第八十三話 蟋蟀[こおろぎ]橋
時は寛永10年と申しますから、今からおおよそ380年ばかり前のお話でございます。
秋の夜長、チリリリリリ…と、なんとも風情深く鳴く蟋蟀の声が聞こえる橋の袂を一人の男が歩いておりました。蟋蟀橋・・この橋の名の謂れはその名のとおり、多数の蟋蟀が集くところから付けられたそうにございます。空には中秋の名月、空気も澄み渡り、夜風も心地よう吹いて肌を撫でます。男は橋半ばで立ち止りますと、欄干越しの名月を愛でておりました。そのとき、ふと男の背に声がいたしました。
『もし…、つかぬことをお訊きいたしますが…』
男が誰ぞと振り返りますと、そこには一人の若い美形の娘が立っておるではございませんか。それまで人の近づく気配もなかったものでございますから、男はギクリ! といたしました。しかしまあ、その娘には不気味な気配もいたしませんで、男は平静さを取り戻したのでございます。
「はあ、いかなることに、ございましょう?」
「この辺りに鳥居さまと申す方のお家はございませんでしょうか?」
「鳥居さまでございますか? 名はなんと申されます」
「確か、忠光さまとか…」
鳥居は、その言葉に、ふたたびギクリ! といたしました。偶然ではございましょうが、それは自分の名でございました。
「そ、それは、拙者でございますが…」
「さようでございましたか。あなた様はいつも、この辺りをお通りになられてございますね」
「ははは…あなたの目汚しになりましたかな。左様、ここは登城への近道でございますので。…して、ご用の向きとは?」
鳥居は自分をよく知っている者だ…と思いましたが、その娘には一面識もございません。
「この橋が架けかえられるそうにございますが…」
「ほう、内密の話を、ようご存知で…」
鳥居は2千石の旗本でございました。
「風の噂を耳にしたまでのことでございます。そうでございましたら、どうか、堤の草原はそのままに願いとう存じます」
「いかなることに、ございましょう?」
「訳はお訊き下さいますな。どうか、私の命に免じて…」
そう言いますと、その娘の姿は幻のように闇の中へと消えたそうにございます。鳥居はゾクッ! と寒気を覚えました。そら、そうなりましょうな。夏こそ過ぎておりましたが、怪談を聞いたのではなく、鳥居は今風に言います、オカルトの実体験をしたのでございますから…。
さて、鳥居がその場を立ち去ろうとし、足元を見たときでございました。足元には一匹の蟋蟀が死に絶えております。おお! これは…と、男は恐怖のあまり身震いし、一目散に駆けだしたそうにございます。その後、橋は架けかえられましたが、堤の草原はそのままになったと伝えられております。
まずはお粗末ながら、怪談 含みの蟋蟀橋、由来の一席、お後がよろしいようで…。
完




