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第八十四話 花の台[うてな]

 チラホラと桃が咲き始めた別荘の庭を、大会社の社長にまで出世した耳長は散策していた。春になれば、耳長の大豪邸には、さまざまな花が咲き乱れ、耳長の心をなごませた。むろん、それは花に限ったことではなく、荘厳な庭園仕立てがほどこされた中に植えられている樹々にしてもそうだったのだが…。

「耳長さん!」

 不意に、つえをついてゆったりと歩く耳長へ届く声がした。耳長は立ち止り、あたりを見回したが、誰一人としていなかった。よく考えれば、今、この庭を散策する人物は自分をおいて他にいる訳がなかった。ただ一人、庭に出ていなくもない執事の室月は、今、朝食のテーブル準備に余念がなく、その姿はガラス越しに見えたから、彼でないことは明らかだった。彼は耳長と同い年で、耳長が唯一、心を許せるいい茶飲み友達でもあった。聞こえるはずがない声に、耳長は年老いて幻聴を聞いたか? と軽く流し、また歩き始めた。

「耳長さん! ここです」

 やはり、声がする…と耳長はふたたび立ち止って辺りの様子をうかがった。すると、耳長が見回す一角に植えられた一輪の桃の花のうてなに小さな女性が立っている姿が目に止まった。そん馬鹿な話があろうはずがない…と耳長は刹那せつな、思った。まばゆい光背を輝かせたその姿は、まるで仏だった。だが、現実に、耳長の目にその小さな女性の姿は見えていた。耳長は目をこすったが、やはり姿は見えた。

「私はあなたが子供の頃、お助けいただいたセキレイです。今日はおいとまを申しに参りました。そのせつは、どうも有難うございました…」

 耳長は、そんなことがあっただろうか? と、当時を思い返したが、すっかり忘れていた。セキレイの精は話し続けた。

「あなたは、大金持ちになられましたが、それは私達一族からの、ほんのお礼です。では…」

「ああ、もし!」

 耳長が声をかけたとき、すでに花の台に姿はなかった。そして、一陣の風が吹き渡り、その桃の花びらはハラハラと舞い落ちた。耳長は幻覚を見た…と思うことにした。だが、その声は耳長の脳裡に刻まれていた。

 ふと、振り返り、邸内へ戻ろうとした耳長は目を疑った。大豪邸は忽然こつぜんと消え、そこには普通の家が立っていた。執事の室月は消え、家の中には誰もいなかった。耳長はただの独居老人になっていた。


                  完

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