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赤い鉄壁:スターリン要塞で迎え撃て  作者: 柴 力丸


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1938年6月:陸軍将校の失踪

【1938年6月・モスクワ 陸軍総司令部 会議室】


 モスクワの陸軍総司令部会議室は、重々しい雰囲気で満ちていた。窓から差し込む秋の光も、その場の冷気には抗えない。スターリン臨席のもと、来るべき戦局についての上層部のみの秘密戦略会議が行われていた。長机の向こうでは、古参の陸軍将校ニコライ・ザイツェフ大佐が、提出された作戦計画書を険しい表情で見つめていた。そこには、広大な領土を一時的に放棄し、敵を奥深くまで誘い込んでから反撃するという、いわゆる「焦土作戦」と「深縦深防御」の概念が色濃く示されていた。


 ザイツェフは、革命以来、常に攻勢こそが勝利の道だと信じてきた生粋の突撃型軍人だった。内戦の激戦地を幾度も突破し、その勇猛果敢さで名を馳せた彼にとって、「退却」という言葉は耐え難い屈辱だった。彼の目には、赤軍兵士の血と汗が染み込んだ土地を、易々と明け渡すような計画は、裏切りに等しく映っていた。


 会議の終盤、スターリンが静かに意見を求めた。その声は低く、しかし有無を言わせぬ響きを帯びていた。

「ザイツェフ同志。貴官の長年の経験から見て、この戦略に何か疑問はあるかね?」


 ザイツェフは、一瞬躊躇した。室内の張り詰めた空気が、彼の背筋を冷やした。しかし、長年の軍人としての信念を曲げることはできなかった。彼は深く息を吸い込み、重々しい声で反論した。

「同志スターリン。私は、我が赤軍の兵士たちの勇気と愛国心を信じております。一歩も退かずに、敵を国境線で粉砕することこそ、彼らの期待に応える道ではないでしょうか? 退却は、兵士たちの士気を低下させ、敵に領土を無償で明け渡す行為に他なりません!」


 彼の言葉が終わると、会議室は凍りついたような静寂に包まれた。他の将校たちは、誰もが下を向き、息を潜めていた。その場の誰もが、ザイツェフの運命が決定づけられたことを悟っていた。スターリンは、煙草の煙をゆっくりと吐き出し、ザイツェフを鋭い眼差しで見つめた。その目は、感情の一切を排した、冷たい光を宿していた。


「貴官の勇猛さは承知している。だが、戦争は感情だけでは戦えない。時には、戦略的な撤退も必要だ。それは、敗北を意味するものではない。敵をより有利な状況で叩くための、賢明な戦術的機動だ。」


 ザイツェフは、食い下がろうとした。「しかし、同志スターリン…」


 その言葉が最後まで終わることはなかった。突然、会議室のドアが開き、見慣れないNKVDの将校が二人、無表情で入ってきた。彼らは、ザイツェフに向かって一言、「ザイツェフ大佐、同行願います」とだけ告げた。その声には、一切の感情がなかった。


 ザイツェフは、何が起こったのか理解できなかった。彼の顔には、困惑とわずかな恐怖の色が浮かんだ。彼は、周囲の将校たちに助けを求めるように視線を送ったが、誰も彼と目を合わせようとはしなかった。彼らの表情は、無言のまま「諦めろ」と語っていた。


 スターリンは、冷たい声で、その場の全員に聞こえるように言い放った。

「ザイツェフ同志は、戦略的決定に対する重大な異議を唱え、赤軍の規律を乱した。彼の『熱意』は、時に有害となる。」


 ザイツェフは、連行される際、最後にスターリンを睨みつけた。その目は、怒りと絶望に満ちていた。しかし、その視線は、冷徹なスターリンの目に、何の動揺も与えなかった。ザイツェフが二度とこの会議室に戻ることはなかった。彼の存在は、来るべき「大粛清」の波の中で、跡形もなく消え去ったのだ。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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