1-09 街の頼れるお医者様
グルーンの下敷きになった腕が地面に擦れただけだと、津島は思う。ただの擦り傷だからそこまで大騒ぎをする必要はない、と。
しかしその言葉は聞き入れられず、引きずられるようにベニヒに腕を引かれ連れてこられたのは港にある一艘の小さな船だった。
それまでシャワーのように謝罪の言葉を津島に浴びせていたグルーンがすっと静かになる。
「あっ、あの、ベニヒさん! どこへ」
「ここにぽぽーんの治療係が住んでるんだ。さ、入れ」
ベニヒは津島の声を遮り、その背を船のなかへ押し入れる。中には船という外観に似合わず生活感のある空間をが広がっていて、まるで誰かが家として使用しているようだった。きれいに磨かれた窓に下げられた薄い布地のカーテンへ目がゆく。壁にかけられた絵やカラーボックスといった、漁であれば本来邪魔にしかならない家具たち。廊下をずかずかと最奥まで進んだベニヒはそこの扉の前で一度立ち止まり、絵のわずかな傾きを正しながら拳を肩の上まで持ち上げた。
「ミヨ、入るぞ」
ノックの返事を待たず扉を開けたベニヒに引きずられるようにして、津島も部屋の中へ脚を踏み入れる。細い金の髪を後ろで一つに緩くまとめた背の高い女性が突然の侵入者に眉をひそめた。
「……なんかあったの?」
「ああ、なんかあったの。カズ、紹介するよ。こいつがぽぽーんの頼れる治療係だ」
「ミヨ・トッペスだよ、しくよろ。ってことは、後ろのがソラだね。用は?」
「けがの治療だ。グルーンがまたやらかしてさ」
「めんぼくないです」
小さく肩を落とすグルーンを一瞥し、ミヨ・トッペスは軽く頷く。
「いいよ。みして」
暖かい声色に促され、津島は躊躇いつつも怪我をした両腕をゆっくりと持ち上げる。傷のあった場所が露わになったその瞬間、ベニヒは「おや」と首をかしげ、津島は部屋の温度がわずかに下がったのを感じた。それは正面からミヨを見る津島だけの錯覚かもしれないが。体がふるりと震えそうになるのを唇をかむことでなんとかこらえて、自身の腕から視線を離さない眠たげな瞳を見つめる。
「あの……ミヨさん」
「もしかしてトッペスはからかわれてる?」
大きく首を横に振る津島に続き、ベニヒもあわてて口を開く。
「そんな悪趣味なことするか! 怪我をしたときのことはここにいる皆が見ている。……だがなぜ」
なんだなんだと、後ろにいた男性二人も津島の腕を覗き込んで動きを止めた。
困惑するのも無理はない。ミヨの前に差し出された腕に擦り傷はなかった。あったはずの傷は姿を消し、代わりと言わんばかりに新しい皮が残されている。畑仕事で焼けた肌のなかに置かれた白い肌はよく目立つ。
触ってもつねっても色の違う皮同士に離れる様子はなく、みるみるうちにミヨの顔が難しいものへと変わっていった。
「ベニヒがやったわけでもなく?」
「ああ、治癒系のは今丁度持っていないんだ。そもそも私がやれてたらつれてこない」
「それもそうだね。……気になるところだけど、治ってるならとりあえずトッペスにできることはない。……カズ数日後気が向いたときにまたこの傷見せにきて。すこし気になるから。大抵トッペスはいつでもここに居るし」
「わ……かりました」
あっけなく解放された腕はそう強い力で掴まれていたわけでもないのにしびれていて、指先に至っては血が通ってないのではないかというほどに冷たくなっていた。
「ど、どうしようもないです。原因がわからないことをあれこれ悩んだって」
船を出た津島は、前を歩く一行にそういった。謝らなければならない人は、ここにはいない。誰も悪くない。強いて言えば、傷を作った自分が悪いのだと言わんばかりの口ぶりに、グルーンが「でも……」と口を開きかけて閉じる。ベニヒがどこからともなく酒瓶を取り出し、直であおった。
「——カズの言う通りだ。しかしそれは当然、カズにも当てはまるんだからそんな顔をするな。真っ青だぞ」
ベニヒは瓶を持っていない方の手で、白くなった津島の頬を緩くつねる。
「そもそもお前たちはすでによく分からない状況下にあるんだ。よく分からないことがいくつか重なったところで大した話じゃない」
豪快に笑うベニヒの、あまりに楽観的すぎる考えに、しかし津島は表情筋を緩め小さく頭を下げた。
そこで今まで無言を貫いていた空が歩みを緩め津島の隣に並ぶ。津島がなにかと顔を上げるまえに、その脇腹が強く肘で小突かれた
「痛! なっ、なに……?」
「やるじゃん!! グルーンさんを倒すカズ、かっこよかったぜ!!! オレ最初の一発を避けらんなくてさ、あっけなく地面に尻餅ついちゃって」
「で、でも、戦えなくったって……」
「悔しかったから、もう一回! つってやり直しさせてもらって、そうしたらなんとか触ることもできたんだけど!!」
「あのときのソラの形相ったらすごかったなあ……本気で殴りかかってくんだもん」
「だってそうしてでも勝てないですもん! やるならやらなくちゃ」
市場のひとつ横の細い道、低い階段に響く軽い笑い声。津島は左の人差し指をつまんで、その笑い声に口角を上げた。
歩くペースを上げ、空たちとの間にできた距離を詰める。もう遅れてしまわぬようにと、津島は考え事に浸らないよう足を動かすことに集中した。




