに反応した空は、しかし視界に移った人影へ「やべ」と小さく焦りをこぼして足を止めた。

「どうしたの、忘れ物?」

「いや!! あの向こうから歩いてきてる人……!」

 小さく見える女性と大柄な男性を指差す。このまま進めば、数分後には互いにすれ違うだろう。

「あれ、きっとベニヒさんとグルーンさんだぜ!! こんなところで何してるのかな……」

 その言葉に、津島はもう一度人影を見やる。聞いたことがない名前へ、空のとっさの反応もあってわずかに体をこわばらせるも、やがて二人の前で歩みを止めたベニヒとグルーンは揃えて片手を上げた。


「おっす。こんちは!! お前がツシマカズネか。やっと会えた! 俺はグルーンだ」

「えっあ……はっ、初めまして、グルーンさん」


 深く頭を下げた津島は、恐る恐る視線だけで男——グルーンを観察する。190cmは超える大柄な体格に、好き勝手跳ねた緑の短髪。輝くような笑みはどこか人懐っこい大型犬を連想させた。この様子だと、二人は津島と空に会いに来たのだろう。津島は必死の思いで言葉を続ける。


「フルネームだと大変でしょうから、ぜひカズと呼んでください。よかったらベニヒさんも……」

「おっ、じゃあお言葉に甘えるとしよう。カズ、こいつはぽぽーんの戦闘要員かつ、一番の戦闘バカだ。よくしてやってくれ。毎日ここらに通っているという話を聞いて会いに来たんだ」

「ずっと会いたかったんだけど、一人じゃ誰がカズかわかんないだろうからって言ってベニヒに付いてきてもらったんだよ。よろしくな」


 大方、アルバイトの話をしたのは道を挟んで向かいに住む建築ギルドの夫婦だろう。差し出された左手に、津島も慌てて左手を上げる。

 津島はこのときすっかり失念していた。最初、ベニヒは握手を知らなかったということも、そもそもこの世界には握手という文化が存在しないらしいということも。だからこそ、手を握り返すことに抵抗はなにもなかった。


「あー……っ」


 空が短く声を上げる。握手を解いたグルーンの口角が上がり、その隣でベニヒが呆れたようにため息をつくのが見えた。

 三者三様の反応へ首をかしげる津島に、空が両手を顔の前で合わせる。


「ごめん、カズ。オレ初めてグルーンさんに会った時に、雑談でぽろっと言っちゃったことがあって……」


 左手での握手は、決闘の申し込みらしいよ——と。その言葉が終わるのを待たずグルーンの黄色い瞳が鈍く光った。一瞬だけ強く放たれたそれは、殺気。


弾かれるようにして身を引けば、津島の胸の前へグルーンの大きな手のひらが突き出されていた。下がる距離を間違えていたら突き飛ばされていただろう。考えなくともわかるその事実に頭の奥が凍りつく。


「おお〜やるねー!」


 舌なめずりもしかねないグルーンの表情へ、わずかながらも冷静になった津島は自らの選択が間違えていたことに気がつく。ここは突き飛ばされていた方が正解だったのだ。グルーンが格闘ゲームのキャラクターばりにとりはじめた構えへ、気が遠くなる。


「まっ、待ってくださいグルーンさん!!! 自分はそん……わっ!」


 勢い良く突き出された拳を反射でよけたことにより、グルーンは笑みをさらに深くした。


「すげーよお前。最初の、ソラはかわせなかったのに」

「でっ、でも、自分は戦えません! ベニヒさん!」

 助けを求めようと声を上げながら、続けて襲いかかる拳を半ば転がるように避ける。その声はすでに鼻声で、瞳にも薄く膜が張っている。しかし、ベニヒは苦笑するのみで関与する気は一切ないようだった。薄情だ! と、津島は心で叫ぶ。

 畜生。と普段は考えもしない悪態が心に染みを作った。この状況はあまりに理不尽だ、勝てるわけがないじゃないか、とまぶたの淵の涙が堪えきれずちょっとだけ溢れ落ちる。

 津島和音にとって運動は大がつくほど苦手な項目だった。体育で行う持久走や短距離走は最下位、または下から二、三番目が定位置。握力だって平均以下。バレーボールをすれば床に落とすか顔面でボールを受け止めるくらい、運動神経がない。しかしなぜ、今回ばかり初発でうっかり逃れてしまったのか。逃れることができたのだろうか。

 適当に殴られてこの場をやり過ごしたいが、スイッチが入ったグルーンは納得しないだろうし恐らく……痛いだろう。どうすればよいかを考えつつ足を動かした津島は、しかしそこで自身の変化に気がついた。


 前の世界での自分より、足が速くなっている。


 それは予測ではなく、確信だった。不思議と体が軽い。無駄な脂肪が落ちたような感覚だった。仮に痩せただけでここまで体が軽くなるのなら食事の量を減らす努力の価値もあるかもしれない。そんな無駄な思案をする余裕も生まれてきた。

 意を決して足を止め、向かってくるグルーンに向き合う。虚をつかれたような彼へ、津島は迷わず姿勢を低くして地面を蹴り飛ばした。そこに生えた草花を、根からえぐるようにして。右肩をグルーンの下腹部にぶつけ、全体重をそこへかけると共に背中に腕を回す。かみ合わせた歯がこすれ合い、ギシと嫌な音を立てた。


「うお」


 上から聞こえた小さなうめき声にふと我に帰る。本来彼にやりかえしをするつもりはなく、どうやって逃げ切ろうかということばかり考えていたはずだったのに。

 また選択を間違えてしまったという後悔も時すでに遅し。グルーンの体は、ぐらりと傾いた。受け止められるとばかり思っていた津島には踏みとどまる準備などなく、そのまま一緒に倒れ込む。

 地面に腕を擦る感覚へ顔をしかめつつ、グルーンの上から起き上がった津島の視界の端に、目を見開く空とベニヒの顔がうつった。


「あ……あの……」


 立ち上がった津島の声に、しばらく天を見つめて動かずにいたグルーンが弾かれたように体を起こし、津島の顔をじっと見つめる。ベニヒがわははと大きく笑った。


「気を抜いたな、グルーン!」

「あ……ああ、完全に舐めてかかってた……! 参った。思ったより力強いし身のこなしもシュッとしてる!」

 その笑顔は新しいおもちゃを見つけた子供のそれ。純粋な笑顔に、津島は困惑する。

「すっ、すみません。本当はこんなつもりじゃなかったんです! 足が速くなってて、嬉しくなってしまって……」

「すごいな!! カズ! なんかやってたのか!?」


 言葉を遮った空へ、首を横に振る。


「やってない! やってない! それどころか運動はさっぱりだよ……」

「嘘付け!! 腹の中身が出るかと思った。本当はちょっとカマかけて終わるつもりでいたんだ。ソラにやったようにね。でも全部綺麗に交わすもんだから熱くなっちゃったぜ」


 ズボンに着いた雑草のかけらを払いながら立ち上がったグルーンは、嬉しそうに体を揺らした。


「いやー、話を聞いてからこうやって会えるまで待った甲斐があったな。今度一緒にトレーニングでもし……」

「グルーン、そのあたりにしておくんだ。あえて怪我の増える道へ引き込む必要もないだろう。悪かったな、カズ。グルーンの暴走から助けてやれなくて。変に邪魔をするとあとが怖いんだ」

「むう……怖くなんてないよ。カズ。手合わせをどうもありがとう! 突然襲ったりして悪かった」


 再び差し出された手は右。津島はそれにおずおずとうなずき、手を差し出す。しかしその手を握ることは叶わなかった。


「カズ!!!すげー傷だぞ大丈夫か!!」


 静まった草原に響いた空の悲鳴は、津島の両腕からにじみ出て今にも地面へ落ちようとする血に向けられていた。

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