1939年10月:粛清の影赤い秘書官の消滅
【1939年10月・モスクワ 重工業人民委員部 本庁舎】
モスクワの冬は、乾いた雪が音もなく降り積もる。重工業人民委員部本庁舎の廊下は、いつもより冷たく、そして静まり返っていた。壁にかかる社会主義リアリズムの絵画も、その日の空気の重さに押しつぶされているかのようだ。アンドレイ・ペトロフ、“赤い秘書官”の執務室のドアには、固く「閉鎖」の札がかけられ、その前には見慣れないNKVDの係官が二人、無表情に立っていた。彼らの黒い制服は、部屋の冷気と相まって、威圧的な存在感を放っていた。
数日前、ペトロフはシャポシュニコフに、ドニエプル治水工事の最終報告書を提出したばかりだった。その報告書には、工事の進捗と、それに伴う「余剰資金」の巧妙な処理、そしてドイツのスパイがその「横領帳簿」をいかに信じ込んだかについて、詳細な記録が記されていた。すべては計画通りに進んでいたはずだった。彼は、自身の役割を完璧に果たしたと信じて疑わなかった。
彼の机の上には、飲みかけの紅茶が冷たくなり、まだ読みかけの新聞が開かれたままだった。私物はすべて片付けられ、まるで最初から誰もそこに存在しなかったかのようだった。しかし、彼の同僚たちは、彼が突然姿を消したことを知っていた。そして、誰もその理由を口にしようとはしなかった。彼らの視線は常に床に向けられ、口から出るのは業務連絡ばかりだった。
NKVD本部 地下独房
薄暗い地下独房の狭い空間で、ペトロフは憔悴しきっていた。数日にわたる尋問は、彼の精神と肉体を極限まで追い詰めていた。顔には髭が伸び、目はくぼみ、かつての生気が完全に失われている。彼の目の前には、見覚えのあるNKVD高官が座っている。あの、ドイツのスパイが横領帳簿を持ち去った際の、NKVD本部で嘲笑していた男だ。高官の顔には、一切の感情が読み取れない。
NKVD高官が、冷徹な声で告げた。
「同志ペトロフ。貴殿は、重大な国家機密漏洩の罪を犯した。ドイツのスパイに、不正な金銭の流れを示す帳簿を渡したことは明白だ。」
ペトロフは、かすれた声で反論した。その声は、もはや蚊の鳴くようだった。
「それは…同志将軍の命令で…! 我々はドイツを欺くための作戦を…!」
高官は、嘲笑した。その声には、一切の憐憫も含まれていない。
「命令だと? 我々の記録には、そのような指示は存在しない。君の独断と、金銭への欲望が引き起こした行為だ。同志スターリンの進める崇高な計画を、君の腐敗が危うくするところだった。」
ペトロフは絶望した。自分が国家のために果たした役割が、いとも簡単に反逆行為へとねじ曲げられることを悟ったのだ。スターリンの秘密を知りすぎたこと、そして計画を成功させたことが、彼自身の墓穴を掘ったことを理解した。彼の死は、秘密を守るための、そしてドイツの誤解を深めるための、最後の「演出」だった。彼の存在は、国家の歯車の一部として、利用され、そして使い捨てられたのだ。
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