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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1938年6月:天然ゴムを巡る駆け引き~最終交渉と決裂~

【1938年6月・ハーグ オランダ外務省】


 第一次交渉から三ヶ月。ソビエト連邦とオランダ王国による天然ゴム供給交渉は、再びハーグのオランダ外務省で続けられていた。ソ連側のベレゾフスキーは、前回よりもさらに強い焦燥感を抱いていた。ヨーロッパの緊張は高まる一方で、ドイツの再軍備の速度は、ソ連の想像を遥かに超えていた。一刻も早く、天然ゴムの安定供給を確保する必要があった。


「ファン・デル・ヴァールト閣下。前回の交渉から、我が国の天然ゴムへの需要はさらに切迫しております。貴国がこの状況を理解し、友好的な姿勢で臨んでいただけることを切に願っております。」


 ベレゾフスキーは、声に苛立ちを滲ませて言った。彼は、モスクワからの厳しい指示を受けていた。何としてでも、この交渉を成功させなければならない。彼は、ソ連が提供できる対価をさらに具体的に提示した。


「我が国は、貴国が要望するならば、最新の重工業製品、例えば特定の型の大型工作機械や、鉄道関連の技術、さらには耐寒性に優れた特殊鋼材など、貴国が関心を持つであろう分野の技術協力も検討する用意がございます。」


 ベレゾフスキーは、ソ連が五か年計画で培ってきた工業力をアピールし、オランダの精密機械工業や造船業に魅力的な提案ができると信じていた。彼は、この取引が双方にとってWin-Winであることを強調した。


 しかし、ファン・デル・ヴァールトの表情は、前回よりもさらに硬くなっていた。彼は丁寧に言葉を選びながら、切り出した。


「ベレゾフスキー閣下。貴国からのご提案は、確かに魅力的でございました。しかし、政府内で慎重に協議を重ねた結果、現時点での貴国への大規模な天然ゴム供給は、見送らざるを得ないという結論に至りました。」


 ベレゾフスキーは、耳を疑った。彼の顔から血の気が引いていくのが分かった。

「見送る、とは…どういうことでしょうか? 何らかの障害があるというならば、我々はその解決のために最大限の努力を惜しみません。」


 ファン・デル・ヴァールトは、深く息を吐いた。

「国際情勢の不確実性が、その最大の理由でございます。貴国への大規模な天然ゴムの長期供給は、国際的なバランスを崩し、特定の勢力からの不必要な誤解を招く恐れがあります。特に、将来的な海上輸送の安全性に関しても、不確定要素が多すぎると判断いたしました。」


「特定の勢力」という言葉に、ベレゾフスキーはドイツとイギリス、そしてアメリカの影を感じ取った。オランダは、中立国として、ドイツからの圧力を無視できなかったのだ。もし、ソ連に大量の天然ゴムを供給すれば、ドイツは自らの戦略物資調達に支障をきたすと懸念し、オランダへ強い圧力をかけるだろう。また、イギリスやアメリカも、ソ連への戦略物資の流出を警戒していた。


「それは、貴国がドイツの圧力を恐れている、ということですか?」ベレゾフスキーは、思わず感情的な響きを含んだ声で尋ねた。


 ファン・デル・ヴァールトは、眉一つ動かさずに答えた。

「我々は、あくまで国家の独立と中立を維持することを最優先しております。特定の国家に肩入れすることはできません。また、我々の植民地における天然ゴムの生産は、今後、国内の需要、そしてより既存の信頼できる貿易パートナーへの供給を優先することとなります。」


「既存の信頼できる貿易パートナー」という言葉は、ソ連がその枠外にあることを明確に示唆していた。オランダは、ソ連との取引がもたらすであろう政治的リスクと、既存の西側諸国との経済関係を天秤にかけ、最終的にソ連への供給を見送るという結論に至ったのだ。


 ベレゾフスキーは、交渉の決裂を悟った。彼の目の前には、ソ連の工業化と軍備拡張にとって不可欠な天然ゴムの安定供給が、遠ざかっていく光景が広がっていた。彼の使命は、失敗に終わった。


「承知いたしました。貴国の決定、理解いたしました。」


 彼は言葉を絞り出し、椅子から立ち上がった。握手を交わす手は、互いに冷たかった。天然ゴムを巡るソ連とオランダの交渉は、国際情勢の複雑さと、列強の思惑の中で、静かに、しかし決定的に幕を閉じた。


 ソ連は、天然ゴムの安定供給という悲願を達成できなかった。この交渉の失敗は、ソ連が自国の合成ゴム開発を喫緊の課題として、さらなる加速を余儀なくされる決定的な要因となるだろう。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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