4-17 年明け
翼人の村 セネスリードにてウォルノール軍につかまった五日後、“年明け”が訪れた。
昼夜がはっきりとしない薄暗かった世界に輝きが満ちる。
地上から絶え間なく打ち上がる光の線に天のおわりが波立つ様を見上げながら、宓浦空は吐き気を必死に飲み下した。
「これが年明け……」
この世界で人間が住むことのできる環境を保有する数少ない三国のうちの一つ、シフォルア街。
浮遊島であるこの街のそのいっとう一番高い場所に、空は居た。
不快感を紛らわすためのつぶやきに、背後から響く声は女性のもの。
「生命誕生のきっかけと言われている“世界の呼吸”になります。
世界の魔力が循環することにより心と体が離れ死に至るケースがままあります。ご体調はいかがですか?」
「ん」
「少しでも体調に不具合を感じましたら、すぐにお休みになってください」
天を広く見渡すことのできるよう、一角がガラス張りになったドームにて、空はぞんざいに相槌を打った。
覗き見などを気にする必要はない。同じ高さの建物が存在していないからだ。
眼下にはシフォルア街——政治の根本に宗教を置いた小さな国が広がっている。
大抵の民は非常に信心深い……とされているらしく、年明けの瞬間は家の中で祈りを捧げているらしい。
一つ一つの天井は小さく、数えることは億劫だ。
空の部屋————ドームは、そうして祈りを捧げられる神殿の最上階に位置している。
「お茶をこちらに置かせていただきます」
先ほど空を気にかけた女性が、小さく陶器の音を立てた。
この五日間、そして彼女いわくこの先もずっと、空の——ソラリス神の世話をするらしい。
頭部を分厚い布で覆っており、素顔どころか髪の毛一本見れたためしは一度もない。
一方的にこちらの顔を見られることに不快感は多少あったが「お見せできるものではないので」と言われればそれまでだった。
「空腹はありますか?」
「べつに」
早々に年明けへ飽きを見せた空は、ドームの中心に設置された無駄にきらびやかな椅子で本を開く。
光の筋が打ち上がる様は派手だが視界以外の情報はなにも変わらない。
ドームを形成するガラスや骨組みが軋むこともなければ、匂いも何も変わらない。
そして世話係が淹れるお茶も、いつも通りとても美味しかった。
悔しさ半ばに音を立てて一気に飲み、もう一度明滅の激しい野外へ視線を向ける。
——津島和音は、この光景を見ているだろうか。
ウォルノール軍2番隊に連行されてからの彼の情報を、空は一切持っていなかった。
調べるよう頼み込んではいるが、結果の乏しさは報告されずとも想像がつく。
しびれを切らし外に出たいと頼み込んでも、世話役は一向に首を縦に振らないのだ。
やがて光の明滅が収まり、透き通るような青が外に広がる。その色は港町ブラウから見上げるものより浅く感じた。
「新たなこの一年は、ソラリス様が再びお姿を現した記念すべき年となります」
ドームの出入り口脇で佇む世話役が、抑揚のない言葉を続ける。
「各国では祭りが行われることでしょう。多くの贈り物がシフォルア街へ捧げられます」
「どうせ俺はここから出られないんだろ、意味ないじゃん」
空も身の振りを気遣わなくなっていた。
いくら声の調子を落とそうが、世話役である彼女がなにかを思うことはないと知ったからだ。
食堂から一日三食の膳を運び、暇つぶしにと空が要求した本を運ぶ。
その繰り返しの毎日に不満すら抱かない様子からも、彼女はまるで心を抜きとられたようだった。
「贈り物によりシフォルア街は豊かになります」
「俺への贈り物がこの国の住民に回されんの? なにそれ」
「この国の民はソラリス神のもの。それが豊かになることはつまり……」
「あー、いや。どうでもいい」
御託はどうだっていい。それは空の本音だった。椅子に深く座りなおし、本をめくりながら口を開く。
「以前、神が姿を現した七年前のことを聞いたことがある。当時の神は各地を巡ったらしいけど、なんで俺はダメなの?」
「当時の神もあなたも、変わりのない存在のはずですが」
「質問に答えろって」
大きなため息をひとつ。
「逆にお前は当時のソラリスと俺、本当に変わりない存在だと思ってるわけ」
世話役はその言葉を受け、初めて言葉を詰まらせた。
生まれた間に空は視線を本から世話役へと持ち上げる。確認したところで表情は隠されているが、
それでもその手は体の前で固く組み合わされていた。
言葉にささやかな期待を込める。
「言っていいよ」
ドームは声をよく反響させた。
逆らえないのだろう。世話役は密かに体から力を抜き、小さく息を吸い込んだ。
「お顔は変わりありません。ですが本や味の好みはまるで正反対だと感じておりました」
「でも同じものとして扱わなくちゃいけないんだ。
冴は……以前のソラリスは物語が好きだったんじゃないか? おとといくらいまでそればっか持ってきてたもんな」
今 空の手元にあるのはこの世界の歴史に関する本。
学術書と分類される図書の方が、空は好みであった。
たとえどんなにドラマチックであろうと、空にとって他人の物語に興味を持つことは難しい。
「それで? どうして以前の神は外を歩けた?」
「七年前の『神の再現』が発覚したのは、実際に再現が起きた約二周後……二十日後でした。
あなたがここへお戻りになるまでに時間がかかったのと同様に、過去のあなたも各地を巡ったのち自らの足でシフォルアへといらしたのです。
歪妖の要素を持った、一人の少年とともに」
ふいに出た名前に空は眉を上げた。
この世界の魔物には大まかに二つの種類がある。
ひとつは人間同様に血液を持ち、死亡した時に肉体を遺すもの。
そしてもうひとつは、急所を突かない限り永遠に肉体は再生し、死亡すると核のみを残し肉体は綺麗に消滅するもの。
その核でさえ、一定の時間が経過すれば消え去ってしまう。
後者の魔物は、得られる素材が少ないことから狩猟で生計を立てる者たちからハズレの魔物と呼ばれているが
その正式名称は歪妖。
この世界の歪みにより生じた、意思を持つ現象のようなものだ。
空は、男の形をしている歪妖の存在に心当たりがある。
「その歪妖は黒目、黒髪だったか? 二人の関係はどういう感じだった?」
「容姿はその通りです。非常に打ち解けていました。気兼ねない……友人関係といえばいいのでしょうか」
歪妖は、神の作ったこの世界を脅かす存在。
通常であれば神殿に立ち入るどころか、神と接しては良くないのではないか。
空がそう口にすれば、再び世話役は黙ってしまった。
——困っている。そう確信を抱く。
「わかった。じゃあ、その歪妖の名前は?」
「あなたが探している人間とは異なっていました。確か……」
逡巡の間の末、世話役は小さく息を吐いた。
「そうでした。あなたは彼のことを、ユキと」
「ユキ……。そのユキと神は最後どうなった? この部屋で自死でもしたのか?」
「いえ、おそらく今あなたが座っている場所で姿を消されました。私はご命令どおり席を外していましたので詳細は……」
「消えた? 跡形もなく? 行き先はわからないのか」
「はい、魔法を使用した気配もありませんでした」
彼女の両手は依然、体の前で白くなるほどに強く握り込まれている。
今現在、目の前で偉そうに踏ん反り返っている空と、以前の神が違う。
そう認めてしまったことが彼女にとってはよほどのことらしい。
年明けが過ぎた天は一色の青。
すでに部屋の照明が不要となっていることにすら、世話役の意識からは抜け落ちている。
空は目を細めた。今日、初めて彼女が感情を示したのだ。今まで何をしても人形のようだった世話役が。
存外普通の人間だったのかもしれない。そのことにわずかな落胆がないといえば嘘になる。
「そういや神の宣言の内容を紙でほしいって件に関しては? もう三日経ってるけど」
「もう少し時間が必要です」
「……年明けの準備とかもあるって言ってたもんな。
津島の情報も待ってるから。これに関しては特に俺一人で探すより、パイプのあるシフォルアに頼んだ方が確実で早いんだから」
話は終わりというように、空は手元の本へと意識を戻す。
世話役は夕飯の時間のみを言い残し、照明を落とすことも忘れたまま部屋を後にした。
しかし結論から言えばそれから300日もの間 神の宣言や津島和音に関する情報は一つも出てくることはなく
しびれを切らした空はドームから脱走することとなる。