1938年7月上旬:スターリンの激怒~天然ゴム交渉の決裂と膨らむ疑心~
【1938年7月上旬・モスクワ クレムリン スターリン執務室】
天然ゴム交渉の決裂を伝える報告書が、スターリンの執務室に届いた。簡潔だが冷徹な文面が並ぶ書類を、ヨシフ・スターリンはほとんど読み終えぬうちに、パイプをくわえたまま、机に叩きつけるように置いた。鈍い音が静寂な室内に響き渡る。
「役立たずめが!」
低い唸り声が、彼を取り巻く空気そのものを凍らせるようだった。報告書を持参した通商人民委員部の幹部は、その場に縫い付けられたように立ち尽くしている。
「オランダは天然ゴムの供給を拒否しただと? 理由は何だ? 『国際情勢の不確実性』? 『特定の勢力からの誤解』だと?」
スターリンは立ち上がり、巨大な地球儀に手を伸ばした。彼の指が、かつて栄華を誇ったオランダ領東インド、ゴムの産地であるスマトラ島を鷲掴みにするかのようになぞる。
「ふざけるな! 数ヶ月前には、イギリスは我が国に天然ゴムの輸出を承認しているではないか! 同じヨーロッパの帝国主義国が、自国の植民地で産する戦略物資を我が国に売ることを認めながら、なぜオランダがそれを拒否する? 英国が認めたものを、英国を恐れて拒否するなど、意味が分からん! オランダの腰抜けどもは、自らの『中立』という建前を、ドイツの圧力から逃れるための言い訳にしているに過ぎん!」
スターリンの激しい怒りの言葉が、執務室の空気を震わせた。彼の目は、報告書の行間から、オランダの背後にあるドイツの影、そしてソ連の戦略物資確保を妨害しようとする西側諸国の思惑を読み取ろうとしていた。
「奴らは、我々が天然ゴムを必要としていることを知っている。そして、それ以上に、我々がドイツと戦うために強大な軍事力を築き上げること、特に機甲部隊や航空部隊の整備を望んでいないのだ。」
彼は、憤懣やるかたない様子でパイプを深く吸い込んだ。煙が、彼の冷徹な表情をさらに陰鬱なものにする。
「これが偶然だとでも言うのか? いや、そうではない。これは、我々ソビエト連邦の力を削ぎ、孤立させようとする、国際的な陰謀の一端に過ぎん。奴らは常に我々の敵だ。資本家どもは、決して我々を利するまい。英国の承認も、彼らの都合でいつでも反故にされるだろう。結局のところ、誰も信じることはできん。 我々自身の手で、すべてを勝ち取らねばならないのだ。」
彼の言葉は、単なる交渉決裂への怒りをはるかに超えていた。それは、他国、特に西側諸国に対する根深い不信感と疑心暗鬼が、この出来事によってさらに膨れ上がった瞬間だった。彼は、どのような協定も、どんな取引も、最終的には自国を陥れるための罠であると確信したかのようだった。
「天然ゴムの安定供給を外部に依存するなど、愚の骨頂だった。国内の合成ゴム開発は、喫緊の国家最優先事項とせよ。何としてでも、外部からの供給に頼らず、自給自足の体制を確立するのだ。全ての資源、全ての科学力を、その一点に集中させろ。我々は、奴らに頼ることなく、自らの力で『赤い鉄壁』を築き上げる。」
スターリンの言葉は、国際社会におけるソ連の孤立、そして迫り来る戦争への危機感から来る、国家総力戦への明確な号令だった。天然ゴム交渉の決裂は、ソ連に、より一層の自立と、内からの強化を促す決定的な転換点となった。
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