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第13話 迂回路Ⅰ 森の外から

世界樹環境管理局・根圏観測部。


 午前8時10分。


 始業時刻を少し過ぎたばかりだというのに、観測室にはすでに何人もの職員がいた。壁一面に並んだモニターには、世界樹の根圏図、地下水位、精霊密度、魔力流量、根脈石生成量といった数字が絶えず更新されている。


 外の窓からは、巨大な世界樹の幹が見えた。


 近すぎて全体像は見えない。ただ灰白色の幹が建物の向こうを塞ぎ、そのさらに上から青白い光を帯びた枝が空へ伸びている。


 エリシア・ヴァーンは、3日前の観測値をもう1度開いた。


 これで6回目だった。


 計測器を変えた。観測地点を変えた。自動補正を切った。過去データとの照合もした。


 それでも同じだった。


「……間違いじゃない」


 独り言のように呟く。


 モニターには世界樹北根圏の魔力流量が表示されていた。


 青い線が過去10年平均。


 緑の線が今年。


 ぱっと見れば、ほとんど重なっている。流量は正常。圧力も正常。精霊密度は基準値内。根脈石の生成量は前年より僅かに落ちているが、誤差と呼んでも問題ない程度だった。


 警報は1つも出ていない。


 行政報告書に書くなら、《異常なし》で終わる数字だ。


 それなのに、エリシアは画面を閉じる気になれなかった。


「まだ見てるの?」


 隣の席から声がした。


 振り向くと、世界樹保全部のリゼルが紙コップを片手に立っていた。乾いた茶色の髪には、本人のものなのか飾りなのか分からない小さな葉が数枚混じっている。


 ドライアドだ。


「見てる」


「昨日も見てた」


「昨日と同じだから見てる」


「同じならいいでしょう」


「本当に?」


 リゼルが椅子を引き寄せる。


「何が気になるの」


「波形」


「流量じゃなくて?」


「流量は正常」


「じゃあいいじゃない」


「だから困ってるの」


 エリシアは別のウィンドウを開いた。


 20年前。


 50年前。


 100年前。


 古い観測記録を順番に重ねる。


 根脈を流れる魔力は、本来なら完全に一定ではない。小さく増え、少し減り、時々大きく揺れ、それから元へ戻る。季節でも変わる。雨量でも変わる。精霊活動や地下水、周辺都市の魔力消費でも僅かに形が変わる。


 エリシアには、それが生き物の鼓動のように見えていた。


「これが50年前」


「うん」


「こっちが20年前」


「うん」


「これが今年」


 リゼルが画面へ顔を寄せる。

 今年の線は綺麗だった。


 綺麗すぎるほどに。


 細かな揺れが消え、平均値の周辺を滑らかになぞっている。


「安定したんじゃない?」


「そう見える」


「良いことでは」


「機械ならね」


 リゼルが一瞬黙った。


「世界樹は機械じゃない」


「そう」


 エリシアは椅子の背へ身体を預けた。


「だから気になるの」


     ◇


 世界樹はインフラではない。


 少なくとも、世界樹環境管理局の公式文書ではそう定義されている。


 巨大生命体。

 精霊生態系の中心。

 広域魔力循環の主要構成要素。


 地下根系は複数の魔力脈と接続し、周囲の土壌、水系、精霊活動に影響を与える。


 魂流路との関連性も指摘されているが、そこは未解明。


 正式には、まだその程度だ。

 しかし実際の社会は、世界樹の周辺機能を大量に利用している。


 精霊通信。

 都市魔力供給。

 根脈石採掘。

 医療。

 農業。

 水循環。

 気候調整。


 世界樹の力そのものを直接抜き取っているわけではない。


 どの事業者もそう言う。


 あくまで周辺に生じる余剰を利用している。


 自然に流れるものを受け取っているだけ。

 だから問題はない。

 そういう説明になっている。


 本人に許可を取ったわけではない。

 そもそも、世界樹に《本人》という言葉を使っていいのかすら、学会ではまだ揉めている。


「北根の採掘所から連絡」


 リゼルが自分の端末を見る。


「何て?」


「最近採れる根脈石、内部循環が弱いって」


 エリシアはすぐに身体を起こした。


「誰が言ってる?」


「鑑定業者」


「業者名」


「金環宝飾系列」


「サンプル送ってもらって」


「もう頼んだ」


「いつ?」


「昨日」


「言ってよ」


 リゼルが呆れた顔をする。


「昨日あなた帰らなかったでしょう」


「いたよ」


「机で寝てた」


「いたじゃん」


「寝てたらいないのと同じ」


 反論しようとして、やめた。


 机の上には昨夜飲んだコーヒーの空き容器が3つ転がっている。


 説得力がない。


     ◇


 別の通知音が鳴った。


《ELF LINK技術部 位置参照異常ログ照会》


「通信?」


 リゼルが覗き込む。


「地図ログみたい」


 添付された資料を開く。

 市内で発生した複数の位置参照エラー。

 存在しない道路が一時的に地図へ表示される。


 端末側には経路情報が届いているが、サーバー上に対応する道路データが存在しない。

 発生時間は数秒から数分。


 その後は自動復帰。


「ソフトのバグじゃない?」


「ELF LINK側も最初はそう見てたみたい」


「違った?」


「複数機種、複数バージョンで同時発生」


「じゃあサーバー?」


「そこも正常」


 エリシアは地点情報を地図へ重ねた。


 中央血液医療院。

 北中央住宅区。

 旧東運河付近。

 世界樹西側。


 他にも数か所。


「……」


「どうしたの?」


 エリシアは拡大率を下げる。

 点と点の位置関係を見る。

 試しに線で結ぶ。


 偶然と言ってしまえば、それまでだった。

 ただ。


 どの線も最終的に、世界樹の方角へ寄っているように見えるのだ。


「これ」


「うん」


「全部、こっち向いてない?」


 リゼルも黙った。


「偶然?」


「分からない」


「またそれ」


「分からないものは分からない」


「学者みたい」


「研究員です」


 エリシアは資料を保存した。

 警報を出すほどの根拠はない。


 それでも、何か違和感を感じていた。


     ◇


 午前9時。

 月次情報共有会議。


 出席者は6人。


 世界樹環境管理局。

 ELF LINK。

 中央魔術大学。

 中央血液医療院。

 都市魔力局。

 世界樹保全部。


 名前だけ聞けば大げさな会議だが、普段はかなり地味だ。


 観光区域の枝落下。

 南根区域の地下水。

 採掘許容量。

 精霊害虫。

 工事申請。


 大抵はそういう話をして終わる。

 最初の議題も、観光区域で起きた小規模な枝落下だった。


 負傷者なし。

 立入規制済み。


 次。

 南根区域の地下水位。

 許容範囲。

 次。

 精霊通信遅延。


 ELF LINKの技術者が資料を出した。


「都市中央部で軽微な位置参照エラーが増えています」


「原因は?」


 都市魔力局の職員が聞く。


「現時点では不明です」


「端末側?」


「複数機種で発生しています」


「サーバー側は?」


「異常なし」


「精霊網そのもの?」


「通信品質は規格内です」


 規格内。

 エリシアはその言葉を聞きながら、朝のグラフを思い出した。

 流量も規格内。

 圧力も規格内。

 精霊密度も規格内。


 何も壊れていない。

 なのに、何かが違う。


     ◇


 次は医療側。

 白衣の吸血鬼が資料を開いた。


 ルーファス・ベルン。

 中央血液医療院の医師。


「根脈循環値に通常と異なる値を示す患者が複数出ています」


 エリシアが顔を上げた。


「何件です?」


「現時点で11件」


「種族は?」


「人間、エルフ、獣人、ドワーフ。共通性は確認できていません」


「地域的な相関は?」


「中央医療圏と世界樹周辺に偏っています」


「症状は?」


「ほぼありません」


「ほぼ?」


「疲労感。軽い頭痛。睡眠の質が落ちたと訴える患者が数名。通常診療なら見逃しても不思議ではない程度です」


「検査機器は?」


「3施設で再検査しています」


「同じ?」


「はい」


 会議室が僅かに静かになった。

 誰も大げさな反応はしない。


 11件。

 症状も軽い。

 感染症と呼ぶには少ない。

 病気と呼ぶには曖昧。


「危険性は?」


「現時点では判断できません」


 ベルンは淡々と答えた。


「ただ、同じ種類の外れ値が複数種族で出るのは珍しい」


「世界樹との関連は?」


「まだ分かりません」


 まただ、

『分からない』

『異常とは言えない』

『規定内』。


 エリシアは、むしろその言葉が増えていることの方が気になった。


     ◇


 大学側の出席者が手を上げた。


 リッチ。

 オルフェン・ライゼ教授。


「過去の観測記録と比較した」


「どこまで遡れます?」


 ELF LINKの技術者が聞く。


「620年」


 会議室の何人かが顔を上げた。


「620?」


「私が途中から記録している」


「本人記録……」


「何か問題が?」


「いえ」


 教授は気にした様子もなく資料を表示した。

 古い紙記録をデジタル化したもの。


 途中から現在の観測方式へ変わっているため、単純比較はできない。


 それでも傾向は分かる。


「現在の流量は正常だ」


「はい」


「濃度も正常」


「はい」


「根圧も許容範囲」


「はい」


「だが」


 教授がグラフを切り替える。

 古い年代で記録されていた波形。


 乱れている。

 今の基準ならノイズとして処理されそうなほど、細かく上下している。


「揺らぎが減っている」


 朝、エリシアが見ていたものと同じだった。


「安定化した可能性は?」


 都市魔力局の職員が聞く。


「機械ならな」


 教授が答えた。

 リゼルがエリシアを見る。

 朝と同じ会話だ。


「生命活動として考えた場合は?」


 ベルンが尋ねる。


「分からん」


「教授でも?」


「分からないから調べる」


 教授は当然のように言う。

 その返事に迷いがない。


「分からないこと自体は問題ではない。分かったふりをする方が問題だ」


 資料をもう1枚。


「ただし」


 教授が世界樹の方を見る。


「620年前の世界樹は、今よりうるさかったと言う事実はある」


「音ですか?」


「比喩だ」


 その瞬間。

 リゼルが僅かに目を細めた。


「……分かります」


 エリシアが振り向く。


「何が?」


 リゼルはすぐには答えなかった。


「最近、静かなんです」


「精霊が?」


「違う」


「じゃあ何が」


 窓の外。

 巨大な幹。

 青白い光。

 いつもと同じ姿。

 リゼルはそこを見たまま言った。


「世界樹が」


     ◇


 会議が終わったあと。

 エリシアとリゼルは北側観測路へ向かった。

 一般観光区域から外れた管理局専用区画。


 古い石畳の参道を抜けると、巨大な根の一部が地表へ露出している。

 近くで見ると、木というより崖だった。

 表面には細かな溝が走り、その奥を青白い光がゆっくり移動している。


 数10m上には管理用の足場。

 さらに上は枝葉に隠れて見えない。


「前に来たのいつ?」


 エリシアが聞く。


「先週」


「その時は?」


「気にしなかった」


「今日は?」


「だから来たんでしょう」


 リゼルは根へ近づいた。

 手袋を外し、掌を幹へ当てる。


 目を閉じた。

 ドライアドが植物とどうやって意思疎通するのかエリシアには分からない。


 言葉ではないらしい。

 音でもない。

 魔力信号とも少し違う。


 本人たちは《分かる》としか言わない。


 1分。


 2分。


 リゼルは動かない。

 風が吹く。

 頭上の葉が擦れる。


 遠くから観光地区のアナウンスが微かに聞こえる。


 世界樹北側展望台、本日の入場待ち時間は約20分。

 日常の声だ。


「どう?」


 エリシアが聞いた。

 リゼルが目を開ける。


「聞こえない」


「何が?」


「分からない」


「前は?」


「もっとあった」


「何が」


 リゼルが眉を寄せる。


「色々」


「声?」


「声じゃない」


「気配?」


「それも違う」


「じゃあ何」


「だから、説明できない」


 少し苛立ったように言う。

 エリシアは小さく笑った。


「今日はそればっかりね」


「あなたもでしょう」


「そうだった」


 笑ったのは一瞬だった。


     ◇


 リゼルがもう1度、幹へ手を当てる。

 今度はさっきより長かった。

 青白い光が掌の下を通る。

 見た目には何も変わらない。


 世界樹は生きている。

 少なくとも、そう見える。

 葉は落ちていない。

 枝も枯れていない。

 魔力も流れている。

 都市へ供給される数字も正常。


「……違う」


 リゼルが小さく言った。


「何が?」


「聞こえないんじゃない」


 エリシアが顔を上げる。


「じゃあ?」


「……いや」


「言って」


 リゼルは掌を離さなかった。

 目だけを開く。

 その表情を見て、エリシアは笑うのをやめた。


「前はね」


 リゼルがゆっくり言う。


「こっちが聞かなくても、勝手にあったの」


「何が?」


「色々。水が多いとか。根が痛いとか。虫がいるとか。暖かいとか。冷たいとか」


「それがない?」


「ない」


「弱くなった?」


「違う」


「じゃあ」


 長い沈黙。


「話すのをやめたみたい」


 風が吹いた。

 巨大な枝が揺れる。

 葉の隙間を青白い光が流れていく。

 外から見れば、いつもの世界樹だった。


     ◇


 その日の午後も、世界は普通に動いていた。

 観光客は世界樹を背景に写真を撮った。

 南口の土産店では世界樹クッキーが売れた。

 神殿には参拝客が並んだ。いつものように学生にひのきのぼうを売りつけている。老人にはやくそうと言うお守りを売りつけている。


 ELF LINKの通信網は、多少の遅延を出しながらも動き続けている


 中央血液医療院では患者が診察を受けた。


 竜宝銀行では住宅ローン相談会が開かれた。


 四脚宅配便は荷物を運び、ミミック自販機は飲み物を売り、大学ではリッチの教授が学生へ課題を出した。


 黒馬交通のタクシーも、いつも通り街を走っていた。


 誰かを病院へ。

 誰かを駅へ。

 誰かを家へ。


 世界樹の根元を通り過ぎても、大半の人間は何も気づかない。


 気づく理由もない。

 電気は点く。

 水は出る。

 通信もつながる。

 魔力炉も動く。

 今日も仕事へ行ける。

 今日も家へ帰れる。

 それなら普通だ。


 社会にとっての《正常》とは、案外その程度のものなのかもしれない。


 観測値も正常。

 設備も正常。

 診断もまだ異常とは言えない。


 だから、

 この時点では誰も。


 世界樹に何かが起きているとは断定しなかった。


 まして。

 世界樹の方が、人々に対して何かをやめ始めているなどとは、まだ誰も考えていなかった。


⸻


第1部 完

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